(5)老人の激昂
「貴様ごとき、一族ともに破滅させてやる!! 後悔するがいい!!」
……書斎の中から聞こえてくる蔵人老人の声。その迫力と内容に、無関係な僕の背中にまで冷や汗が流れた。
蔵人老人のもとには、二週間に一人くらい客人が訪れる。
あまり詳しくは確認できていないが、立派な身なりをした銀行員や、どこかの企業の重役らしき人々がやってきては、みな蔵人老人に怒鳴られていく。
そう、隣で聞いていて特に問題のなさそうな話し合いにおいてすら、蔵人老人は言いがかりのような理由で相手を怒鳴りつけていた。
とはいえ……いまの怒号はものすごい。初めて聞く調子である。
蔵人老人にちょっとした用があって書斎の前まで来たものの、来客がまだいることを知り退散しようとしていた僕は、その場で思わず棒立ちになってしまった。
「お、お慈悲を、お願いですお慈悲を、黒川様!」
「黙れ!! さっさと出て行け!!」
そんなやりとりが聞こえてくる中……
玄関チャイムが鳴った。
蔵人老人が誰かと面会するときは――僕の面接のときにそうであってように――リツが必ずその場に同席する。来客には僕が対応するしかない。僕は慌てて台所前にあるインターフォンを手に取った。
液晶画面が玄関前の様子を映し出す。僕はそれを見て、軽いパニックになってしまった。
玄関前には、制服姿の警官が二人立っていた。
『……黒川様、黒川様』
警官がスピーカー越しに呼んでくる。
僕は慌てて返事を返した。
「は……はい。どういったご用件でしょうか?」
『お呼びに従い、ご来客を引き取りに参りました』
「来客を……?」
意味がわからず戸惑いながらも――僕はひとまず安堵した。
どうやら、蔵人老人を逮捕しに来たわけではないらしい。
「えっと、では主人に確認を――」
そう断って、蔵人老人に判断を仰ごうと思った、そのとき。
「さっさと通せ、連れてこい、白井!」
「は、はい!」
老人の怒号が廊下を渡って響いてきた。
僕は慌てて開門操作を行い、玄関までやってきた警官を迎え入れて、書斎に向かいながら――彼ら警官を呼んだのは蔵人老人なのだろうな、といまさらに考えた。
『後悔するがいい!』
そんな、老人の言葉が思い出された。
「……蔵人様、警察の方がお見えです」
「入れ」
老人の言葉を受けて書斎の扉を開ける。
そこには、怒り心頭といった様子の蔵人老人、その隣に控える冷静な表情のリツ、そして床の上にうずくまり肩をふるわせて、どうやら泣いているらしい壮年男性がいた。
「とっとと連れて行け! この世の地獄を見せてやるのだ!」
「はい」
……僕は耳を疑った。老人の過激な言葉に警官が……「はい」とはっきり頷いたのである。
警官が何か聞き間違えたんじゃないか。そんな僕の考えを否定するように、蔵人老人がリツに尋ねた。
「いまの返事、嘘じゃああるまいな!?」
「はい、彼らは嘘をついていません。確かに、おじいさまの言葉に従うつもりです」
僕は……『公権力が私的に用いられる』という、まるでドラマのようなその光景を目の当たりにして、身体の震えが抑えられなかった。
嗚咽を漏らす男を警官たちが引きずっていく。
本来は彼らを玄関まで見送るべきなのだろうけれど……僕はその場に立ったまま、一歩も動くことができなかった。
肩で息をついている蔵人老人は、机の引き出しから取り出した錠剤を水と一緒に飲み込んでから、いま初めて僕の存在に気づいたかのようにぎょろりとした瞳をこちらに向けてきた。
「まだなにか用か、白井!」
「は、はいッ!」
腹の底が冷えて震えて、下半身が縮み上がる。
ただ、確かに僕は蔵人老人に用があった。僕は恐怖に近い感情に襲われながら、回らぬ舌で応えた。
「きゃ、客間のベッドを、動かして、掃除をしておりましたら、こ、これが……だから、お届けに、と……」
ポケットから、折りたたまれた一万円札を取り出す。とある客間のベッドの裏側に挟まっていたものである。
当然のこととして見つけたお金を届けた僕は、それに対して蔵人老人がどんな反応をするかなんて想像もしていなかった。
果たして、老人は――先ほどの男に向けたそのままの激高を、僕に対しても向けてきた。
「本当にそれで全部か!? いくらか抜いてはおるまいな!?」
「は、はい、見つけたのはこれだけです」
「貴様さては、盗もうと思ったんじゃないのか!? そうだろう!?」
「ま、まさか!」
なぜそんな疑いを!? まるで理解できなかった。
そもそも事実として、僕はこうしてお金を届けている。盗もうと思ったなら盗んでいる、思わなかったからこそ届けているのだ。
だが、そんな理屈は蔵人老人には通用しないようだった。老人は血走りぎょろついた瞳で、疑わしげに僕のことを睨みつけてきた。
「本当か!? ――リツッ!!」
「…………ッ」
――ドキン、と。
痛みに似た収縮が心臓に起こった。
視線をゆっくりと動かし、老人の隣にたたずむリツを見る。
彼女は……じっと、僕を見ていた。
僕の心の底を見据えるように、無表情に、まっすぐと……
……僕は、お金を盗もうなんて思っていない。絶対に思ってなんかいない。
そう、僕は嘘なんてついてない、ついてないんだ。
それでも、なのに、どうしてなのか。
僕は…………僕はその瞬間、はっきりと思ってしまった。
彼女のことが。
リツのことが。
――怖い、と。
……すっ、とリツが顔を伏せた。
僕から視線をそらすように。
僕からその表情を隠すように。
そんな彼女の仕草に……僕は激しいショックを覚えた。
ああ、ああ僕は――彼女を怖いと思ってしまった。
最低だ、自分にやましいところがなければなにも恐れることなんてないのに。彼女のことが怖いというのなら、それはすべて僕のせいなのに……!
脳裏に焼け付くような激しい後悔、自己嫌悪。
そんな気持ちに苛まれる僕に向かって、リツが顔を上げた。
目が合う。そこに感情は読み取れない。すぐに目を逸らされた。
リツは淡々と老人に告げた。
「白井さんは、嘘をついていません。盗もうなんて、思っていません」
その言葉を受けて、老人が改めて僕を見た。
「……ならいい」
そう告げる老人の表情は――まるで憑き物が落ちたかのように険のとれたものだった。
その瞬間、部屋の空気のすべてが入れ替わったかのように感じられた。
全身が軽い。知らぬ間に耳の奥に籠もっていた雑音が、ふっ……と遠ざかる。
僕の全身に、じんわりと安堵が広がってきた。
「やはり白井は、あんなゲスとは違うな」
「あんな……?」
蔵人老人が漏らした言葉に、思わず聞き返す。
すると老人は満面に深い皺を刻んだ、マグマのような笑顔で言ってきた。
「さっきの男だ。奴め、自分の追証にワシの金を摘まみよって。たかが二百万だからといって、金額なぞ関係あるか」
「あ……なるほど。じゃあ、彼は横領で逮捕されたんですか」
さきほど見た衝撃的な出来事――警官が蔵人老人の命令通りに男を連れて行くという光景に、それなりに常識的な、法律的な裏付けがあったことに僕は安堵した。
が、それは大間違いだった。
蔵人老人はつまらなそうに言った。
「逮捕……? 馬鹿馬鹿しい、警察を使ったのは単に面倒が少ないからだ。奴の行き先は裁判所や刑務所じゃあない。永遠に日の光の当たらぬ劣悪なタコ部屋に叩き込み、まともに動けなくなったら生きたまま臓器の提供者よ――奴の家族も全員な。ああ、もし女家族や連れ合いがおれば、よりいっそう悲惨にもなりえるぞ、ふふ」
「……は?」
……老人が楽しげに語る内容は、あまりにも非現実的なものだった。
しかしそのしゃべり方はとても冗談とは思えないような――リツが不快げな表情で奥歯を噛むのを見て、ますます確信するほどに――激しいおぞましさを覚えるものだった。
目の前の老人、その皮膚の下に潜んだ怪物の姿を幻視する。僕の全身に鳥肌が立った。
老人は僕から受け取った一万円札の皺を伸ばしながら、言った。
「ワシの金に手を出す奴は、絶対に許さんよ」
第1幕の前半はここまでとなります。
以降は一日に一話ずつ更新予定です。
よろしくお願いいたします。