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少女型嘘発見器  作者: 阿智工事
【一幕/六か月前/『少女型嘘発見器』】
5/25

(4)少女との約束

「白井!」

「はい、ただいま!」

 大声で応えてから、大きな音を立てないよう早歩きで書斎に向かう。

 ノックをしてから扉を開けて、一礼。

「失礼します。お待たせいたしました」

「遅い」

 僕が丁寧に挨拶をすると、蔵人老人の激高はすこし和らぐ。

 僕は書斎に入るとすぐに部屋中を見回し……蔵人老人が日頃はしないメガネをかけていること、手元に書類の他に判子と朱肉が出ていること、そして何より老人の全体的な雰囲気から察して、本棚から法律用語辞典を抜き出した。

「法律用語辞典だけでよろしいですか? それとも……」

「ん」

「では、青色の名刺ファイルで?」

「…………」

 老人の無言を読み取り、本棚から取り出した青色の名刺ファイルと辞典を一緒に老人の机まで持って行った。

 その際に卓上の様子を確認する。ほとんど空になったグラスに水差しから水を注ぎ、ついでに水差しの表面に浮かぶ結露した水滴をぬぐってから机を離れた。

「では、失礼します」

「うん」

 老人が書類に集中したまま頷く。

 この頷きは、もう下がってもいいという意味である。

 扉を開けて退出する際、老人が言った。

「すまんな、白井」

「…………いいえ」

 小さな声でそう応え、廊下に出て扉を閉めてから……

 僕は目を丸くした。

 初めて……蔵人老人に初めて……礼を言われてしまった。

 季節は巡り、十二月。僕がこの屋敷で働き出してから三ヶ月が経っていた。


 僕は自分でも意外なほどに、蔵人老人の世話を上手くこなせるようになっていた。

 それがリツの協力によるものなのは疑いようがない。

 蔵人老人の心を読んで世話をしてきた彼女には、的確で確実な経験、ノウハウの蓄積があった。僕は彼女に、蔵人老人がなにを見てどう思うのか、どうしたいときにどう振る舞うのかを教わり、それを自分なりの観察と組み合わせることで短期間のうちに老人の心情を察することが出来るようになっていた。

 それにしても――蔵人老人に礼を言われるというのはまったくの想像外だった。

 僕はどこか上の空のまま廊下を歩き……ふと窓の外、庭先でリツが洗濯物を干しているのに気がついた。

 僕は勝手口に用意された自分用の靴を履いて外に出ると、リツの元まで行って洗濯物を手伝い始めた。季節は冬で、風は冷たい。早く終わらせてしまったほうがいいだろう。

「……大丈夫です。あなたには、別の仕事があるでしょう」

 僕が手伝い始めるとすぐに、リツは例の、首を斜めに傾けて明後日の方向へ上目遣いをするような表情でそう言ってきた。

「後からで大丈夫だよ。早く済ませちゃおう」

「……でも」

「遠慮しないで、僕がどう思っているか――面倒だなんだと思わず、ただリツちゃんを手伝いたいと思ってるだけだって、わかるだろう?」

「………………」

 リツは目を細めながら俯いて、黙り込んでしまった。

 最近、こういう沈黙が多い。

 リツは僕に対してなにかを言いかねているようだった。……と、僕がこう思っていることも彼女には伝わっているはずで、それでも何も言わないということは、彼女にとってそれはいま言うべきことではないのだろう。

「…………」

 リツの手が止まっている。僕が余計なことを考えすぎたせいかもしれない。

 僕は目の前の洗濯物に集中するように心がけた。リツも作業を再開する。

 三人暮らしの洗濯物はそれほど多くは無い。程なくして洗濯かごが空になった。

「じゃあ、中に戻ろうか」

 僕がそう言って歩き出すと――

 袖を引かれた。

 振り向くとリツが僕の袖を握ったまま、僕とはズレた斜めの方向を向いて俯いていた。

「リツちゃん?」

「……私が怖くないんですか?」

 それは以前に訊かれたのと同じ質問。

 だが、それを口にする彼女の表情は以前とは異なるものだった。

 どうやら彼女はこの質問に僕がどう反応するかに、大きな不安を抱えているらしい。

 とはいえ、彼女に対して嘘はつけない。僕は正直に応えた。

「前に言った通りだよ。能力自体に対する怖さは感じるけど、リツちゃんは怖くない」

 ……彼女にはこれが本心であると伝わっているはずだった。

 だから僕はそれ以上何も言うことなく、ただ彼女の反応を待った。

 リツは、斜めの方向に俯いたまま唇を噛むようにして、口元をもぞもぞと動かした。

 なにか言おうとしているのかと思った。だが、違った。

 リツの口元の動きは、やがて柔らかな花がそっと開くかのように――あたたかな笑みへと変わった。

 どうやらさきほどの口元の動きは、笑うのを我慢していたらしい。

 初めて見た彼女の笑顔。

 すぼめた唇に小さな笑みを浮かべ、照れたような上目遣いをこちらに向けてくる。

 それはとてもかわいらしい、素敵な表情だった。

「……ありがとう、ございます。いままでに、うちで雇われた人はみんな、一ヶ月と経たずに、心の中で私のことをバケモノと恐れながら、逃げるみたいに、辞めていきました。白井さんみたいに……普通に接してくれる人に会ったのは、初めてで……」

「そう? でも蔵人さんみたいに――」

「おじいさまは私に対して、口でも心の中でも『役に立てば養ってやる』としか言いません。そういう人ですし、私にとってその割り切り方は、気が楽でした」

「……え?」

 役に立てば、養ってやる……? 実の孫娘なのに……まるで、道具扱いじゃないか……

 ショックを受ける僕に、彼女は困ったような笑顔で言ってきた。

「私だけじゃなくて――周りの人たち全員を、道具のように思ってるんです。厳しい人ですけど、悪い人ではないんです」

 周りの人たち全員……? それってつまり――僕のことも?

 疑問に思うと、リツが小さく頷いた。そして、立ち尽くす僕に背を向けて歩き始めた。

 ……風が冷たい。そんなことが急に思い出されて、僕の身体がぶるりと震えた。

 と、数歩離れた位置でリツが立ち止まり、こちらを振り返る。

「あの……」

 斜め下を向いたまま少し口ごもる。それから控えめに視線を持ち上げ、僕の目をの端を見つめながら、ぎりぎり風に飲まれない程度のかすかな声で言ってきた。

「……白井さん、辞めないで、くださいね」

「え」

 ……驚いた。

 僕は自分が彼女にどう思われているのか、いまいちわからずにいた。もしかしたら嫌われているのではないか、あるいはほとんど眼中に入っていないのでは、とさえ思っていたのだが……辞めないでというその言葉は、とても意外で、そしてとても……嬉しいものだった。

「……うん。辞めないよ、リツちゃん。自分でも意外なくらい、ここでの仕事は僕に向いてるみたいだから」

「…………っ」

 僕の答えを聞いたリツは再びその口元に不慣れな笑みを覗かせた。そのままこちらに背を向けて、足早に去って行く。

 僕の心が、何ともいえず温かくなっていた。たとえ蔵人老人に非人間的な一面があったとしても、リツさえいれば、僕はここでうまくやって行けるに違いない。

 このとき、僕は、そう信じていた。

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