(1)僕の日常
「白井!」
――今日も屋敷中に、蔵人老人の大声が響き渡る。
「はい、ただいま!」
無限にあるかのように連なる客間の清掃をしていた僕は、叫ぶように応えてから全力で廊下を駆けた。そうしてそのまま、蔵人老人の書斎へと飛び込んで行く。
「遅いぞ、白井」
「は……はい、申し訳……ありません」
息を切らしている僕を、蔵人老人はいつも通りの不機嫌さで出迎えた。
「そ、それで……どう、しましたか?」
「見ればわかるだろう!」
「は……えっと……」
蔵人老人の周囲を確かめる。
見ればわかると言われても……窓から西日は入っていないし、蠅が飛んでいる様子もない。温度、湿度も問題無いはずだし、片付けるべき資料が山積みになっているわけでもない。机の上のパソコンは……
……そろりそろりと近づいてパソコンの様子を確かめようとする。と、蔵人老人はひどく苛立たしげに声を張り上げた。
「水がないだろうが! 汲んでこい、この馬鹿者が!」
「あ、は、はい! 申し訳ありません!」
僕は老人の机の上にあったガラスの水差しを手に、書斎を飛び出そうとした。
すると、背後から再び老人の怒号が響く。
「グラスも取り替えんか! 気をきかせい!」
「は、はい! も、申し訳ありません!」
慌てて引き返し、グラスも持って書斎を駆け出す。
「室内を走るな、無礼者めが!」
「は、はい! も、申し訳――あ」
走るのをやめて早歩きにしようと、足のテンポを切り替えた。その瞬間、手元が滑ってグラスを取り落としてしまった。
「ッッッ!!」
グラスは分厚い絨毯の上に落ち……ゴト、と鈍い音を立てた。
生きた心地もせずに慌てて拾い確かめる。果たしてグラスは欠けることもなく、ヒビも入っていなかった。
ほっ……とする僕のすぐそばに、老人の卓上にあった分厚い本が勢いよく飛んでくる。
「ひっ――!」
「愚か者めが! もしも割れていたら、弁償はせずともいい、代わりに貴様の私物を残らずたたき壊してやるからな!」
「は、はは、はい! 申し訳ありません!」
「本を戻せ!」
「は、はい!」
部屋を飛び出そうとしていた僕は再び踵を返すと、自分に向かって投げつけられた分厚い本――独語辞書を老人の卓上に戻し、可能な限りの早足で書斎を後にした。
「…………はぁ~」
書斎を十分に離れたところで、僕はようやく息を吐いた。
雇われてから二週間、ほぼ毎日がこれだった。
掃除や洗濯は好きだから、リツと――この屋敷には、蔵人老人以外には十五歳の孫娘である彼女一人だけしか住んでいなかった――彼女と一緒に家事をこなすのは苦では無かった。だが、ひとたび蔵人老人に呼び出されるとひどく叱られてばかりだった。
今回の本は幸いにして身体に当たらなかったが、いつもそうとは限らない。僕の身体には、辞書や杖の形をした青あざがいくつも出来ていた。
冷や汗をぬぐいつつ、数十人分の給仕が出来そうな広々とした台所でグラスと水差しを洗う。さらに水を汲もうとすると――
「――おじいさまは、水道の水は飲みません」
「え」
振り返ると、台所の入り口にリツが立っていた。長い黒髪に、私服であるらしい古風なセーラー服がよく似合う、美しい少女。彼女も客間の清掃をしていたはずなのだが、それを中断して、わざわざ僕の様子を見に来てくれたようだった。
彼女は僕に視線を向けることなく、どこか床の一点をじっと見つめたままに言ってきた。
「おじいさまは、裏庭の井戸で汲んだ水しか飲みません」
「裏庭の……ああ、そういえばポンプがあったっけ」
台所には、裏庭に通じる勝手口があった。一人分のサンダルも用意されている。ここから汲みに行けばいいのだろう。
「ありがとう、リツちゃん。また怒られてしまうところだったよ」
「……いいえ」
リツは無表情に応えた。
彼女は表情が希薄だった。口数も少ない。
彼女はこの家の家事についてすべてを把握しているらしく、掃除から炊事洗濯、その他老人の世話のあれこれについても細かく僕に教えてくれた。態度こそ淡々としていたが、その教え方は丁寧で、無表情の奥にある親切な心根を感じさるようなものだった。
しかし……学校に行っている様子がない。どういう生活を送っているのだろう?
「学校は、おじいさまが必要無いからと。勉強は、一人でも出来ますから」
「え?」
……僕はいま、口では何も言っていない。
学校のことは、ただ頭の中で考えただけだ。
それなのに……彼女はまるで、僕の心の声が聞こえているかのようにその疑問に答えていた。
「……あ」
リツはハッとした様子で口元を抑えると、早足で逃げるように去って行った。
僕はそんな彼女を見送りつつ……この屋敷に初めて面接に来たときのことを思い出していた。