(10)嘘
僕は、もう少しだけ……もう一日だけ明石を待とうと思った。
逃げだそうと思わなかったわけじゃ無い。でも警察という国家権力さえ自在に操る蔵人老人から逃げられるとは思えなくて……激しい恐怖が僕の足を引き留めた。
そう、もう一日だけ……せめてもう一日だけ……
だって、老人がお金が無いことに気づくまで、多少の猶予はあるんだから。
……そのときの僕は懸命に、そう信じようとしていた。
「白井!」
「は、はい!」
翌朝早く、老人の呼び声にいつものように答えてから、書斎に向かって走り出す。
走りながら、リツの行動パターンを思い浮かべる。リツはこの時間、いつも洗濯か食事の用意をしている。少なくとも蔵人老人の書斎にはいないはずだ。書斎にリツが立ち入るのは、来客時のみと決まっていた。
「失礼します」
そう告げて書斎に入る。
そこにはリツが居た。いままでに見た中でも最悪に近い怒りの表情で僕を睨み付ける蔵人老人の傍らに立って、静かに僕を見つめていた。
「…………ッ!」
リツを認識したときにはもう、僕は書斎に踏み込んでいた。
パニックに陥りかける僕に、老人が言う。
「白井、お前に対していまさら多くは語るまい。ワシに逆らえばどうなるか、わからぬはずがなかろうよ」
抑えられた声量の、しかし限りなく怒気の張り詰めた恐ろしい声音。
「っ、ぁ……っ」
横隔膜が痙攣し、呼吸の仕方が思い出せない。
胸が痛く、喉がキツい。口から漏れるのは掠れきったあえぎ声。
耳の奥がガツンガツンと鳴っている。
全身が寒くて寒くてたまらない。なのに、汗が噴き出て止まらない。手足の先が冷え切ってずきずきと痛んでいる。天地の感覚はとうに失われ、僕はいまにも世界からこぼれ落ちてひっくり返りそうだった。
そんな僕に老人が言った。
「ただ一つ聞く。ワシの金が消えた。…………貴様かッ!?」
座ったままの老人が、鼓膜がしびれる程の大音声を発する。
僕の視界の中に、よくわからない白い光がちらつき始めた。
頭が痛い。呼吸が出来ない。息が苦しい……苦しい……ぃ
「白井ッ!!」
「……ぼ、僕、は…………は……」
ツバを飲み込む。その喉の動きに合わせて耳の奥がぐぼりと蠢き、脳にぬるい痛みが走った。僕は短い呼吸と震える吐息を繰り返しながら、歪な口調で答えた。
「僕、は……な……にも、知り……ま、せん」
「――本当か!? リツ‼︎」
ッッッ!!
僕は息を止め、リツを見た。
リツは。
リツ、彼女は。
僕を、見てはいなかった。
いつもの、斜めを向いた無表情で。
ただじっと、どこか明後日の方向に、視線をさまよわせていた。
そう、さまよわせていた、のに。
それなのに、なのに。
それが、なぜか。
なぜか、なぜなのだろう。
ああ、リツが――
――リツがまっすぐにこちらを見て、にっこりとほほえんだ。
そして言う。
「白井さんは嘘をついていません。彼は、本当に何も知らないようです」
「……っ」
全身が一度、ぶるぶるっと激しく震え……
……その余韻が抜けるに従って、全身が端から順に弛緩して行く。慎重に吸い込んだ息を、ゆっくりと吐き出したときにはもう、目に映る世界はいつもの表情を取り戻していた。
書斎はただの書斎であり、老人はただの老人だった。
改めて、呼吸の仕方を思い出す。
深く吸い込んだ空気は胸の奥まで行き届き、酸素が全身に行き渡る。
蔵人老人が素っ気ない視線で僕を見る。そのまま、落ち着いた口調で言ってきた。
「――ならばいい。白井、今日も変わらず仕事を頼んだぞ」