(9)ある夜明け
……目が覚める。
いつもの通り、黒川邸のベッドの上で。
――僕は昨日の出来事がすべて夢であることを、半ば本気で信じようとした。あんな、暗い書斎の中で手にした札束の乾いた感触なんて、妄想の産物であるのだと……
でもそれは無理な相談だった。昨夜の出来事の生々しい温度がいまだ体内に残っている。
明石はお金を受け取るとそのまま屋敷を飛び出していった。今日の夜までに、僕にお金を返してくれることになっている。片道一時間半の東京都内が目的地とのことだった。
ベッドから立ち上がり、鉛のような意識に空気を送り込むために、深呼吸をする。
僕は、ぐっと気を引き締めた。
今日、僕はなんとしても――リツに出会わないようにしなければならない。
今日一日、たった一日だけ彼女に遭遇しなければ、彼女に真実を知られなければ……今夜中に蔵人老人の机にお金を戻して、僕はそのままこの仕事を辞めるつもりだった。そうすれば事態が露見する恐れは無い。リツとの関係が悪化している今ならば、僕が唐突に、逃げ出すように辞めたとしても不自然さはないはずだ。そう、これまでに雇われた使用人は皆そうだったと、リツが言っていた。
……リツの言葉と表情が、脳裏に蘇る。
『――辞めないで、くださいね』
……不意に、激しい吐き気に襲われた。
僕は洗面所でしばらく胃液を吐いてから、懸命に身なりを整えた。
そしてリツに出会わないように注意しながら老人の書斎に向かった。
蔵人老人は毎日、朝食前から書斎で仕事を始めるのが常だった。僕は老人に会って、庭仕事か買い出しか、とにかくなにか外での仕事を買って出て、今日一日屋敷から離れていられるようにするつもりだった。
……老人に不審がられることなく、目的通りに話を持って行かなければならない。もししくじって、勘ぐられ、リツを呼ばれでもしたら…………寒々とした不安に全身がこわばったが、僕は自分に大丈夫だ、きっと大丈夫だと言い聞かせ、足の震えを抑えきれないまま、なんとか老人のいる書斎へと入室した。
そんな僕に、蔵人老人はまったく予想外のことを告げてきた。
「今日一日、リツは屋敷におらん。あいつの分まで仕事を頼むぞ、白井」
「……は?」
思わず惚けたように口を開ける。
書斎に入った僕に老人は第一声で、リツがいないと言ってきたのだ。
「……それは……なぜ?」
「なに、そう驚くな。貴様が来てからは初めてのことだが、以前はたまにあったのだ。単なる休暇、誰の心の声も聞こえない、人気のない場所へ行って気を休めるらしい。こうも突然思い立つのは珍しいが、役目に支障が無くば好きにさせる。夜遅く、街から人気が無くなった頃に帰って来るが出迎える必要も無い。貴様は常の仕事を全うしろ」
「…………」
「……白井?」
「は、はい! わかり……ました」
僕は頭の中がチカチカと明滅を繰り返すかのような異様な興奮に見舞われていた。
リツがいないなんて……なんて……なんて、幸運なのだろうか。
「で……では、朝食の用意をして参ります」
「うむ」
僕は老人に向かって頭を下げ、懸命に平静を装いいつつ書斎を退出した。
ドアを出た瞬間……僕は一気に脱力し、めまいを覚えた。
気付かぬうちに汗だくになっていた額に手をあて、倒れそうになるのをぐっと堪える。
そのとき、僕の表情には――確かに笑みが浮かんでいたに違いない。自らの保身を喜ぶ、いやらしい笑みが。
思えば、昨日の夜。あのときの僕の態度が――廊下を挟んで死に神にでも遭遇したかのようにリツに怯えたあの態度が、彼女に休暇を思い立たせた原因なのかも知れない。そう考えると罪悪感を覚えもしたが……しかしそれより遙かに大きな安堵と喜びとを僕は感じていた。
このまま夜になって、明石がお金を持ってきたらそれを机に戻して、リツに会うこともなく姿を消して……それですべて、上手くいく。そう、すべて、すべてが……
……結論から言う。明石は二百万を持って姿を消し、二度と戻っては来なかった。