i×1
窓から差し込む夕日が、教室を茜色に染める。今は冬に差し掛かろうとしているからか、日中高度は日に日に落ちて行き、夏にも増して教室は明るい。カーテンを締めればいいだけの話だが、僕の学校は掃除の際にカーテンを開け、その状態にするのが義務付けられているためわざわざ閉めようという気も起きない。何にせよ、この夕焼け色の教室には僕ともう一人しかいないのだ。相手も別にそういう気もないようなので、気にしないことにしよう。そう思っていると相手、彼が話しかけてくる。
「なあなあ、どうなんだよ。感想言ってくれるんだろう」
その言葉に夕日に当てられていた僕の心は我に帰る。夕暮れを見ると不安になったり、周囲の喧騒に影響を受けてソワソワしたりする「夕暮れ症候群」なるものがあるらしいが、目の前のものを見た今ならなってみたいとも思えてしまう。なにせ不安になれたり、ソワソワできたりするのだから。これほどの嫌悪感と帰宅欲を打ち消せるなら、「夕暮れ症候群」だろうが「アスペルガー症候群」にだろうが、なって見たいとさえ思う。何故なら僕の目の前に広がるのは作文用紙とそこにびっしりと書かれた読書感想文なのだ。
「……うー……んと……」
改めてその文章を推敲してみる。彼らしい女子顔負けの丸文字で書かれている読書感想文は、先日出された現代文の課題のものである。『昔読んだ童話、寓話、昔話について客観的に感想を書く』というものだ。まあ物は試しに、僕の感情を共有させられてみてはどうだろうか。
北風と太陽を読んで
1年 3組 20番 氏名 箕浦 誠
この話は、ある旅人のコートを脱がせることを北風と太陽が競争し、力づくで脱がせようとする北風は失敗に、自ら脱がせるようにした太陽は成功したことから、物事はやりようによって失敗にも成功にもなりうるのだという教訓を説く話である。だが、それは本意なのだろうか。そこに作者の隠れた意図はないのだろうか。
「大小」「高低」などの反対の意味の漢字が合わさってできるニ字熟語は他にもたくさんある。そしてそこには順番があるのだ。列挙する限り順番というものはついてくるものであるから、何か意味があって配置されているのだ。
「優劣」という単語が一番わかりやすいと私は思う。優れることは前に、劣ることは後ろにあることから、日本の言語的価値観ではそういう順番が無意識のうちに固定されてきたことがわかる。大小や高低、表裏など、実際世間一般でプラスイメージのあるものは前に来ている例が多い。
これは童話や寓話、昔話のタイトルについても言えるのではないか。「アリとキリギリス」はコツコツ努力する蟻に対して、怠惰なキリギリスを対比させているし、「美女と野獣」も美女の方がプラス、野獣の方がマイナスのイメージを持っている。
では、どうしてこの「北風と太陽」は実際に勝利した太陽が前、すなわち優れてる方ではなく、太陽に負け、太陽に比べて劣ると書かれた北風が前にあるのか。おそらく、北風にはあって、太陽にはない何かが重要であると作者が考えているからだろう。
私は、北風のような「まず吹き飛ばしてみよう」という行動力が真に説きたいものだと考えた。現代の人間の傾向としては、とりあえず様子見や、草食系男子など積極性に欠けているところがある。確かに失敗してしまうかもしれないとしても、まずやってみるという思い切りの心が失われているのではないか。作者は太陽のような「じっくり考え、効率的に」よりも北風のそういうところが大事なのではないかと考え、タイトルにしたのだと思う。人に合わせるような自我のない人間よりも、積極的な人間がいつの時代でも必要なのだ。
……ナンダコレハ
「とりあえず……、やっぱお前頭おかしいんだな」
「何をいうか。人がせっかく書いたものを」
「自分がめちゃくちゃなこと言ってんのわかんないのか……」
そう、彼はおかしいやつなのだ。基本時には平均を体現したようなやつなのに、妙なところで頭が回る。何も言ってないのに「お前の好きな人は……あの人か!」と当ててくるし。「ここはこう考えたらわかりやすいな」とお節介を焼くし。妖怪め。
……まあとにかく、この作文は彼の狂気っぷりをよく理解してもらうのに十分だろう。そして、一般の男子高校生をも体現したような彼であるから、彼は見事に作文を忘れ、こうして日が落ちていく今の今まで、僕を伴って作文を書いていた。
……いい迷惑だよ。
この際、このひねくれた作文について文句の一つや二つ、三つ四つ五つ言ってやろうじゃないか。人を待たせたのだから、それなりのことをしても八百万の神様もお許しになるだろう。これで何かのバチにあたるなら、この妖怪も道連れにしよう。そうやって決心した僕が、こんなに待たされる間に辛口批評家になって……いるわけもなく、
「まずな、話の展開がおかしいだろ!なんで童話とかの話から漢字の話になってんのさ」
「新聞のコラムとかでよくあるだろー。急に話飛ぶとか。……センスあるよな」
「ないだろ……。あと、『優れることは前、劣ることは後ろにある』ってあるけど、違う単語結構知ってるぞ。損得とか。タイトルだって他にも『ウサギとカメ』とかあるじゃん」
「細かいこと気にすんなよなー。大事なのは発想力だろ。就職の面接とかだって、突飛な発想ができるやつの方がいいって聞くし」
それからも、叩けば埃が出てくるような彼の読書感想文に、一点一点疑問をぶつけていくもひらりひらりと全てかわされていく。そこがまた、彼の強いところだ。彼は自分の世界を曲げない。自分の世界を広げることはあっても、縮めることはない。周りの意見を取り込むことはあっても、吐き出すことはしない。そうやって彼の生命誕生以来、拡大を続けた彼の世界は今こうして僕の目の前に立ちはだかっているのだ。
そして彼のこの台詞。
「想像できることは、全て現実なんだ」
「またそれかよ。もう何回目だろうなー」
「いい言葉だろ。ピカソ大先生に敬礼!」
手を頭につけ、にっこり笑ってみせる彼を僕はどこか空々しく思った。かのなんちゃらピカソの名言らしいが、マイナーすぎて自分で作り出したのかとも思える。……イタすぎる。想像は現実。今まさにイタい彼の世界は広がり続けている。
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「ドッペルゲンガーって知ってるか?」
「そうだね、名前くらいは」
作文を書き終えた彼と僕は放課後の教室に残り、雑談に興じていた。まあ、雑談とは言っても僕が彼の話を一方的に聞いて、相槌を打つ程度なのだが。元から僕は聞き上手なところもあってか、全然苦にならないのが不幸中の幸いといったところである。なぜなら、彼のする話は偏りが大きいからだ。あらゆる奇々怪界、魑魅魍魎。そんなものばかりだ。それだけならただの物知りで済むのに、彼は違う。自分の解釈だとか想像だとかを交えて僕に吹き込むのだ。並の人間なら嫌気がさすだろう。こうして僕だけが相手にしているのが何よりの証拠だ。
ドッペルゲンガーなどの類である、未確認なところの話は彼にとっては自分の庭だ。まともに聞いていたらきっと思考が彼と同一のものになり、日常生活の破滅を招きかねない。危機管理能力は一丁前で懸命な僕は、彼から繰り出されるマシンガントークをかわしていく。あちらが自分の世界を侵されたくないのと同じように、僕も自分の純粋な部分を守りたいのだ。
「俺はドッペルゲンガーって別世界の自分だって思うんだー。別世界の暮らしに耐えられなくなったもう一人の自分が、身代わりになってくれる人を探してるんだよ、きっと」
「なるほどねー」
「目を合わせちゃったら、もう別の世界に閉じ込められて、ずっとそのまま……とか」
「あるかもしれないねー」
「俺とか、もうドッペルゲンガーになってたりな」
「あーかもしれないなー」
「……お前は本当に俺の話聞くの上手だな。さすが選ばれし最後の聞き手」
「そんな呼び方するなよ……」
「で、その話には続きがあって、その別世界っていうのが…………」
ドンッ、
という音で僕と彼は"誠ワールド"から切り離された。誠ワールドとは、こんな感じで繰り広げられる彼の妄想話に聞き手となった僕が相槌を打っていくことで生まれる、別の空間なのでアール。……そんなことを説明している暇はない。音のする方に視線を移すと、鬼が、青鬼が僕らを叱責せんと仁王立ちしてるではないか。
その人物は校内での怖い先生ランキング(非公式)において、不動の一位を取り続けている柏崎だ。そのあまりにも恐ろしい形相と鬼畜なまでの授業内容から、"鬼"と名付けられている。体育の教員であるため、エブリタイム、エブリウェアー、青ジャージを着ていることから文字通りの青鬼というわけなのでアール。……またか。
「何やってんだ!早く帰りなさい!」
「「す、すいませんでした!」」
文字通り鬼の形相に睨まれると、
「ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ」
僕はとびきり臆病になってしまう。ガタガタなんて大げさに聞こえるかも知れないけれど、それくらいこの鬼の顔は怖いのだ。……想像に任せよう。
「お、おい。もう帰ろうぜ」
彼は震える僕の手を掴み、一目散に教室を出る。5分くらいかけ、一階に降りたところで僕らは走るのをやめ、小休止をとる。息も絶え絶えにして、彼は毒づく。
「……ハァ……ハァ……。なんであんなのが教師やってんだよ……。秋田に帰れ」
なまはげかって。妖怪のお前は黄泉の国にでも帰れ。と言うのは、彼に情けをかけ、言わないでおこう。僕を助けてくれたせめてもの礼だ。談笑の間にも、あの茜色の空は未だ僕らの学校を、街を、世界を覆っていた。
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作文出してなかったから、職員室行ってくるわ。と、彼のどうしようもないくらいの男子高校生ぶりのせいで、僕は一人で帰ることを余儀なくされた。一人で帰るのは苦痛ではないにせよ、この状態でどこかに勉強のためによると、ぼっちなどと言う不名誉を押し付けられる羽目になる。……ここはおとなしくまっすぐ帰ることにしよう。まっすぐに、だ。玄関を出ると、風が僕を吹き付ける。夏とは機嫌を180°変えた季節風が、僕らの街にからっ風をもたらす。あの優しい風はどこへ行ってしまったのだ。早く帰ってきてくれ……。
そんなどうしようもない知識から出る思案を駆け巡らせて、一人、帰路を急ぐ。……寂しい。人間なんて所詮、一人になるとこんなものだ。
寂しさは人間について回る感情である。だが、それを払いのけることも容易である。要するに早く帰る。結局これが正解だ。僕は早く帰りたかった。寂しいのは嫌なのだ。バスまであと少しの時間しかなく、バス停までを毛ほども残っていない体力で走ろうとする。が、やはり僕の甘えに甘えた筋肉では体力をカバーできるわけもなく、そろそろ暗くなろうとする街をふらふらと走るように歩く。
「……ハァ……ハァ……ま、ずい」
バスを逃しては不名誉なレッテルを貼られかねない。……寂しい。
そんな非常事態の僕の目に道が見えた。暗く、どこか不安が滲み出る。そんな道だった。ショートカットをしよう、そう思った。僕はその道に入った。闇は深まり、黒は背後から僕を攻め立てる。
走る、走る、走る、走る。
走る僕は感じざるを得なかった。……何故、この道に入ったのか、と。
そして、僕は出会った。その少女に、その存在に。
僕は見た。彼女の、その目を。刹那、僕の意識は
どこか遠くへ消えていった。
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街はいつもと変わっていなかった。いや、細かいところを見れば色々と違うのだろう。働く人、歩く人、食事する人。みんな違うし、同じ日なんてない。それぞれが抱く感情や、出来事は人によっても時によっても変わるものである。だが、街という目で見ると何も変わっていない。街という集団としての人間の側面は、何も変わっていない。人間それぞれの思いを、街は覆い隠す。僕もその一部だ。街単位で見ると、今日の僕の体験など無いに等しい。存在しているけれど、存在していない。そんなありふれた台詞がお似合いだ。僕は夜の街に吸い込まれていく。そんなクサい台詞がお似合いなのだ。