i×0
この街に来てから、一体どれくらいの時間が過ぎただろう。太陽も月もない。季節の変化すら見られない。時計も機能しない。空腹を感じることはおろか、眠気が襲ってくる気配すらない。よって、僕に時間という概念を認識する術はない。今僕が僕に求める解というのは、作者の意図を読み解いた結果でも、二次関数の頂点を導き出した結果でもなく、この目の前に広がる現実を打開するための"正解"なのだ。そうやって僕は、何日、何週間、何ヶ月とも思える時間を使い、この世界にあるかもしれない"正解"を探す。
館はその街の外れに建っていた。廃墟といって差し支えない寂れた館であり、またそれだけの館である。色がないからか、特徴という特徴も見つけることができない。もう、どれも同じように見えてしまう。
僕はいつも通りドアを開け、一部屋ずつ手がかりを探していく。ただ、手がかりとは言っても、僕は何一つ漠然とした物を想像していない。砂に落としたガラスの破片を拾い上げるよりはるかに難しい。何故なら、それがガラスだなんてわからない、透明だなんてわからない何かであるからだ。
とにかく、何かなのだ。
僕はこの現実と一線を画す何かを求めているのだ。
しばらく探しているうちに、それは突然やって来た。僕の目に飛び込んで来たもの。違和感。いや、もうそれは周りとは明らかに異なっている。色だ。この無彩色の世界にある筈がない、色が付いている。「砂漠の中に現れたオアシス」という表現がぴったりとはまるように、それはありきたりな灰色から僕を救い出してくれる。
それはあまりにも眩しく、僕にその物体について考える余裕を与えなかった。ようやく正気が戻り、僕は注意深く見るために近寄った。日記……だ。日記は、周囲とは全く異なるその赤色を基調とし、高価そうなカバーにその身を包まれている。僕は、やっと見つけたその手がかりとなろうものを逃すまいと、両手ですくい上げるように持ち上げる。カバーの感触や紙の匂い、そして赤が僕の感覚をくすぶる。
そして、ゆっくりと一頁めくる。
月光の日記
カバーがあるため、タイトルらしきその文字は中段やや上に大きく書かれていた。「月光」とは名前だろうか。ゲッコウ?ツキヒカリ?読み方はわからない。女と言われれば女とも取れるし、男と言われてもまた然りだ。「月の光」という言葉からは大人しめなイメージを感じる。
そんなことより続きを見よう。
○月#日
月光の日記スタートォ!
今日はとっても嬉しいことがあったから、これから日記書くことにする!
実は、、、好きな人ができたのです。
あっちを見てたら一目惚れしちゃった。
ただ、あっちは遠くて、あんまり見れないのが残念。
早くなりたいなぁ。
文の調子から、どうやら女らしい。それも若めだ。そして、人間だ。自分以外の存在だ。会ったこともないし、見たこともない。ただ「月光」の存在を、手に乗った日記を介して感じることができる。そう思うとなんだろう、感動か、はたまた安心か。それは、久しぶりに感じる生命への愛おしさからくるのかもしれない。しかも見る限り、恋をしている微笑ましい女性のようだ。内容も相まって、ほっこりとした感覚がじわじわと染み出してくる、、、いや、それだけじゃない。
そんな、ほっこりとした、暖かく、明るく、白いものだけじゃない。暗い何か、黒い何か、暗黒めいた何かが暖かさに紛れて入ってくる。狂気的な何かが僕に思い出させようとする。"あっち"、"なりたい"。その言葉の裏に潜む本意が、僕を一目見ようと、取って代わってやろうと息を潜めている。
徐々に芽生える恐怖の感情を必死に抑え、頁を進める。
月光の日々を追っていくと、相手の男ことが毎日のように書かれている。身長、顔、年齢、好きな食べ物、よくいく店、行っている学校、、、。彼女の男への飽くなき探究心には感服するばかりだが、それと同時に、芽生え始めた恐怖は強さを増すばかりだ。何故ならその男の特徴は僕のそれと酷似していたからである。もしかすると、、、。次々と湧き上がる疑念が、疑惑が、懐疑が、忘れかけていたあの記憶へ僕を導こうとしている。
そして開く最後のページ。
@月%日
やったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやったやった!
ついについにあのお方に許可をいただいた!
やっとなれる、、、やっと。
今日でこの日記も終わりか、、、。
寂しいけど、それよりも楽しいことがきっとまってる。
すぐ会いにいくからね、
く ら は し あ か り 君
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そして僕は思い出す。
あの日あの場所あの時間。彼女に会ったという記憶。自分と自分以外が暮らすあの世界で彼女と会ってしまった記憶。
そして、この世界、『i』へと誘う"存在"に取って代わられた、忌々しいあの記憶を。