一の春
「緑や――」
名を呼ばれ、体が反応する。
本当はまだ寝転がっていたかったが、静葉に呼ばれたなら仕方ない。
俺は身を起こし、空間を跳んで静葉の前に着地する。
「緑、聞いてたも。またここに文が…」
静葉は人間にしては綺麗な女だった。
春風のような暖かな声音で、月の光に映える髪は見事。
人間世界じゃ身分が煩いものだから、卑しい出でなくば、今頃宮廷に暮らしていたに違いない。
俺みたいな鬼に逢うくらいの場所には、逆に似付かわしくなかった。
「はん、また文かよ。どこのどいつだ?」
「さてな?」
首を傾ける仕草もどこか品がある。不思議なやつだ。
俺は静葉が手にしている文を一読し、びりりと破く。
あぁ、と声を上げる静葉。
「これ、破いてしもうては歌を返せぬ」
はん、と鼻で笑う。
「陳腐な歌。こんなもん紙の無駄だ」
ふふ、と軽く笑う静葉。このやりとりも慣れたものだ。
誰とも知らぬ文が来て、添えられた歌を破り捨てる。
こんな歌を唄うようなやつなど、願い下げだ。
「緑は厳しいやつよ。
いつか――殿方だけでなく世に忘れられたら…緑や、そなたの故郷に静葉を連れていってたもれ」
静葉は冗談めかして笑う。
でも俺は頷く――鬼の俺と共に来てもいいくらい、未練が無くなったら。
だが、淡い想いは叶ってほしくもない、それは静葉の幸せでは…ないのだから。
そんなある季節。
「頼む、春輔の使いである。
歌選びの姫おわす庵はここであるか」
平穏は破られた。
卒倒しそうなほど驚く来客。
俺はよく知らないが、どうやらずいぶん身分の高い野郎が来たらしい。
庭にて話し声から察するに――
歌詠み勝負、なるものを申し込まれたらしい。
経緯は知らないが、この屋敷に住む静葉の噂とめったに歌を返さない態度に、物珍しく思われたのだろう。
「緑、どうすればよいかの――春輔さまは静葉を買い被っておられる」
もはや静葉の顔面は蒼白、涙ぐんでいる。
嘆息。…仕方ないな。
「静葉、俺が用意してやる。題はなんだ」
ぱあ、と明るくなる顔。
いつまでたっても、俺は静葉に弱い。
苦笑いしながら、歌を紙にしたためていった。




