藤の花
パーマネントイエローにビリジャンを混ぜるのが、僕の日課だった。
忘れられないあの時。初夏というのか、まだ春だったのか。木の葉の芽吹きが落ち着いて、蝶も黒蝿も湧くように飛んでいた。空は冬ほどキンと冴えていなかったけれど十分に青かった。影はくっきりと落ちて原色黄色の花が咲いていた。窓から見えるまぶしい緑を描くために、パーマネントイエローにビリジャンを混ぜた。僕は窓からこの庭を囲む木を描いている。秋に越してきた高台の家の景色は悪くなかった。
少し強い風が吹き一斉に枝が揺れる。ざわざわという音が窓のすき間からも聞こえた。それは人のどよめきにも聞こえる。
ざわめきは、木のことばなのか。
木には木のことばがあるのだろうか。
あの木々は、何を話しているのだろう。
あの木は母に告げ口しているのでは――と、僕はあわてて水彩絵具を片づけた。
母は絵が嫌いだった。母は絵を信じていない。
旅先でスケッチする人が分からないと言っていた。旅行記ならことばで記せばよい、風景は写真で残せばよい。絵が実物と寸分違わぬようになるなんて不可能なのに、それでも絵を描くことなんて実物への冒涜。
一方母はことばに心酔していた。母はことばを絶対的に信じていた。全てはことば、ことばが全て。母の言うことばは何だか重かった。説得力、というよりも母はわざと後々まで後悔させるような言い回しをする。
母は絵も絵描きも嫌いだったのだろう。僕が絵を描くことも良く思っていなかった。
絵を描くくらいなら詩を書きなさい、と事あるごとに母は言う。だから母の前では絵を描かないようにしていた。
ではなぜ僕が水彩絵具を、それも木箱に入った十二色セットを持っていたのか。父の仕事が画家だからだ。父は西の方の港町で肖像画家をしている。代々の市長の絵も描いてるし王様の絵も描いたという。父の絵は強い。写真より強いし写真より似ていると思う。市長の屋敷には父の絵がずらりと並んでいるらしい。
父はそんなに絵を教えてくれなかったけれど、僕に十二色水彩絵具と絵筆とスケッチ帳をくれた。僕は机の引き出しに絵具を隠し、自室の窓際にこっそり描くことにしていた。
転校した学校にはなじめていなかった。休み時間、僕はひとりでノートの余白に小さな絵を描いてばかりいた。本当は僕の絵をみんなに見てほしいけどみんなの人気はキャラクターの絵に集まる。キャラクターの絵は特に女の子が上手い。似ていれば似ているほど「うまい」という。女の子たちはキャラクターの絵以外は描けないのにみんなからも先生からもほめられて「絵がうまい人」になった。僕は「絵がうまい人」ではなかった。
堂々と絵を描くことができない。だから僕は毎日の夕方や休日、自分の部屋で隠れて絵を描き続けた。窓際へ。窓をちょっとだけ開けて。庭と庭の木々と町を見下ろす。パーマネントイエローにビリジャンを混ぜる、緑をあまり混ぜすぎないように。
そして、春と初夏のはざ間だったあの日。
あの日は違っていた。最初に出した絵具が紫だった。白も混ぜた。作ったのは藤の色。その日僕は庭の藤棚を描くことを思い立った。藤は丁度満開。藤が咲いていることは前から十分知っていたが、その日は偶然藤を描くことにしたのだった。
午後。窓から藤を見下ろして、紫と白を混ぜていたその時。
人影が見えた。
あわてて窓を開く。確かに、木の間に何者かがいる。僕はそれが誰だろうか、目をこらして観察していた。
人影は少女だった。僕よりいくつか年上だろう。家を囲む林に迷ったのだろうか。
白色が見えた。どきりとする。白色は髪の毛の色だった、まるで人間離れしたような、もしも絵だったら、彼女の髪の毛だけ何色も塗られていないような、切り抜いたような白。あまりに不自然な、不思議な白。
彼女はひとしきりきょろきょろして、それから藤棚に歩み寄った。藤に見とれていた彼女を僕はずっと見ていた。彼女の白を。黄色にも緑にも紫にも混ざらない白。僕は父と見た古い絵を思い出していた。妖精かなにかの絵。彼女は、もしかしたらそういうものなのかもしれない――。
ふいに彼女と目が合った。僕はひるんでしまったし、彼女もひるんで一瞬のうちに逃げ去ってしまった。僕は止めようと、ことばをかけようとしたけれど、それができなくて、彼女は木々の中に消えた。僕は彼女に置いてけぼりにされたようにさびしくて、思うままに庭に下りた。葉がしげって見通しが悪い林に白い影は見いだせなかった。
何とはなしに藤棚を見上げてみる。藤の花は、僕が思っていたより白かった。藤棚はそうとう古い。どこか腐っていそうだから藤棚にはよりかからなかった。でもやっぱり、思い浮かぶのは彼女のこと。
そう、僕には彼女が、何か秘密を持っているようにしか見えない。彼女はあの不思議な髪の毛や丸い瞳のなかに、特別の呪文を、ことばを隠している。僕は彼女のことばを知りたい。彼女の秘めたことばを知りたい……。
――ここ、大伯父様が死んだ場所ね。
どきりとした。背後に母が立っていた。母の大伯父だから、僕にとっては曾お爺さんの兄らしい。母はなんともうっとりしながら藤棚を眺めていた。見上げた横顔がかすかにほほえんでいた。母は、僕を見ないで、錆びついた裏口の戸を指さす。
――そこに、ことばが落ちているの。大伯父様が落としてしまった最後のことば。そこのノブにずっと錆びついている。ねえ、この藤棚と一緒に錆びてきたの。
見えるかしら、と言いたげに、母は僕の肩に手をかける。ドアは古い。本当にぼろだ。
ふと、あの子は、もしかしてこのドアを見ていたのか――。
ドアが抱える秘密。"大伯父様"のことばの他にもあるはずだ。母は全てお見通しなのだろうか。そして、あの子にも秘密が見えていたのか。
――描ける?
母はこんなことを僕に聞いた。
――描ける? この藤とドアを。ドアが隠していることばも全て。すべてを描ける? 絵にことばを見いだせる?
そういって母は室内に戻っていった。
僕は立ちすくんでいた。でも呆然としていたわけではない。
僕はことばを描こう。隠されたことばを描こう。残されたことばを描こう。秘密を描こう。
そしていつかあの子を描けたらいい。秘密をあばくのではなく、描くのだ。
2010.05.08.