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シュー  作者: 山川 夜高
8/10

木春菊

嵐の日


 そのときのことを憶えています。今日と同じくらいの秋の盛りでした。年老いた葉が季節嵐による疾風で次々に脱落してゆきました。


 私(これが最も美しい語り部一人称だと認知しています)は既に現在も続く感傷を抱えていました。鋼綿の朱い燃焼のような衝動です。道を歩く一歩一歩がわけの分からない感情の震えになりました。つまり空虚です。膨脹したかと思えば胸にはすき間が生まれ、そこをまた空虚という風が吹き抜けるのです。燃え尽きれば何もない、得体の知れないさびしさでした。


 その日も本日と同じく嵐でした。既に雨は止んでいましたが、雲は走るように流れ、青空は見えません。空の高い雲、低い雲の差が明瞭に判りました。そしてその高低はどうして生まれるのだろうと考えていました。


 午後から私は小さな市立図書館へ向かいました。感傷を活字で穴埋めしようと企てたのです。足繁く通っていたわけではありません。思い出すように、私は図書館へ行きました。


 北風はまだ色付いていない葉も落としました。現在の空もかなりの雨と風です。これを手帳に書きつつも彼女のことが頭をよぎり、ときどき筆が止まります。今、私は彼女を案じています。


 彼女が学級に転入したのも秋でした。九月のことです。それから一月経ったのがそのときでした。他者が彼女への関心を忘れてゆくなかで、私ただひとりが彼女への興味をつのらせていました。彼女の、神秘的ともいえる外見でしょうか、歳の割に無垢すぎるところでしょうか。私は彼女との接触を試みました。彼女のあどけない神秘を私は珍しい生物を飼うようなつもりで求めていました。新世界に孤独でいた彼女は私の私欲に気付きませんでした。あたりさわりのない、つまりごく浅い交流が続き、彼女はまだ『友』と呼べる者を得られず、私は彼女に求めたものを得られませんでした。


 当時の私は前述した正体不明の空虚に苦しんでいました。その対処を発見したのがこの図書館でした。


 桜並木のなかにその図書館は建っています。レンガ造りの二階建てです。雨に濡れた桜の葉がアスファルトにべったり落ちていました。


 一階は一般図書が置いてあります。人はそれほどありませんでした。理科の書籍を一冊読んで帰るつもりで、私は数学と科学の棚を物色していました。静まっていた館内に幼い子供の声が通りました。大きな声を出しちゃ駄目よと母親らしき声もしました。


 そのときです。また例の空虚が現れたのは。背の高い棚を見上げている『今』がとんでもなく怖いものに思えました。さきほどの子供が泣き出しました。怖くて仕方がないのに、私はあの子供のように泣けません。他者はどうかというと、母親と中年の司書は幼い子をあやしていますが、他の利用者は全くの無関心を作っていました。聞こえないということは恐らくありません。誰もが一度は泣き声のする方をちらと確認しています。しかしそれだけです。彼らはまた頁をめくることを再開しました。


 味方はいないことを知りました。私はますますさびしくなりました。


 泣き叫ぶ子供と遭わないよう、その姿を見ないで済むよう願いました。私は両耳を頼りに泣き声を避けました。泣き声はどうやら図書館の出入口の方からするようでした。しばらく手洗いの個室に身を潜めようと、私は今まで入ったことのない奥へ逃れました。


 そこに、二階へ昇る階段はありました。踊り場の窓から薄暗い外光が差していました。私は二階の存在を知りませんでした。階段の隣に『自習室 二階』と簡単な看板があります。上階から人の気配は全くありません。昇ってもいいのだろうかと私は不安になりました。それほど、一般的な図書館以上に、上階は静まりかえっていました。私は躊躇しました。引き返そうと思っていたところ、あの泣き声はますます声量を増しました。私は階段を昇りました。


 不思議なことに、一段昇るごとに泣き声は劇的に遠ざかりました。一段一段に確かな静寂を覚えました。逆にいえばもう取って返すことは出来ないということです。


 二階へ上がったときには泣き声は消滅していました。人は誰もいません。換わりに静寂です。あの空虚と同じ孤独です。肌寒い感傷が私を撫でました……しかし涙をあおる恐怖はありません。撫でるという表記は適切だと思います。私を苦しめた空虚が今はまるでやさしいそよ風でした。何とも滑稽なことですが、孤独が私の恐怖を休めたのです。私は初めて感傷を認めました。私は無人の部屋でひとり微苦笑しました。


 窓際に長机が四列置かれています。本棚には日に焼けた図書が整然と並んでいました。どれも茶色い背表紙でした。古本の匂いがしました。


 ある表題が私の目に飛び込みました。私は階段を昇ったときと同じためらいの後その書籍を手に取りました。著者の名は分かりませんでした。本はさほど厚くありませんでした。ちょうど私の手に馴染む大きさでした。私はその場に棒立ちしたまま第一頁をめくりました。紙は黄ばんでいました。

 本はある古い儀式の紹介……魔術書でした。文中に呪文だのということばを発見し私はどきりとしました。魔術の存在した時代はありました。しかしそれは四百年、五百年前です。本当なら私は冗談じゃないと読書を放棄するはずです。しかしそのときの私は出来ませんでした。活字から目をはなせませんでした。私は魔術にかかっていたのかもしれません。


 数々の魔術が細やかに記されていました。そのなかの一つが私の関心を引きました。他と毛色が違い、近代現代の契約のようでした。二人の人間で結ぶ、秘密の『魔法』。ただの関心で読んでいたはずでしたが、気が付けば私は貪欲になっていました。文字に目を走らせつつも、私は彼女に『魔法』を提案する場面を想定しているのです。そして彼女がそれに乗ることをほぼ確信していました。


 本を読み終えて私は窓からの光に気がつきました。もうすっかり夕でした。しかし空は橙色ではありませんでした。「そらを蓋う厚い雲に陽が乱反射した」結果だと私は推理しています。空全体が不自然なくらいの桃色を放っていました。その色は、彼女の瞳の色でした。


 私はもう一度、『魔法』の想定をしました。


 ――交換しない?



『盗人萩』の年、11月

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