盗人萩
嵐の日
風が小枝を噛み砕いた、雨粒が窓格子を震わせた、午後。その町を季節嵐が通過している。現在が丁度暴風のまっ盛りらしい。音と寒さと痛み、雨風はたしかに五感で回りくるった。ただし、それでもなお秋の優美は感じられる。つんと鼻につく寒さを持った疾強風が、古い大学校舎の窓を叩きつける。
ある教室で講義が終わった。講義はとても淡々と進み淡々と終わった。そして講師は荷をまとめ、淡々と室を出ようとしていた。
「――先生」
一人の年若い生徒が講師を引き留めた。しかし彼は振り返らない。
「先生」
もう少し声を強めたが、講師の態度はかわらない。その年齢に不似合いの白い頭髪がうす汚れた教室に不思議に映えている。
生徒がもう一度
「フォーマルハウト先生!」
と名を呼んでやっと白髪の先生は生徒の姿を見た。
肌寒い室内。講師は白い髪、桜貝色のまなざしで生徒の前に立つ。そしてとても静かだった。
「先生、質問があります」
と言った生徒はノートを片手に彼の目を見た。その声は少々裏がえったように思われた。先生は少しの間を置いた。人もまばらになり、しんと冷えた教室にやっと雨音が届いた。烏が短く数度鳴いた。そして先生はやはり静かに
「何でしょう」
と、答えた。
* * *
舗装道に水が溜まっている。吹き荒れる雨風がそれらに波をたてた。
ビジャン!
革靴が波を踏み抜いた。飛ばしたしぶきに目もくれず、革靴の主フォーマルハウト氏は校門を急いて出た。もう日もよほど傾いていた。空は炭素以上に黒々汚れた様相で、何かいやなものも棲んでいそう。細縁眼鏡の目を細めて雲行を一瞥し、氏は駅までの道を走った。
最寄駅までは徒歩十三分。ゆっくり歩いて十五分、走るなら十分、陸上部の生徒が走ったところ七分だという。細道の割に車通りも多く、時折泥水も跳ね返った。
この嵐の中では傘など役立たない。けれども道行く人が皆骨折したり裏返った傘もこらえて差しているのはやはり世間体だろうか。実際氏もそれらの心理に乗じていた。隠せるものなら、と傘をふかく差すことにしていた。本当は雨の日は嫌いではないのだ。
泥水は茶色である。しかし木肌や枯葉とは違うし、鉱物的な色にも見えない。冷たい雨だった過去を忘れて、触ってみたときそれは温かいのではないか……と、どこかで見覚えもある気がする色だった。だが確かめるまでもなく、それは汚い雨水だし、今も足は靴も含めて冷たく濡れている。
彼が満員の車両に飛び乗ったときには、肩も雨に濡れ、首周りと額は汗で湿っていた。そして車床は幾人もの傘の滴で水溜りができていた。列車は定刻を十五分遅れて出発した。いまだ風は吹き止まない。
水浸しの革靴、スラックス、ブレザー……エトセトラ。鞄の中身は気にかけなかった。職業上、本だの紙ばかりだったと思う。一番大切なものは、大丈夫、常にそれなりの保護をしていた。
街灯も豪雨に揺れた。紅葉も枝も落ちていた。構わず踏みつけて走った。家々の窓から明かりが差している。それだけで氏は心苦しくて仕方がなかった。歩み慣れた道を抜け、曲線のてすりの、しかし明かりは灯されていないその家に到達した氏の呼吸は荒かった。怖いものに触れるような手でドアノブを回した。施錠はされていなかった。氏は静かな帰宅を果たした。
雨風から守られているだけで、室内をとても暖かく感じた。足指の冷たさがじんじんと滲んだ。
家の一階の明かりをつけたが誰もなかった。床はひどく濡れていてカーペットの取り換えが必要そうだった。一方二階で焦った騒がしい物音が聴こえた。そしてすぐに止み、また誰もいない風を装った。
「帰ったよ」
と、はじめてフォーマルハウト氏は家族に声をかけた。返事は無かったが、階段を下りる小さな足音がした。下りてきた娘は秋の夜には無防備な薄着で、晴れの日なら空気をはらんで揺れる頭髪も冷たく濡れていた。そしてこの明かりで、少女の目が少し赤いことにはじめて気付く。
「どうしたんだ。びしょ濡れじゃないか。――早く暖かい服に着替えて髪を拭きなさい」
頷きはしたが少女は動かなかった。
父は物言わず娘を抱き寄せた。
「いいんだよ。もう」
小さい肩がふるえた。吐息が少し漏れた。
「夕飯、明日はロールキャベツにしよう。今日は簡単でいいだろう。
ココア入れてやるから……ミルク?」
「……マシュマロ」
「じゃあ服を着替えて」
娘はうつむきながらも二階に早足で向かった。自分も着替えなければと思ったが、先にココアを入れた。マシュマロの残りは五つあった。
あと、どれだけ、こうしていられるだろう。
小さなマグにマシュマロを二つ落とした。
2008? 秋