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シュー  作者: 山川 夜高
6/10

へくそ葛

夏期休業前日


 憂鬱な八月十八日は、この午後から始まっていたのだ。


 終業式を終え帰宅しようとしていた私を担任が引き留めた。理科室に行けという。さあこの熱い日中を家でくつろごうと思っていた矢先で理科室など行く気はとてもしない。しかし担任の冷やかなまなざしと先ほど受け取った通知表から照らし合わせると……どうせ分かっている。行かざるを得ないだろう。廊下にごったがえす生徒の波を抜け、私は北側の特別教室棟へ向かった。特別棟は窓が開いていないせいか空気がこもっている。気持ち悪い。うなじに汗がにじんでいく。


 特別棟一階のつきあたり、理科室の教壇に私を呼び出した教師は居た。えらの張った正方形に近い顔面に遠視眼鏡で強調される目、加えて平行に平たく幅広い口角はまるでヒキガエルだ。私は蛙教師に言った。


「何の用ですか」


 はやく済ませてほしかった。この暑い日に、目の前の蛙は長袖のシャツにネクタイだ。こちらの方が汗をかいてきた。


「……まあ、分かって、いるよな」


蛙は言う。

「どうすんだよ、理科」

「分からないものは分かりません」

「じゃあさ、せめて友達とかに聞くとか……あの……茶髪の子に聞くとか」


まとまりの無い口調が嫌いだ。いらいらする。さらに蛙の出した名前が癪に障った。


「すみません、親しくないので」


むしろ嫌いだ、とも言いたい。それを聞くと蛙はどうにもわざとらしく肩をすくめた。


 閉め切った窓の外から油蝉の鳴き声がする。二重窓のはずなのにどうしてこんなにうるさいのだろう。これだから田舎は嫌なのだ。

 蛙はがさごそと何かを探している。やがて、青、白、黒の三色刷りの半紙が手渡された。

 理科講演、八月十八日九時。場所、植物園研究センター一室。要申込。


「ぼくの、友人の講演なんですけどね。あなたの申し込みは済んでいます。これに出席して、四百字以上のレポートを書いて提出する事」


 そう言って、私に原稿用紙数枚を渡した。つまり強制ということか。ひじの裏側が変にべたべたする。蛙を見ると、汗一つかいていない。今まで机上にあった蛙の視線がふとこちらに向けられ、私は目をそらした。すると、丁度教卓に置いてあった標本に目が行く。ヒキガエルのホルマリン漬けだ。


「……もし、出席しなかったらどうなるんですか」


私はそのホルマリン漬けを見ながら言った。腹に縦に切りこみが入っていて消化器はむき出し、肉厚な舌が口からだらしなくはみ出ている。全身、ホルマリンで脱色されて白い。

 気持ち悪い。背中にじっとりシャツが貼りついている。

 教師の蛙は同じホルマリン漬けをちらりと見て言った。


「九月から、教室がさびしくなりますね」


 だから蛙なんだよ。

 足早に廊下に出て、私は舌打ちした。時刻は一時を回っている。



  * * *



八月十八日


 驚くほどの快晴、植物園の散歩道はマゼンタ色の花がシルエットを落としていた。午前の太陽光線は樹木をくぐり抜け、影は風に揺れて細波を思わせた。そういえば海なんてしばらく行ってないな、と、その小道を歩くマガリーは考えていた。ぼんやり上の空の友人は日常茶飯事なのだが、それでも気になり、同行者シューは


「どうしたの?」


と尋ねた。


「ううん、別に」


とマガリーは笑う。だが「別に」と言われて納得するような彼女でないことは十分知っている。


「ただ、海とか行ってないな、って思っただけ」

「海、行ったことあるの?」

「記憶に無いけどね」


 海は遠いけど、川くらいならいいか。時間が空いたら一緒に行こう、と、またぼんやり考えていた。


「海、いいなあ」

「今日は植物園だけど」


とマガリーは苦笑して手に持った半紙を見た。少し背の低いシューもそれを覗き込む。今日この植物園で行われる、学生向きの講演の案内だ。


 穏やかな二人組に対して、同じく出席するこちらの少女は不機嫌な鈍速で暑い道を歩いていた。蛙に言いつけられた彼女だ。暑い、下らない、意味がない。独白は堂々巡りをくり返し、朝の日差しと陰鬱な憤りで目つきはどんどん悪くなっていく。彼女は今、他の何者に会おうと八つ当たりが出来る自信があった。


 講演のある研究センターは植物園のほぼ中央にある。そこに至るまでの小道はいくつかあるのだが、それらの小道は最終的に統合され二、三の舗装道となる。

 笑い合ういつもの二人組と、ことにいらだったその少女は見事にはち合わせた。


 そして、少女が嫌う茶髪の級友とは、まさに今偶然出会ったマガリー本人のことである。


  * * *


 暑い……。

 予報では最高気温はセ氏三十五度、まだ八時台なのに、この暑さである。紫外線が二の腕とうなじを焼く。夏は嫌いだ。特に今日なんて大嫌いだ。なぜ研究センターやらがこのただ広い植物園の中央にあるのか、なぜわざわざそんなところで講演をするのか。

 全身が汗で溶けてしまうのではないかと思った。すでに汗が皮膚に膜を張ったようにべたべたする。ひどくだらしないと思う。自分の姿があの白いホルマリン漬けと重なったような気がした。気持ち悪い。……違う、私はあんな物ではない。

 もしも温室作業だったら……。前髪を汗滴が伝わり、乾いた地面に落ちた。そもそも全部あいつのせいなのだ。


 すると前方に白いコンクリートの建物が見えた。いかにも研究センターといった構えだった。しかし、ガラス張りの球天井に嫌な予感がするが。

 ますます暑く、たらたらと歩いていると談笑する声が聞こえてきた。その主二人にばったり遭遇した刹那、脳天に冷たすぎて熱く感じてしまうくらいの冷水を被ったようだった。隠れる場所も無く、私と、同学年の"その"二人は見事はち合わせした。


 なぜ、彼らが連んでいるのか全く分からない。教室でいつも角に固まっている人嫌い同士なのだろう。茶髪の方の陰に、白髪頭がさっと隠れた。

 自分だけ隠れるの? 卑怯じゃないか。


「どうしたの? ……補習?」


 卑怯者に代わり口を開いたのは茶髪の方だった。


「何のこと?」


と、即答する。それから、きみもこういうの来るんだ、と付け加えた。右手にはあの青い半紙を持っている。自主参加だろう。

 しばらくの無言の後、ふいに、隠されていた卑怯者が茶髪に耳打ちする。


「はやくいこう」


 そして茶髪は私をちらと見て歩き始めた。身が連れの壁になるよう、歩幅を計算している。安全地帯の彼女は私とはち合わせてからほぼ無言を貫いている。私と彼女の壁は互いに探りを入れている。


「卑怯じゃない?」


先に私が言った。彼女の壁はひょうひょうとした表情を崩さない。


「何で?」


勝算があるのか自覚がないのか分からないが、口調を素直に受け取れば後者だった。そして守られた当人は何も答えない。


 ぼさぼさと言える位強くウェーブのかかった白い髪はぴょこぴょこ歩く持ち主に合わせて揺れている。その、気味が悪い白髪、色白の肌、白いワンピースのせいでホルマリン漬けが頭をよぎった、よぎる、どころか同調さえ始めたようだ。脱色、舌、内臓、つまるところ死体。

 それを庇うこいつは?


 そうか、妙な違和感。


 名前を呼んでやろうと思えない。魚の小骨がつっかえたように、取れない違和感が咽に引っ掛かっている。茶髪で理科が妙に得意な方の名前がマガリー、白髪の幼げな方がシュー。


「ふたりってさ、いつも一緒だよね」

「そうだね」

と茶髪が返す。陰の彼女もうなづいたように見えた。

「いつからそんなに仲よかったっけ?」

すると茶髪はちょっと笑った。

「いつからだろうね?」


 そして私達は研究センターに到着した。


 講義も実験も全て冷房の利いた室内で行われた。終了したのは四時頃で、さあ帰ろうと思っていた矢先、園の職員に呼び止められた。私が蛙の計らいで出席したことを確認すると、ちょっと手伝って欲しいことがあるという。

 何でも、温室内の作業らしい。


 何度舌打ちしたら、気が晴れるだろう。


 温室の外壁の細い木に、蔓がからんでいる。白い小花が付いていた。



2008.08.18

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