草の王
春にも慣れた頃
旅人が来た。
旅人が来た、とシューは言った。朝登校して一番の挨拶がこれだった。それはどうやら本当のことらしく、級友らもちらほらと話題にしているのが聞こえた。マガリーは期待もしていなかった事態に驚いていた。しかし決して悪くない期待だ。それどころか、最上級の状態かもしれない。
「一緒に来る?」
マガリーは少し小さな声で言った。今日の授業はもう抜ける気になっていた。シューは満面の笑みを浮かべた。その頬はみずみずしい果実のようだった。
シューはもともと、よく学校を休む方だった。もしかしたらマガリーと出会ってから、少しは改善されたのかもしれない。どちらにせよ今日の授業に欠席したところで、もう誰も咎めないだろう。
一方マガリーも、シューが欠席の日はよくサボタージュするようになった。近頃はマガリーも学級内で浮いた存在になっていた。シューとばかり過ごしていたからだろう。昼休み二人は教室の角で語らっていた。そうして第三者の介入を一切拒んだ。
二人は鞄を持って廊下へ出た。幸い、まだ朝早い時間だったから教師が来る気配はない。しかし廊下を逆走する気にもなれなかった。二人は人通りの少ない階段を降りて、裏庭から校舎を脱出した。
シューの言ったとおり旅人はいた。旅人は公園にいた。公園といっても遊具は端の方にぽつんとたっているだけで、殆どただ広い芝生である。ぽつぽつとシロツメクサの白い花が見える。
旅人は公園のほぼ中央に立っていた。彼はハットを目深に被り薄手のコートを羽織っていた。それらの色は、埃やくたびれで、全身に岩絵具を浴びたようにぼんやりとした鮮やかなようだった。
その旅人を、学校を抜け出した二人は遠巻きに眺めていた。シューは茂みに隠れるように見ていた。
「あの人のところに行くよ」
「シューも行く?」
と、マガリーは誘ったが
「ううん」
「ここで見てる」
と断られた。口ばかりの友人は予想以上にびびり屋なのだった。マガリーはひとりで行ったのだった。
「こんにちは」
マガリーは自然な挨拶を試みた。成功だったようで、旅人も少し会釈した。旅人はそれから、マガリーを見て、肩に掛けた鞄の膨らみを見て言った。
「学校はどうしたんだ」
「さぼり」
「不届き者……と、言いたいが、おれも同じようなものかな」
「だって勉強は自分でできる」
旅人は苦笑した。四十を回った位、無精髭の旅人は首筋を掻いた。
「自分で学ばない奴が不届き者と?」
「そう。だって学ぼうとしないことは罪だ」
「ではおれも罪人だ。学んだが学ぼうとは思わなかった」
「ちがうよ」
間を置いて、マガリーが言う。
「だって、おじさんは旅してるでしょ。自分の目で色々見てる。それは自分がやりたくてやっているのだから、おじさんはそんなことない。おじさんは悪くないよ」
旅人は少々驚いた。マガリーは本気だった。
「おじさん、遠方旅人だよね。……いいなあ。どんなもの、見てきたの?」
嘘をついてはいけない、いい加減な答では駄目だ、と旅人は思った。今、彼は心から慕われていた。こんなことは何年振りだろう。
一度ため息を吐いてから、旅人は答えた。
「首都の出身なんだ。旅に出たのは二十過ぎぐらいのとき。なんとなく、ふらっと家を出てそのままさ。
移動は殆ど歩き。金がないから。初めて海を見たときは興奮したよ。それから海岸伝いに歩いた。あの海上の城は壮大だった。首都の王城とは違う、独特の雰囲気だった。
それから北上して、大草原地帯を延々と歩いて……巨大な猛禽にやられそうになったときもあった。そうして別れ岬に着いた」
「すごい。世界の涯まで行ったの?」
「あのときはさすがにこみ上げるものがあった。その日は曇りだったんだ。曇りだからこそ、感動したのかも知れない。それから晴れるまで待っていたけどな。
それからまた草原経由で戻ってきたところさ」
「どうするの。もう、首都に戻るの?」
「……戻らないさ。これから南西の方を回ろうか、首都から東へ向かおうか考えている」
「そっか、ありがとう」
そう言って、マガリーは満足げに笑った。
旅人は帽子を被り直して、遠くを見た。マガリーは公園の時計を見た。もう一限目はとっくに終わっている頃だった。しばらくの沈黙の後で、先に口を開いたのは旅人だった。
「そういえば……あの茂みの子は」
最初から気付いていたらしい。茂みががさりと音を立てた。マガリーは茂みにほほえんだ。
「友だち。人見知り」
そうか、と旅人は言った。試しに茂みに手を振ったが返答は無かった。
そして旅人は公園を去った。
「……マガリー?」
白髪の少女は茂みから這い出し、友人の名前を呼んだ。友人はいつものように穏やかな笑顔だった。
「どうしたの?」
「……何でもないよ」
微かに始業チャイムの音が聞こえた気がする。
シューはほんの少しだけ不安を感じていた。その友人が、彼女にはどこかさびしげに見えたからだった。
マガリーは遠くを見て呟いた。
ああいう旅人が、この世界にあとどれだけいるのだろう。
「……旅人は、世界の血なんだ」
マガリーは言う。
「旅人が国中をめぐって、話とか、人の思い出を伝えてた。
でも今、旅人なんていない。
血が無くなったら、世の中はいつか駄目になる……それこそ腐って、死ぬんだ」
そしてまた、マガリーは遠くを見た。
「……マガリー」
シューは絞り出すような小声で言った。
「マガリーは、どっかに行っちゃうの?」
「……行かないよ」
その声はそこぬけに優しかった。
「だって、まだシューがいるもん」
2008.春