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シュー  作者: 山川 夜高
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藤の蔓

寒さが押し寄せる11月


 リードイヒは死ねない。随分前から死ねなかった。リードイヒは強大な呪文師だった。そういう名門の一族だった。生まれつきそういう力が人より強くて、そういう環境の中で成長して、そういう星を背負って呪文師リードイヒとなった。

 だから若かりし頃因り、彼は沢山のことばを背負っていた。血のかよったひととは思えない様な呪いのことばも沢山使った。だから今、自分は死ねないのかもしれない、とリードイヒはぼんやり考えていた。


 死を試みた事も勿論あった。鏡に映る自身に、呪うことばを何度も呟いた。が全て無駄だった。まず第一にそれは鏡に移った虚像のリードイヒであり、実在しない。かつ、彼は恐ろしいことばに慣れてしまっていた。何度も呟いたことばは呟く度に力が溶けてしまう。今はもう何にもならない、呟いた瞬間だけあるもの、そして直ぐに空気に混ざってしまう、重みの欠片もないものだった。


 何もかも空振りとなった。リードイヒはもう何もしなくなった。彼は一日の殆どをベッドの上で過ごした。食べずとも生きてゆけた。何より彼は、下に降りて鏡を覗く事が嫌だった。


 ある日庭の藤棚に、ひとりの精霊がやってきた。精霊は藤棚の周りをぴょんぴょん飛んだ。リードイヒは屋敷の窓から、なぜそうやって飛ぶのか尋ねた。


――呪文師さま、そりゃあこの木が変だからです。


――この木のどこが変なのだ。


――そりゃあ呪文師さま、今は十一月なのに、この藤の木は一枚の葉も落ちていません。季節外れもいいところです。ですのでこうやってぴょんぴょん飛んで、土が悪いか調べております。しかし土は至って元気なのです。


――ではなぜ藤の葉は落ちない。


――そればかりは分かりませぬ。何せ私は燕の精霊、旅の途中。それでは失敬。


精霊はくるりとその場を回り、秋の空に紛れてしまった。リードイヒには止められなかった。もう精霊が来る事はなかった。


 次の日庭の藤棚に、ひとりの死神が座っていた。彼はリードイヒのカップと茶葉でアールグレイをすすっていた。リードイヒは下に降り、なぜおれのカップでおれの茶を飲むのかと尋ねた。死神は落ち着きはらってこう答えた。


――呪文師さん、あなたが不死身だからです。


――そうだ。おれは随分前から不死身だった。しかしなぜ俺が死なないとおまえはおれの茶を飲むのだ。


――そりゃあ呪文師さん、わたしはてっきり茶葉やカップが悪いのかと思っていました。しかしどこも悪いところは見つからない、むしろ良い位です。ふむ、美味しい。


また一口飲む死神に苛立ちながらも、リードイヒは話を続けた。


――死神よ、おまえの名にかけ頼みがある。おれを殺してくれないか。死神ならば出来るだろう。


――それは無理なご相談。われわれは死んだいのちを回収するだけ。生きたいのちは持ってゆけません。ふうむ、実に美味しい茶だ。

 そうそう、悪いのはきっと藤だ。それでは失敬、ご馳走さま。


そんな事は知っている、とリードイヒが怒鳴る前に死神はもう姿を消した。もう死神が来る事はなかった。


 更に次の日、庭の藤棚には天使がいた。天使は藤棚に垂れ下がった蔓を眺めている。蔓は子どもの二の腕位の太さだった。リードイヒが下に降りようとすると、もう天使は寝室の中にいた。リードイヒが尋ねる前に、天使はリードイヒに藤の木の事を尋ねた。


――呪文師、あの藤の木は変な木です。なぜなのですか。


――そんな事はおれも知らん。精霊も死神も知らないという。天使のおまえなら知っているのではないか。


――なぜ精霊や、よりにもよって死神なんかがあなたの元に。


――おれが死なないからではないのか。それか、藤が変だからだろう。


――あなたは不死身なのですか。


リードイヒは急に怒鳴った。


――そうだ。


天使は驚き、腰を抜かして羽を数枚落としてしまった。


――おれは死ねない事に気付いてしまってから、ずっと部屋の中にいた。何もかもが嫌いになった。おれは毎日毎日、どうやって死ぬか、それだけを考えていた。いちいち庭の藤に気を配ってなどいられん。天使だの死神だの精霊だの、おまえらにおれの気持ちが分かるか。


天使はまた黙ってしまった。外はもう夕焼けだった。


――呪文師リードイヒ、わたしにはあなたも藤も元に戻す事は出来ません。……いいえ、それすらも分かりません。あなたは本当に変なのでしょうか。それでは失敬。


 それだけ言って、天使は風に乗り行ってしまった。あとには白い羽だけ残った。もう天使が来る事はなかった。


 リードイヒはまたひとりになった。


 その夜リードイヒは庭に降りた。指先と耳が冷えた。まるで秋を通り過ぎ、一度に冬になったように思った。もう何の力にもない悪態をつきながら、リードイヒはあの藤の前に立った。


(そういえば)

(この藤はいつからあったかな)


もう忘れてしまっていそうな、彼にとっては霞みかけた遠い思い出を手繰り寄せた。


 恐らく、彼が産まれた時にはもうあった。そういえば五つか六つの時に藤の前で肖像画を描かれた気がする。あれは春だった。なぜならあの時藤の紫に負けない様に、とどぎつい黄色のチョッキを着せられた気がするからだ。


――ああ、あの時。


突然に記憶は晴れ上がる。


 あの時。少年だった時。


(おとうさん、おかあさん、みて。このおはな。ぶどうみたいだ)

(これは藤の花よ)

(ふじ?)

(お前が産まれた時、この庭に植えたんだ。綺麗だろう。これはお前の木だ)


――父と、母が、植えたのか。


そしてまた時を飛ぶ。これは十歳の時か。


(リードイヒ、違う。もっとことばに力を込めろ。そんなに簡単に言ってはいけない。ことばの営力が無くなってしまう)

(そう、上手いぞリードイヒ。見ろ。この年でここまで出来るなんて。こりゃあ未来の大呪文師だ)

(あなたは一族の誇りよ、リードイヒ)


――どうしてそんな事をするのか分からなかった。級友たちはやらない事を、おれたち一族はやる。

 今思えば……


――そうだ、怖かった。自分が怖かった。


――普通の人生ではなかった。


 穏やかではなかった。十代の時から既に「呪文師リードイヒ」として世に出ていた。一族の名やその若すぎる年齢、溢れる才能から瞬く間に彼は有名になり、依頼も多く入った。「十代の天才呪文師リードイヒ」は世に認められた。しかしそれは「十代の少年リードイヒ」ではない。人々が求めるのは「天才」の「呪文師」。


――そして一時も休めなかった。いつからか、休みたかったのは。


休みたい、もう何もしたくない。だから、もう死んでもよい。


――生きる事に、疲れてしまった?


 ふと、藤の木を見上げた。風が強さを増す。庭の木がざわめいて、古い木組みの窓は痙攣したかの様に震えた。


――自分はもう、呪文師リードイヒではないのか。


 己が望んだ事だった。リードイヒの死。死んだのは世紀の天才呪文師リードイヒ。すっかり髪も白くなり、腰も曲がり、視力も落ちた老リードイヒが取り残されたのだった。


 そして彼は、葡萄が好きで少し気弱な只の少年リードイヒの成れの果て。


――……。


 なぜだろう。久しぶりの感情。沸き上がるそれは欲求だった。リードイヒは驚いたが、どこかで納得もしていた。


――葡萄。


――葡萄が食べたいぞ。


――おれは葡萄が食べたい。


 そして次の朝。


 リードイヒは寝室で寝ていた。木枠の窓は西を向いているから朝日は射さない。射したとしても、彼の目蓋は開かない。


 庭の藤は昨夜の強風で、全ての葉を落としてしまった。しかし丁度反対の月、毎年春になると、藤棚には紫の花がカーテンを作る。


 それを観るひとはまるで葡萄の様だった、という。



2007.11

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