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シュー  作者: 山川 夜高
10/10

雪柳

 作業を切り上げ早々に研究室を立った。ここ数年もの間僕はひどく横暴な生活を送っていた。彼女が消えたから僕は横暴に成ったと云うが、そうではない、僕は生まれつき横暴で自堕落だった。彼女の喪失と僕の横暴さに接点は一つも無い。三時の空に雲は無い。湿気に満ちた南風が纏わりつく陽気。春であった。

 歩くうちに日差しと湿気に負け、僕はジャケットを脱いで脇に抱えた。今年初めての夏日だった。駅から歩いてきた道はやがて小川沿いに通じる。川辺へ出るとそこは一面、満開の桜並木だった。薄色の花が川岸一面を威圧するがごとく木々を埋め尽くしている。川に沿って真直ぐに。桜は桃色と云うが、晴天の下でそれはむしろ白色だった。えんえんと白が続く。僕を鬱屈や絶望に似た幻滅に墜とすには十分過ぎる光景だった。


(変わった、見た目ですね……)


 無限の合わせ鏡を見るようだった。僕はただ、嫌悪した。

 幻滅は桜の開花だけでは無い。そこには花見の賑わいがあった。路傍にシートを敷く者、写真を撮る者、子連れの夫婦。見知った顔があるような気がした。あるいは一方的に僕を知る者の視線。そんな幸福さが僕には後ろめたい。一方おめでたさには憤りを覚えた。

 花が散って、毛虫が落ちる時季になれば、皆桜を避ける癖に。


(植物を植えてまず来るのは、鳥じゃなくて、虫。虫を受け入れられないなら、植物は愛せない)

(それなら僕は植物を愛さない)

(いいよ。無理に好きになってもらおうとは思ってない。

 けれども私、あなたの庭に植物を植えたいの)

(いいよ。自由に、使って)


 彼女は何もかも僕と真逆だった。色の無い僕と違い、彼女の髪と目は健康的に濃色だった。よく笑う人だった。彼女は鈍で少し莫迦な所があった。彼女は動植物を愛した、しかし生き物嫌いな僕を彼女は責めなかった。


 彼女はくろがねの友人だった。その時未だ黒鉄ではなかった彼は、当時から不健康な生活を送っていた僕をある日行先も告げずに連れ出した。電車を乗り継ぎ到着したのは首都市街東部の療養所で、中庭を臨む二階の一室、彼女はその寝台に腰かけていた。くろがねが訪れると彼女は寝間着のまま笑顔で迎えた。横にならなくていいのかと尋ねた彼に、


(平気よ。明日にだってまた退院するもの。

 それよりも、あなたがハウトさん?)

(ハウト?)

(君は名前が長いから、略して呼んでいたんだ)


 彼は見舞いに来る度に僕を話題に使っていたらしい。そして実物を見たいと云われ僕を連れて来たとの事だった。それだけでも僕の気は翳ったのだが、


(星の名前なんでしょう。すてき)


 その無遠慮な一言を僕は軽蔑した。名も外見も僕にとってはただ忌まわしいものに過ぎなかった。白い影に付き纏われる。それに関する全てが、気遣いだけだとしても、僕を自己嫌悪とか自嘲の渦へ呑み込んだ。こんな、下らない人物に僕を会わせたのかと、くろがねすらを呪った。しかし僕の顔に現れた憎悪にも彼女は顔色一つ変えずに云い放った。


(私、あなたの色が好き。花に似ている。丁度今頃咲いてるわ……)


 寝台を跳ね降りた彼女は唐突に遠慮無く僕の手首を掴んだ。その表情とは対蹠的に彼女の腕は不自然に痩せていて、その時初めて僕は彼女が病人であることを思い出した。僕のためらいをよそに彼女はそのまま僕を室外へ引っ張った。病室を振り返り見てもくろがねは笑うばかりで追いかけようとはしなかった。階段を一つ降り、辿り着いたのは中庭だった。

 口の字型の療養所で中庭はほぼ全ての室に面していた。そこは壁に囲まれて翳り冷え冷えとしていた。中央に一本の広葉樹が立ち、白い房を垂らした茂みがそれを囲んでいた。それは全て花だった。彼女はその名を僕に伝えた。


(ユキヤナギ)

(……捻りの無い名前だ)

(分かりやすいよね。死ぬまで憶えていられそう)


 「雪を被った柳の枝」その正体は白い小花による花房で、無造作な方向にその白色を広げていた。その風景の中で花が淡く発光しているような錯覚を覚えた。

 彼女は僕の手を握ったままだった。


(あなたに似ていると思った)

(……白いから?)

(うーん、雰囲気も)


 目を落とすと地面は苔むしていた。日照が悪い。しかし通りは往来の為に騒がしく空気も悪い。療養所の窓には不向きであった。

 日陰の中で彼女の肌も病的に白かった。


(雪柳の花が好き。すごく、たわわに実って、春だよ春だよってみんなでにこにこしてるように思う。道の脇に一面に咲いているのを見ると特に。春をお祝いしてるんだけど、ツツジのパーティーみたいに陽気なんじゃなくて、もっとお上品な感じがする)

(ロマンチストなのか)

(ハウトさんもきっとそうよ)


 彼女は当たり前という風だった。どこが、僕には分からない。


(で、ね。ここの雪柳、日陰になってるでしょう。日向に咲いてる雪柳はもう散り始めてるのもあるけど、ここのは日陰だから開花が遅くて、今、満開なんだ。

 周りに仲間も無く、この雪柳は取り残されて孤独に見える、けれど、春になったら、こんな日陰にもちゃんと咲く。……孤独でも、怖くないよって……)


 思考が纏まらずだんだんと詰まった。頭を抱えた彼女に、


(結局、云いたい事は?)


 と仕方無しの助け船を出しても、彼女は結論を掴みかねたままだった。


(おお、仲良くなったかあ?)


ふと上方からの声を見遣ると、窓を開けたくろがねが見えた。彼女は手を振って答えた。


(仲良くなったよー)

(そうかあ)

(……一寸待て、僕は何も……)

(でもぐちぐち云ってないで、そろそろ上がって来い。身体が冷える)


 彼は窓から身を乗り出して中庭を見下ろした。下を向いた顔面は暗がりになったが、午后の日差しで身体はあかるく照らされていた。ふと、僕はそこに或る一種の隔たりを覚えた。病という日陰が僕達と彼を決定的に隔てている、こんな思考が突然に僕の脳裏に思い浮かんだ。彼女は身体を病み、僕は思考を病んでいた。

 そして日向の彼は僕達を上へ帰そうとした。


(うぅん、もうちょっと花を見てるよ)


 そうか、と云って彼は窓を閉めた。彼は彼なりに安心したようだった。そこに云い知れぬ寛大さを見た気がした。その寛大さは僕には永久に届かないとも気付く。

 日陰は“春の陽気”を嘲るように暗く、湿気を帯びて冷たかった。僕は改めて新しい目で中庭を見た。四方の壁に隔絶される。くすんだ壁がそびえ立つ。ここは地上と同じ地層ではなく落ち窪んだ穴の底なのかも知れない、そういう幻想を抱き始めていた。幻想、僕らしく無い。

 彼女は苦い顔をしていたであろう僕を覗き込んだ。(気分が悪い?)と尋ねられ、僕は答えなかった。首を傾げた彼女は少しだけ思案し、


(日陰でじめじめしているからじゃない?)

(そうかも知れない)


 無意識的に出た答えだった。それを受け彼女はまた思い廻らす。


(春だからね。さわやかじゃないんだよ)


 意外な事を云った。


(“春の陽気”ではなく?)

(それは、見せかけだけ。春はじめじめ。

 冬は寒いし乾いてるから、嫌なものはみんな眠って何にも無くてとっても静か。でも春は、色んなものがめざめてくる。きれいなものも嫌なものも。

 花が咲くってことは土が目覚めること。土の中の死骸が溶けはじめて、虫が目覚めるから花が咲くんだと思う。春がきれいなのは花が咲くからだけど、それは土や虫がうごきはじめたからで、だから春は土と虫の日陰で出来ているんだよ)


 彼女は雪柳の下に蹲み花房を掻分け、日陰の黒土を覗かせた。ほのかに湧き上がる湿度を肌に感じ、それは呼吸の吐息を思い起こした。そこに蹲る気配を。


(虫が好きなのか?)


 僕は尋ねた。彼女は笑って返した。


(……駄目、どうしても触れないんだ)

(……僕もだ)


 戻ろう、と誰とは無しに呟いた。僕が云った事か彼女のことばか分からない。僕達は雪柳咲く暗い中庭を後にして、建物に通じる非常扉を開けた。

 彼女の喪失はそれから六年のちの事である。

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