金木犀
マガリーの姿を見るや否や、シューはマガリーの手を引きむりやり教室に連れ込んだ。マガリーはシューの強引さには慣れていたし、すでに感心すらしていたのかも知れない。よって教室内の生徒はマガリーの顔を苦笑めいた、まるで子供に手を焼く若い母親か父親のように見たのではないか。圧しこめるようにマガリーを椅子に掛けさせたシューの顔もマガリーは見慣れていた。でなければこんな朝早くからシューが来ている筈がない。
「どうしたの?」
マガリーは形式的に聞いた。ずいぶん前からこれが二人の挨拶であり、合言葉であった。
「たのしいことだよっ」
級友をつめこんだときから続く、屈託のない笑顔を今も保っている。笑うと白い歯がのぞいた。彼女の髪色も同じような色をしている。ふわふわの髪だ。
「たのしいことっ」
「どんなの?」
予想通りの問いかけに彼女は揚々とした気分を抑えられないらしく、級友の机のぐるりを歩き続ける。
「あのねえ……」
話し上手の級友は声の高さをゆるやかに落としていく。
「見ちゃったんだって」
「へ?」
思いがけず裏返った声を出してしまった友人を認めてシューは満足げに笑った。シューの話を真剣に聞くのはマガリーくらいしか居ない。
「こっほんっ」
芝居がかった咳をひとつし、白い髪の少女は話しはじめる。
「十八番街の坂を登ったところ、そこに、お屋敷あるよね?」
「植物園の方だよね? お屋敷なんてあったっけ?」
「植物園に行く道の途中にちっちゃい別れ道があるの。ほとんどけもの道。そこをしばらく歩くとね、おっきいお屋敷があるんだって」
一呼吸置いて、シューは続ける。
「……ある人が、土曜日に植物園に行こうと、その坂を歩いてたの。でも道に迷っちゃって、たぶん違う道に入っちゃったんだと思うけど、その、お屋敷の方に出ちゃったんだよ。
で、どうしようかって途方に暮れてたら、一人の……確か七歳くらいの男の子がお屋敷の庭にいたから、植物園に行くにはどうしたらいいですか、って聞いたの。
男の子が指さした方に細い抜け道があった。家の裏道じゃないかな。その人はそこを通って、植物園に行けたんだって」
「でも、変だよねっ」
「なんで?」
と聞こうとして、マガリーは、ああと思った。その家は長い間空き家だった筈だ。
「その子、どうして屋敷なんかにいたんだろう?」
長い間空の屋敷に子供がいるのはさほど不自然ではない。秘密基地ごっこでもしていたのなら。しかし問題は『十八番街の蔦屋敷』に『子供が独りで』いたこと。
そこはそれはそれはいわく付きの屋敷で何でも『四十年前実の妹に殺害されたハンナ・レーノルズが屋敷に憑き、屋敷に入る者を全員呪っている』という触れ込みである。
屋敷は坂をかなり登った所にあり、七歳の子供の足で行くには難しいのではないか。
そしてなぜ『独り』だったのか。
「ゆーれいかもねっ」
シューは目を輝かせる。「その話はどこで聞いたの、シュー」
「……ええとね、ええと、金曜日……だった、と思う」
あいまいな返事にもマガリーは慣れきっていた。かなりの創作が入っているのは明確だった。シューの話を真剣に聞く人がいないのも頷ける。だから、彼女のマガリー以外の友達らしき人はない。マガリーは彼女に同情していたのかもしれない。
「で、どうするの?」
「ふふーんっ」
マガリーの手をシューがとる。机の前に、待ってましたとばかりに立っている。顔には満面の笑顔。
「行こう、行こうっ! 調査調査、ゆーれい調査。行こうよっ!」
丁度ベルが鳴り、ばらけていた生徒は各自の席に戻った。約束だよ、と彼女は離れた自席に座った。担任は少し遅れてきた。
「えー、我々には直接に関係はないが、初等部に転入生が入った。植物園の近くの坂を登ったとこに越してきたそうだ。先輩として、その子のお手本になるように」
すぐにマガリーはシューの落胆を肌に感じた。もしかしたら目には涙が浮かんでいたかもしれない。
昼休み、案の定シューは沈んでいた。その溜息で何を言いたいのか、マガリーには分かった。
(久しぶりにマガリーとどこかにいく理由ができたのに。誰かと遊べるのに。遊べるのに)
見かけよりずっと、彼女は幼くて脆く、傷つきやすく誰より無邪気だった。いつのまにか傷つくまいとして嘘が多くなり、周囲には虚実症の天のじゃくと思われるようになった。ただ「今日午後遊ぼう」とも言えず、わざわざ少年の話を持ち出さなければならなかった。だから相手にされず、友達ができない。
「シュー、……残念だった、ね」
今度はマガリーが、彼女の机の前に立つ番だった。
「うんっ……」(ずっとマガリーと一緒に行こうと思ってたのに)
大きな瞳が揺らぐ。
「ねえ、幽霊調査は駄目になっちゃったけどさ」
マガリーは言った。
「植物園行かない? 折角だからどうかな。そういえば今金木犀が咲いているんじゃないかな」
「きんもくせい?」
「小さなオレンジ色の花。香りがすごく強くて、遠くまでいい匂いがする。シューは気に入ると思う」
「本当?」
大きな瞳がぱっと輝く。マガリーは微笑んだ。
「他にもたくさん花や木がある。姫林檎も実っているかもしれない。シューが好きな花もきっとあるよ。一緒に行こう?」
これだけたくさんの、彼女の求めた理由がある。シューは勿論すぐに飛び乗ってくれた。
午後の始業のベルが鳴り、マガリーは席につく。窓の向こうからほのかに甘い匂いがする。マガリーは微笑んだ。「うんっ!」と言ってくれたあの、シューの顔を思い出していた。
そういえば新しい本を買ったんだった。あの本をシューは気に入ってくれるだろうか。あとは何を持って行こう。小さな野草図鑑は? そうだ、金木犀がとてもきれいな場所があったんだ……
甘い風が、教室の中を廻る。もうすっかり秋なのだ。
2007.10.04