『涙』
涙
私が道を歩いておりますと、前の方から泣き声が聞こえてまいります。私は少しばかり足を速めまして、泣き声の主が居られる方へと向かいました。
すると道の真ん中で、少女がうずくまって泣いておられます。
「どうなさいましたか? 泣くのはお止め下さい。」
私はそう言って彼女に話しかけましたが、一向に泣き止む気配は感じられません。私はしばし途方に暮れ、しばらくその、触れれば砕けてしまいそうな細身を見つめておりました。
私はそのまま案山子のようにそこに立っておりましたが、もうそろそろ行かねば約束に遅れてしまうやも知れません。そう思って仕方なしに立ち去ろうとした矢先、
「タライなのです。」
少女が、涙をのどの奥に堰き止めているかのような声で、そう私に告げられました。振り向くと、未だ潤んだ瞳で――しかしその瞳はどこまでも透き通っております――真っ直ぐに私の目を見つめておられました。再び彼女は俯いてしまわれます。必死な訴えだったのでありましょう、その細い肩は細やかに震えているようにも見受けられます。
はて、タライとは?
お若く美しい顔立ちをしておられますが、タライにまつわる手痛い失恋でもなさったのでしょうか。
その顔を覆っている手は、細いながらも働き者の手のように見受けられますから、もしくは、彼女のご実家がタライを製作するお仕事をなさっておられ、しかし不況の中でその家業が潰れてしまいそうなのでしょうか。
透き通った、どこまでも真っ直ぐな瞳の持ち主でもあられますから、あるいは、彼女は並々ならぬ情熱でタライを愛しておられ、その彼女をもってしても手に入らない幻のタライが彼女のコレクター魂を傷つけるのでしょうか。
まさか、頭の上に落ちてくるタライが耐えられない、などという話ではありますまい。
「わたしはもう……、落ちてくるタライに耐えられないのです……!」
彼女が声を搾り出すようにして、そうおっしゃいました。
若くして、なんと過酷な道を歩んでおられるのでしょうか。
芸の道は、人の道の中で最も熾烈な世界であると聞き及んでおります。私は少女の涙に込められた情熱に想いを馳せながら、
「時には、心と体を休めることも必要でしょう。芸の道に果てが無いとはいえ、若くともご無理はなさらずに。」
そう、彼女に微笑みかけました。しかし、彼女は力なく首を横に振ります。何か、私が思い違いをしているのでしょうか。
「わたしは……、芸人ではありません。」
生来の早とちりをやってしまったようです。こればかりは何年生き永らえても、とんと治る様子がございません。
「タライは……、わたしの人生そのものです。物心ついたときから私の頭にはタライが落ちてくるのが常でした。ですから、落ちてくるタライの痛みですら、今となってはかけがえのないわたしの一部なのです。
今日までの十と五年三ヶ月と五日の間、わたしはタライと共に生きてきたのです。今、わたしはタライを売ることで生計を立てております。ですから、タライには何の恨みも憎しみも無いのです。むしろ感謝しているといってもいいくらいです。
……わたしが耐えられないのは、」
ガンッ★、とコントのように小気味の良い音を響かせてタライが彼女の頭に落ちました。たいして驚かれることもなく、地面に転がり落ちたタライを、彼女の瞳がじっと見つめておられます。深い悲しみが、その瞳に満ち満ちているように見受けられます。息を呑むようにして、一拍おかれると、意を決したようにおっしゃられます。
「……わたしが耐えられないのは……金魚さんのことです!」
私もタライの中へと視線を動かします。
鈍く輝くタライの中、紅一点。
ピチピチと、金魚さんが一匹、力を失いつつも必死に水を求めて跳ね回っておられます。
「……幼い頃は、気にもなりませんでした。でも、今ではもうとてもこれ以上は耐えられません。いつもいつもいつも、必ずタライの中には金魚さんがいて、わたしの目の前で死んでしまうのです!
今まで何度助けようとしても、一度も間に合いませんでした。
だから今までは、仕方ないことなのだ、と自分を言い聞かせて、泣くことも必死に我慢してきました。
ずっとずっと、夢の中でも金魚さんが死んでいくのを見てきて、それでもずっと、泣かないで我慢してきました。でも、もう駄目です。もう、……もう目の前で金魚さんが死んでしまうのは耐えられません……。」
そうして、彼女の透き通った瞳から、大粒の涙が流れだしました。私はどこまでも真っ直ぐに生きておられる、この目の前の女性にひどく感動してしまい、身動きもできぬ有様でした。
この世に、これほど美しい涙が他にあるでしょうか。
しばし彼女の傍に佇んでおりましたが、そろそろ時間がありません。私は数度、深く深呼吸をしてから、
「それでは、存分にお泣き下さい。」
そう言い残して、彼女の前から立ち去りました。
背中の方から、もはや我慢することのない彼女の泣き声が聞こえております。世界中に響くかのような、悲しい泣き声です。
これが、彼女が今まで背負い続けてきた悲しみと絶望だったのでしょうか。その想いの果てしない深さに、私はまたしても感動を覚えずにはいられません。それは掛け値なしの、彼女の純粋な優しさに違いないのです。
しかし、今日からは。
しかし、泣くことを自分に許した今日からは、その涙の色も、悲しみから喜びに変わるのではないでしょうか。
やがて、一刻も経つころには、タライには透き通るような涙が溜まり、元気な金魚が泳ぎ回っておられることでしょう。
『pure tear』




