行方不明配信者 ―最後のライブログ―
その配信は、午前一時五十八分に始まった。
タイトルは短かった。
《廃病院で一晩過ごす。戻らなかったら探して》
冗談にしては古い。
釣りにしては雑だ。
それでも、深夜の通知を見た者たちは、指先ひとつで画面を開いた。
配信者の名は、美桜。
本名は公開されていない。プロフィールには、ただ「消えた場所に行く人」とだけ書かれていた。
登録者数は三万七千人。
有名と呼ぶには小さく、無名と切り捨てるには大きすぎる数字だった。
彼女は、廃墟に行った。
廃校。
廃ホテル。
使われなくなったトンネル。
水没した集落。
都市伝説の残る団地。
動画の作りは、いつも淡々としていた。
過剰な悲鳴を上げない。
無理に怖がらない。
見ているものを、そのまま言葉にする。
「怖がらせるのは私の仕事じゃないです。怖いかどうかは、見た人が決めてください」
そう言うところが、一部の視聴者に受けていた。
その夜、美桜が向かったのは、山の中腹に残る小さな診療所だった。
正式名称は、白峰記念診療所。
地元では、白峰の病院、と呼ばれている。
病院というほど大きくはない。
平屋に近い二階建てで、受付、診察室、処置室、病室が六つ。奥に職員用の小さな休憩室。地下には古いボイラー室がある。
二十年以上前に閉鎖された施設だった。
理由は経営難とされている。
だが、噂は違った。
夜中になると、閉鎖後の診療所に灯りがつく。
無人の受付に、診察券を入れる音がする。
処置室のドアの向こうから、誰かが名前を呼ばれる。
そして、呼ばれた者は帰ってこない。
いかにも作り話だった。
だからこそ、美桜は行った。
配信開始から四十秒後、画面に彼女の顔が映った。
スマートフォンを片手に持ち、もう片方の手で懐中電灯を構えている。黒いキャップの下から、肩までの髪が少しだけ覗いていた。息は白くない。夏の終わりだった。
「こんばんは。聞こえてますか」
コメント欄が動き出す。
――来た
――始まった
――音大丈夫
――見えてる
――今日はやめとけ
――ここガチでやばいやつでは
――白峰って去年も誰か行ってなかった?
――美桜ちゃん、無理しないで
美桜は画面を見て、小さく笑った。
「無理はしません。危ないと思ったら戻ります」
その言葉が、最初の嘘になった。
診療所は、山道の終点にあった。
車が二台ほど停められる空き地の奥に、黒ずんだ建物が沈んでいる。外壁は灰色に汚れ、窓ガラスはほとんどが割れていた。入口の上には、白峰記念診療所、と書かれた看板がまだ残っている。
懐中電灯の光が看板をなぞった。
「思ったより残ってますね」
――雰囲気ある
――もう帰ろう
――入り口の右、何かいない?
――木だろ
――いや白いの見えた
――スクショした
美桜はコメントを読み上げなかった。
いつもそうだった。怪しいコメントに即座に反応しない。視聴者の恐怖を煽るより、自分の目で確認することを優先する。
入口の自動ドアは動かなかった。
もちろん電気は来ていない。片側だけが斜めに外れ、人ひとりが通れる隙間を作っていた。
「入ります」
美桜はそう言って、隙間に体を滑り込ませた。
画面が一瞬、暗くなる。
次に映ったのは、受付だった。
床には落ち葉とガラス片が散っている。受付カウンターの内側には、古いカルテ棚が並んでいた。棚の多くは空で、いくつかの引き出しだけが半開きになっている。
壁の時計は、二時十四分で止まっていた。
――時計
――止まってる
――二時十四分
――またその時間か
――何がまた?
――この病院の噂、二時十四分って出てくる
美桜はカウンターへ近づいた。
「受付です。かなり荒らされてますね」
足元で紙が鳴った。
彼女はしゃがみ、床に落ちていた一枚を拾う。
黄ばんだ紙だった。印刷された枠の上に、手書きで何か書かれている。
画面が近づく。
名前欄は空白。
年齢欄も空白。
住所欄も空白。
ただ、右下に赤いペンで一文だけ書かれていた。
受診者は、視聴に同意したものとする。
コメント欄の速度が上がった。
――なにこれ
――視聴?
――受診じゃなくて?
――誰かが仕込んだやつだろ
――美桜ちゃんの仕込み?
――字が新しくない?
――いや紙は古い
美桜は紙を裏返した。
裏には何もない。
「変な紙ですね。受付にありました。持ち帰りません。ここに戻しておきます」
彼女は紙をカウンターに置いた。
その時、奥で音がした。
かたん。
小さな音だった。
何かが倒れたような、乾いた音。
美桜は顔を上げた。
「今、奥で音がしました」
――聞こえた
――聞こえた
――マジで聞こえた
――誰かいる
――スタッフだろ
――スタッフいない企画じゃなかった?
――帰れ
懐中電灯の光が廊下を照らした。
診察室。
処置室。
病室。
検査室。
プレートの文字はところどころ剥がれている。廊下の奥は暗く、光が届いてもまだ黒い。
「確認します」
――やめろ
――行くな
――確認しなくていい
――配信者ってなんで確認するんだ
――仕事だから
美桜は廊下を進んだ。
床が軋むたびに、スマートフォンのマイクが嫌な音を拾った。がらんとした建物の中で、彼女の呼吸だけが近い。
最初の部屋は診察室だった。
ドアは開いていた。
中には机と椅子、錆びた診察台が残っている。壁際の棚には、空の薬瓶が数本並んでいた。
「診察室です。特に何も……」
そこで、美桜の声が止まった。
机の上に、タブレット端末が置かれていた。
新しかった。
この建物の中では、あまりにも新しすぎた。
画面は黒い。
美桜が近づくと、ひとりでに明るくなった。
そこには、配信画面が映っていた。
美桜自身の配信だった。
彼女が診察室の入口に立っている姿が、少し遅れて表示されている。タブレットの中の彼女が、懐中電灯を動かす。数秒遅れて、現実の美桜と同じ動きをする。
――え
――タブレット?
――誰の?
――遅延してる
――配信見てる端末置いてあるだけでは
――電源どうなってんの
――圏外じゃないの?
美桜はタブレットに触れなかった。
「誰かが置いたものだと思います。ただ、電源は入っています」
彼女はスマートフォンを持ち直し、画面をタブレットに近づけた。
配信画面のタイトルが見える。
《廃病院で一晩過ごす。戻らなかったら探して》
美桜の配信と同じタイトルだった。
ただし、表示されている配信者名が違った。
Mioではなかった。
視聴者
そう表示されていた。
――配信者名おかしい
――視聴者って何
――怖
――誰か名前変えた?
――これ仕込みならセンスある
――いや普通に気持ち悪い
美桜は黙ってタブレットを見ていた。
その沈黙が、いつもより長かった。
「これは……持ってきていません」
声が少し硬い。
「私は一人で来ています。スタッフもいません。予備端末も車に置いてきました」
――じゃあ帰ろう
――帰る理由できた
――これは撤退
――無理するな
――いや検証しろ
――再生数伸びるぞ
――帰れって
タブレットの画面が乱れた。
配信中の美桜が、こちらを見ている。
現実の美桜はタブレットを見下ろしているのに、画面の中の美桜だけが顔を上げ、正面を見ている。
まるで、こちら側の視聴者を見ているように。
美桜は一歩下がった。
その時、タブレットから音が出た。
『次の方、どうぞ』
古い病院の受付で聞くような、女性の声だった。
美桜は息を呑んだ。
スマートフォンの画面が揺れる。
――今の何
――音出た
――タブレット?
――女の声
――次の方って言った
――美桜ちゃん帰って
――帰れ
――帰れ
――帰れ
コメント欄が、同じ言葉で埋まっていく。
美桜はタブレットを置いたまま、診察室を出た。
「一度、入口に戻ります」
その判断は正しかった。
しかし、廊下に出た時には、入口がなくなっていた。
正確には、入口へ続く廊下が消えていた。
彼女が来たはずの方向に、別の廊下が伸びている。古い病室のドアが左右に並び、その奥は黒く沈んでいた。
美桜は立ち止まった。
「……配置が違います」
――え
――さっき受付あったよね
――来た道戻ってない?
――編集?
――生配信だぞ
――GPSは?
――コメント拾ってる場合じゃない
――走れ
美桜は振り返った。
診察室のドアが閉まっていた。
さっきまで開いていたはずなのに、音もなく閉まっていた。ドアのプレートも変わっている。
診察室ではなかった。
診察中
そう書かれていた。
美桜の呼吸が近くなる。
「落ち着きます。こういう時は、まず現在位置を確認します」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
スマートフォンを操作する音がした。
地図アプリを開いたのだろう。
「圏外です」
――ですよね
――配信できてるのに?
――配信は続いてる
――圏外で配信できるわけない
――じゃあ何で見えてるんだよ
――見てるからだろ
最後のコメントが流れた瞬間、画面が一度だけ黒くなった。
すぐに戻る。
廊下の奥に、人影が立っていた。
白い服。
腰まで伸びた髪。
顔は見えない。
美桜は動かなかった。
「誰かいます」
――見えてる
――いる
――白い
――患者?
――スタッフ?
――人じゃない
――声かけるな
――逃げろ
人影は動かなかった。
ただ、廊下の奥でこちらを向いている。
美桜は声を出した。
「あの、すみません。人がいますか」
返事はない。
「あの、ここ、危ないので……」
そこで、人影が手を上げた。
ゆっくりと、こちらを指さす。
美桜ではない。
スマートフォンのレンズを指していた。
コメント欄が止まった。
ほんの数秒、誰も書き込まなかった。
その沈黙の後、ひとつだけコメントが流れた。
――こっちを見てる
人影が口を開いた。
音は聞こえなかった。
けれど、唇の動きははっきりと映っていた。
み て る ひ と
美桜は走った。
廊下を逆方向へ駆け出す。
スマートフォンの画面が大きく揺れ、壁と床と天井が入れ替わる。息が乱れ、靴音が反響する。
――走れ
――走れ
――左
――いや右
――前から来る
――後ろ見ないで
――後ろ!
――後ろ見るな!
美桜は振り返らなかった。
廊下の角を曲がる。
そこに受付があった。
最初に入った場所だった。
自動ドアの隙間も見える。
「出口です」
美桜はそこへ向かった。
だが、カウンターの前で足が止まった。
受付の上に、紙が置かれていた。
さっき彼女が拾った紙ではない。
新しい紙だった。
白く、折り目のない、きれいな問診票。
名前欄には、こう書かれていた。
美桜
年齢欄も、住所欄も、血液型も、既往歴も、すべて埋まっていた。
本人しか知らないはずの情報まで、そこに記されていた。
そして、右下の同意欄には、赤い丸がついていた。
視聴に同意する。
――個人情報
――やばい
――これ本名?
――映すな
――モザイク
――早く出て
――同意って何
――誰が丸つけた
美桜は問診票を見つめていた。
その手が震えている。
「私は、書いてません」
受付の奥で、電話が鳴った。
古い黒電話だった。
最初に通った時には、そこになかったはずだ。
じりりりりりん。
音が建物中に響く。
じりりりりりん。
美桜は出なかった。
じりりりりりん。
――出るな
――絶対出るな
――出たら終わる
――でも出ないと進まないやつ
――ゲームじゃない
――美桜ちゃん、出ないで
じりりりりりん。
電話は鳴り続けた。
美桜はゆっくりとカウンターの向こうへ回った。
止めるコメントが流れ続ける。
だが、彼女はもう画面を見ていなかった。
受話器を取る。
「……はい」
少しの沈黙。
スピーカーから、かすれた声が漏れた。
『順番が来ました』
美桜は受話器を置いた。
その直後、受付の奥のドアが開いた。
診察室へ続くドアだった。
中に灯りがついている。
古い蛍光灯の、青白い光。
――行くな
――逃げろ
――出口そこ
――出口から出ろ
――なんで行くの
――体が勝手に動いてない?
――美桜ちゃん?
美桜は出口を見た。
自動ドアの隙間の向こうに、外の暗闇が見える。夜の山。自分の車。帰れる場所。
彼女は一歩、出口へ向かった。
その時、コメント欄に、大量の文字が流れ始めた。
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
同じ言葉が画面を埋め尽くす。
美桜は立ち止まった。
「やめて」
初めて、彼女は視聴者に向かって言った。
「打たないで。お願い」
コメントは止まらない。
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
――診察室
中には、明らかに視聴者本人の意思ではないものも混じっていた。
――打ってない
――勝手に出てる
――俺じゃない
――コメント消せない
――入力してない
――画面が勝手に
――診察室
――診察室
美桜の足が、受付奥のドアへ向いた。
彼女は首を振った。
「違う。行かない」
だが、体は進んだ。
一歩。
また一歩。
スマートフォンのレンズが、青白い部屋を映す。
診察室の中には、医師の机があった。
椅子が二脚。
壁際に診察台。
古い血圧計。
錆びた器具。
そして、机の向こうに、誰かが座っていた。
白衣を着ている。
顔は、暗くて見えない。
『お名前を』
声がした。
電話と同じ声だった。
美桜は答えなかった。
『お名前を』
「……美桜」
『本名で』
美桜の喉が鳴った。
コメント欄には、彼女の本名らしき文字列が流れた。
誰かが書いた。
いや、書かされた。
美桜は画面を見た。
「やめて」
声が掠れていた。
「お願い。書かないで」
だが、文字は増えていく。
本名。
年齢。
住所。
通っていた学校。
過去の配信で一瞬だけ映った郵便物。
切り抜き動画から推測された最寄駅。
過去の発言から拾われた家族構成。
断片が集まり、ひとりの人間を形作っていく。
美桜は泣いていなかった。
ただ、顔から血の気が引いていた。
『確認しました』
机の向こうの医師が言った。
『視聴者の皆様、ご協力ありがとうございます』
その瞬間、コメント欄が止まった。
完全に止まった。
美桜は動けない。
医師が立ち上がる。
白衣の胸元に、名札がついていた。
医師名は空白だった。
白衣の男は、診察台を指さした。
『横になってください』
美桜は首を振った。
「嫌です」
『横になってください』
「嫌です」
『横になってください』
同じ声。
同じ抑揚。
壊れた機械のように、何度も繰り返す。
美桜は後ずさった。
その時、診察室のドアが閉まった。
大きな音はしなかった。
ただ、外の暗闇が断ち切られた。
スマートフォンの画面が乱れる。
ノイズ。
白い線。
途切れる音声。
その中で、美桜の声が聞こえた。
「見ないで」
誰に言ったのかは分からない。
「お願い。もう見ないで」
配信は、そこで一度切れた。
◇
翌朝、白峰記念診療所の前で、美桜の車が発見された。
運転席に人はいなかった。
助手席に予備のバッテリーと上着が残されていた。
後部座席には、撮影用の小型ライトと三脚が置かれていた。
警察は周辺を捜索した。
山道。
診療所の内部。
裏手の斜面。
近くの沢。
どこにも、美桜はいなかった。
入口の自動ドアは、外側からなら簡単に出入りできる状態だった。
内部に新しい足跡はほとんど残っていなかった。床には砂埃とガラス片があり、複数人が動き回った痕跡は確認されていない。
診察室には、机と椅子が残っていた。
タブレット端末は見つからなかった。
黒電話もなかった。
受付カウンターの上には、一枚の古い問診票があった。
名前欄は空白。
年齢欄も空白。
住所欄も空白。
右下にだけ、赤いペンでこう書かれていた。
受診者は、視聴に同意したものとする。
警察は事件性を否定しなかった。
だが、事件として扱うには、あまりにも証拠が足りなかった。
美桜の配信アーカイブは、翌朝には削除された。
運営側の説明は短かった。
利用規約に反する可能性のある映像であるため、確認のため非公開としました。
それで終わるはずだった。
だが、その日の深夜二時十四分。
削除されたはずのアーカイブが、再び表示された。
タイトルは変わっていた。
《最後のライブログ》
配信者名は、Mio。
再生時間は、二時間十四分。
サムネイルには、診察台に横たわる誰かの足が映っていた。
顔は映っていない。
それでも、靴を見れば分かった。
美桜がその夜、履いていた靴だった。
アーカイブは三分で消された。
しかし、三分あれば十分だった。
誰かが録画していた。
誰かがスクリーンショットを撮っていた。
誰かが切り抜いた。
動画は複製され、拡散された。
消されるたびに増えていった。
それを見た者たちの中に、奇妙な現象を訴える者が現れた。
動画を最後まで見ると、自分の部屋のどこかで電子音が鳴る。
スマートフォンではない。
パソコンでもない。
どこから鳴っているのか分からない。
音は一度だけ。
REC
その三文字が、画面の隅に表示される。
録画していないはずなのに。
カメラを起動していないはずなのに。
自分の部屋が、数秒遅れで映る。
最初は悪質なマルウェアだと言われた。
次に、都市伝説だと言われた。
最後には、誰も話題にしなくなった。
話題にする者から順に、消えていったからだ。
◇
僕がその動画を見たのは、美桜が行方不明になってから三週間後のことだった。
僕は怪談が好きではない。
怖いものが苦手という意味ではない。
怪談は、責任の所在が曖昧だから嫌いなのだ。
誰かが死ぬ。
誰かが消える。
誰かが呪われる。
それを面白がった人間は、たいてい最後まで安全な場所にいる。
視聴者。
読者。
傍観者。
コメント欄の名前も顔もない群れ。
僕も、その一人だった。
だから、見ないでおくべきだった。
美桜のアーカイブは、知人から送られてきた。
メッセージは一行だけだった。
これ、最後まで見た?
僕は見ていない、と返そうとした。
だが、その前にサムネイルを開いてしまった。
廃病院の廊下。
青白い診察室。
診察台。
白い靴。
再生ボタンが、画面の中央にあった。
僕は一度、アプリを閉じた。
五分後、また開いた。
見るつもりはなかった。
確認するだけのつもりだった。
そんな言い訳を、僕は自分に用意した。
動画は荒かった。
誰かが録画したものをさらに録画したようで、画面の端が歪んでいた。
冒頭は、美桜の配信そのものだった。
山道。
診療所。
受付。
問診票。
タブレット。
診察室。
コメント欄も映っていた。
その中に、自分のアカウント名がないことに、僕はなぜか安心した。
最後まで見なければいい。
そう思った。
だが、途中で止めることができなかった。
不思議な力で手が動かなくなった、というわけではない。
ただ、知りたかったのだ。
美桜はどうなったのか。
あの診察室で何が起きたのか。
なぜ、彼女は「見ないで」と言ったのか。
自分の好奇心に、僕は負けた。
動画の終盤、美桜は診察台に座らされていた。
スマートフォンは、診察室の机の上に置かれているようだった。
だから、画面は斜め下から彼女を映していた。
白衣の医師は映っていない。
声だけがする。
『痛むところはありますか』
美桜は答えない。
『眠れていますか』
答えない。
『誰かに見られていると感じますか』
美桜の肩が震えた。
医師の声が、少し近くなる。
『あなたは、見られることで存在してきました』
美桜は顔を上げた。
『あなたは、視聴者がいなければ配信者ではありません』
その言葉は、彼女に向けられているようで、僕らに向けられているようでもあった。
『では、視聴者が責任を持つべきです』
画面が乱れる。
コメント欄が再び動き始めた。
――やめろ
――美桜ちゃん
――これは何
――助けて
――誰か警察
――もう見ない
――閉じられない
――閉じられない
――閉じられない
動画を見ている僕の画面にも、同じコメントが流れていた。
録画映像のはずなのに。
すでに終わった配信のはずなのに。
コメント欄だけが、今のものだった。
そこに、僕のアカウント名が表示された。
僕は何も打っていなかった。
だが、コメント欄には、僕の名前でこう流れた。
見ています。
背中が冷えた。
僕は動画を閉じようとした。
指が画面に触れる。
だが、閉じるボタンは反応しなかった。
動画の中の美桜が、こちらを見た。
はっきりと。
画面のこちら側にいる僕を。
「見ないでって、言ったのに」
声が、スマートフォンのスピーカーからではなく、部屋の中で聞こえた。
僕はスマートフォンを投げた。
床に落ちた画面は、まだ再生を続けていた。
美桜の顔が映っている。
涙は出ていない。
怒ってもいない。
ただ、疲れ切った目をしていた。
「あなたが見るから、終わらない」
画面の端に、赤い文字が出た。
REC2
それだけだった。
僕の部屋で、電子音が鳴った。
短い音。
録画が始まる時の音。
スマートフォンの内側カメラが、僕の顔を映していた。
いや、違う。
スマートフォンではない。
画面には、僕の背中が映っていた。
床に落ちたスマートフォンを見下ろす、僕の背中。
つまり、撮影しているのは、僕の後ろにいる何かだった。
僕は振り返れなかった。
画面の中で、僕の背後に白い手が伸びていた。
それは、僕の肩には触れない。
ただ、画面の端から入り込み、レンズの向こう側を指さした。
見る人。
唇のない声が、そう言った。
◇
警察に相談したのは、翌朝だった。
当然、信じてもらえなかった。
正確には、信じるか信じないか以前の問題だった。
スマートフォンには動画が残っていなかった。
メッセージ履歴から、送られてきたURLも消えていた。
送ってきた知人に確認すると、そんなものは送っていないと言われた。
ただ、僕の部屋の床には、一枚の紙が落ちていた。
古い問診票だった。
名前欄には、僕の本名。
年齢。
住所。
勤務先。
家族構成。
緊急連絡先。
どれも正確だった。
右下の同意欄には、赤い丸がついている。
視聴に同意する。
僕は丸をつけていない。
そう訴えたが、刑事は困った顔をしただけだった。
「いたずらの可能性もあります。最近は個人情報が漏れることもありますから」
分かっている。
普通はそう考える。
僕だって、他人の話ならそう言った。
警察署から帰る途中、僕は何度も背後を振り返った。
誰もいなかった。
それなのに、視線だけがある。
駅のホーム。
コンビニのガラス。
会社のエレベーター。
夜の洗面所。
どこにいても、画面越しに見られている感覚が消えない。
そして、二日後。
僕のスマートフォンに通知が届いた。
Mioがライブ配信を開始しました。
僕は美桜をフォローしていない。
そもそも彼女のアカウントは、すでに停止されているはずだった。
通知を消そうとした。
指が震えていた。
画面には、配信タイトルが表示されている。
《次の方、どうぞ》
僕はスマートフォンの電源を切った。
切ったはずだった。
画面は消えない。
黒い背景に、白い文字だけが浮かんだ。
まもなく診察を開始します。
その下に、カウントダウンが表示されていた。
02:14:00
数字は、一秒ずつ減っていく。
僕はスマートフォンを叩きつけた。
画面にひびが入る。
それでも、数字は消えなかった。
02:13:54
02:13:53
02:13:52
僕はスマートフォンを水に沈めた。
トイレに流そうとした。
ハンマーで壊そうとした。
何をしても、通知は消えなかった。
最後には、スマートフォンをベランダから投げ捨てた。
十一階から落ちた端末は、駐輪場の屋根に当たって砕けた。
画面は粉々になった。
それで終わったと思った。
部屋に戻ると、パソコンのモニターが点いていた。
黒い画面。
白い文字。
02:01:17
僕はパソコンの電源コードを抜いた。
画面は消えなかった。
テレビが点いた。
タブレットが点いた。
使っていない古い携帯電話の画面まで、引き出しの中で光っていた。
すべての画面に、同じ数字が表示されていた。
カウントダウンは、家の中だけではなかった。
向かいのマンションの窓に映るテレビ。
駅前の広告ビジョン。
コンビニのレジ横の小さなモニター。
タクシーの後部座席の画面。
僕が見る画面すべてに、数字があった。
01:12:09
01:12:08
01:12:07
見なければいい。
そう思った。
だが、人間は画面を見ずに生きられない。
時間。
改札。
信号。
ATM。
職場のパソコン。
スマートウォッチ。
自動販売機。
現代の街は、視線を奪う装置でできている。
僕は目を閉じて歩こうとした。
何度も人にぶつかった。
車に轢かれそうになった。
視界を塞いでも、数字は消えなかった。
まぶたの裏に、白い文字が浮かんでいた。
00:31:44
◇
カウントダウンがゼロになった時、僕は白峰記念診療所の前にいた。
なぜそこにいたのかは分からない。
記憶が途切れていた。
気がつくと、山道の終点に立っていた。
目の前に、あの建物がある。
看板には、白峰記念診療所、と書かれている。
夜だった。
時刻は二時十四分。
手には、スマートフォンがあった。
壊したはずの端末ではない。見覚えのない機種だった。
画面には、配信開始前の待機画面が表示されている。
配信タイトルは、すでに入力されていた。
《最後のライブログ》
配信者名は、僕のアカウントではない。
視聴者
そう表示されていた。
開始ボタンが、赤く光っている。
僕は押さなかった。
押さなかったはずなのに、配信は始まった。
コメント欄が流れ出す。
――来た
――誰?
――美桜じゃない
――男?
――ここ白峰?
――また始まった
――やめろ
――見るな
――見てる
――見てる
――見てる
僕はスマートフォンを地面に置いた。
「見ないでください」
声が震えていた。
「これは配信じゃない。見ないでください。閉じてください。お願いします」
コメント欄は止まらなかった。
――どういうこと
――演技?
――こいつ誰
――美桜は?
――釣りだろ
――でも場所本物っぽい
――中入れ
――入れ
――入れ
僕は首を振った。
「入らない。絶対に入らない」
入口の自動ドアが、ひとりでに開いた。
壊れて動かないはずのドアが、滑るように左右へ開いた。
中から、青白い光が漏れている。
受付の奥で、電話が鳴った。
じりりりりりん。
僕は耳を塞いだ。
じりりりりりん。
コメント欄には、同じ言葉が流れ始めた。
――受付
――受付
――受付
――受付
――受付
「やめろ」
僕は叫んだ。
「打つな。頼むから、打たないでくれ」
――打ってない
――勝手に出てる
――俺じゃない
――何これ
――受付
――受付
――受付
足が動いた。
自分の意思ではなかった。
入口をくぐる。
受付に入る。
カウンターの上には、問診票が置かれている。
名前欄には、僕の本名。
そして、その下に小さく、別の名前が並んでいた。
美桜。
さらにその下に、知らない名前がいくつもあった。
おそらく、美桜の前にここへ来た者たち。
動画を見て、最後まで辿り着いてしまった者たち。
同意欄は、すべて赤い丸で埋められていた。
受付の奥の電話が鳴り続ける。
僕は受話器を取った。
『順番が来ました』
声は、美桜のものだった。
僕は息を止めた。
「美桜さんですか」
返事はない。
「いるんですか。そこに」
受話器の向こうで、かすかなノイズが鳴った。
『見ないでって、言ったのに』
それだけだった。
奥のドアが開く。
診察室に灯りがついている。
僕は抵抗した。
壁に爪を立て、カウンターにしがみつき、足を踏ん張った。
だが、体は進んだ。
画面が、僕の動きを撮っている。
誰が撮っているのかは分からない。
スマートフォンは、僕の手にない。
それなのに配信は続いている。
診察室の中に入る。
机の向こうに、白衣の医師が座っていた。
顔は見えない。
胸元の名札は空白。
診察台には、誰かが座っていた。
美桜だった。
配信で見た時と同じ黒いキャップ。
同じ靴。
同じ顔。
ただし、目だけが違っていた。
彼女の目は、カメラのレンズのように黒かった。
「ごめんなさい」
僕は言った。
「見てしまって、ごめんなさい」
美桜は答えなかった。
代わりに、医師が言った。
『謝罪は記録されました』
「帰してください」
『帰るには、引き継ぎが必要です』
「引き継ぎ?」
『配信者は、視聴者によって成立します』
医師はゆっくりと顔を上げた。
やはり、顔は見えなかった。
そこには影しかない。
『視聴者が十分に集まれば、次の配信者を選定できます』
コメント欄が動いた。
――どういう意味
――こいつが次?
――美桜ちゃん助かるの?
――助けられるなら見る
――見る
――見る
――見る
僕は画面に向かって叫んだ。
「違う。見るな。見たら次はあなたたちだ」
――嘘だろ
――釣り乙
――演技上手い
――でも怖い
――最後まで見る
――最後まで見る
――最後まで見る
美桜が立ち上がった。
ぎこちない動きだった。
糸で吊られているように、首が少し傾いている。
彼女は僕の前まで来た。
そして、僕の手に何かを握らせた。
スマートフォンだった。
画面には、赤い録画マークが出ている。
REC2
美桜が初めて、少しだけ笑った。
「ごめんね」
声は小さかった。
「私も、見たの」
その瞬間、診察室の灯りが消えた。
◇
この文章を書いているのが誰なのか、僕にも分からない。
少なくとも、僕の体はまだ診察室にある。
僕は診察台に横たわっている。
白衣の医師が、僕のそばで問診票に何かを書いている。
美桜はもういない。
彼女は帰れたのだろうか。
それとも、別の画面の中へ移っただけなのだろうか。
分からない。
ただ、配信は続いている。
画面の向こうには、たくさんの人がいる。
名前も顔も分からない。
好奇心で見ている人。
心配して見ている人。
怖いもの見たさで最後まで残る人。
途中で閉じたつもりになっている人。
僕は、その全員に言わなければならない。
見ないでください。
この文字を読んでいる時点で、もう遅いかもしれない。
けれど、それでも言う。
見ないでください。
共有しないでください。
切り抜かないでください。
検証しないでください。
保存しないでください。
コメントしないでください。
あなたが何かを残すたびに、こちら側にあなたの輪郭が届く。
名前。
声。
部屋。
呼吸。
画面に映り込んだ指。
通知欄の文字。
ガラスに反射した顔。
ほんの一秒の沈黙。
それだけで十分なのだ。
医師は、あなたを見つける。
受付には、もう新しい問診票が用意されている。
名前欄は、まだ空白だ。
年齢欄も、住所欄も空白だ。
同意欄にも、まだ赤い丸はついていない。
だから、今ならまだ間に合う。
閉じてください。
お願いです。
画面を閉じてください。
音量を下げても意味はありません。
電源を切っても、たぶん意味はありません。
でも、見続けるよりはましです。
見ないことだけが、ここでは唯一の抵抗です。
僕はもう、抵抗できない。
診察室の時計は、二時十四分で止まっている。
白衣の医師が、僕の名前を呼ぶ。
受付の奥で、電話が鳴る。
じりりりりりん。
じりりりりりん。
じりりりりりん。
コメント欄に、誰かの名前が流れた。
たぶん、次の人だ。
僕はもう目を閉じられない。
まぶたの裏にも、画面がある。
最後に、ひとつだけ記録しておく。
美桜は、最後まで配信者だったわけではない。
彼女は途中から、助けを求めていた。
けれど、僕たちはそれをコンテンツとして見た。
怖い。
すごい。
やばい。
伸びる。
バズる。
保存した。
共有した。
最後まで見た。
その一つ一つが、同意欄の赤い丸になった。
だから、次に呼ばれるのは、たぶんあなたです。
受付の声がする。
次の方、どうぞ。
了




