朱華の反撃
宋凰琴を始めとした妃たちの、優雅な笑みにひび割れが走った、ように見えた。頑丈な仮面だっただろうに、朱華が──彼女たちにとっては陶家の雪莉姫が盾ついたのが、よほど意外だったらしい。
(私を舐めてたのね。良い気味よ!)
新参者はおとなしくしていたほうが良い、とは限らない。妓楼と後宮の流儀が似たようなものなら、隙を見せればつけ込まれる。生意気に見えるとしても、迂闊に手出しをできない、と思ってもらえるなら差し引きは得だろう。
妃たちの苛立ちを煽るため、朱華はあえてゆっくりと茶器を持ち上げ、時間をかけて一杯を味わった。第一皇子の住まい、碧羅宮で供されるだけあって、とても香り高く口当たりも良い。
「私どもの《力》は、皇室より賜ったもの、でございましょう? 畏れ多くも皇帝陛下の予言を疑うなんて、不敬ではございませんの?」
「それは──っ」
たっぷり焦らしてから、小首を傾げて微笑んでみせると、妃のひとりが頬を紅潮させて立ち上がった。がたり、と椅子が鳴らす無作法を咎めた凰琴の鋭い目は、すぐに朱華を貫いた。
「そもそもの話をするなら、時見も遠見も水竜も、すべての力は天より賜ったものよ、雪莉様? 天意に背く使い方をする御方は、皇族といえども諫めなければならないのではないかしら」
碧羅宮の女主人の面の皮はさすがに大したもので、もう優雅な微笑を纏い直している。でも、いくらもっともらしいことを言っていても、その本心は朱華にはお見通しだ。
妃たちの争いは、つまり夫たる皇子たちの争いでもある。
ただでさえ出自と予言のせいで反発を買っていた炎俊が、名家の姫君を──本当は偽者なのだけれど──娶ったのだ。競争相手の皇子たちもその妃たちも、それはまあ焦るだろう。
(要は、見下してた相手が勢いづいて怖い、ってことでしょう?)
今日のお呼ばれは、朱華を大人数で囲んで委縮させよう、意のままにしよう、という意図でもあるはず。でも、本物の深窓の姫君ならいざ知らず、彼女はそれほど可愛い性格をしていない。
「我が君様──炎俊様は、昊耀の国のために私の力を捧げよと命じてくださいました。天意に叶うことであり、名誉なことと存じますわ?」
何の憂いも感じていないかのように、朱華は晴れやかに微笑んだ。
本当のことを言うと、彼女の正体をネタに脅してきた炎俊のことを、完全に許したわけではない。初夜の閨で見せられた綺麗な笑顔を思い出すと、今でも腸が煮えくり返る思いがする。
(でも、この大姐がたよりはマシよ!)
格下だと決めつけた相手は、一も二もなく従って当然だ、と言いたげな傲慢な態度は、陶家の連中を思い出して虫唾が走る。
(どうせ嫌われているなら、取り入ろうとするだけ無駄、よね?)
天遊林に入って以来、猫を被り続けるのにうんざりしていたところなのだ。ちょうど、うるさい峯の婆の監視も逃れられたことだし──もう少し、攻めの姿勢で行ってみよう。
朱華は、わざとらしく胸の前で手を組んで、うっとりとした表情を浮かべてみせた。
「それに。我が君様は、美しい貴公子でいらっしゃいますでしょう? 星黎宮に妃は私ひとりだけ。あの御方を独り占めできるなんて、私は幸せですわ……!」
妃同士で夫の寵愛を争わなければいけない貴女たちとは違って。
朱華の皮肉は、凰琴の胸を的確に抉ったらしい。手強い貴婦人の優雅な微笑が、明らかな憤怒の炎に染まった。もちろんそれは一瞬だけ、その不穏な炎はすぐに優しげな笑みによって拭われる。……でも、凰琴が続けた声音はやけに低く、隠しきれない苛立ちを滲ませていたかもしれない。
「……まあ、雪莉様。ご寵愛と引き換えに、下々のように働くというのですか。市井の妓楼では、そうやって男に貢ぐ女もいるとか。陶家の姫君ともあろう御方が、ご自分を軽々しく扱われるものですわね……!」
「妓楼の事情に詳しくていらっしゃいますのね、凰琴大姐」
実際に妓楼育ちの朱華なのだから、妓女に喩えられても何とも思わない。切り返したのも、嫌みではなく純粋な驚きだったのだけれど──
「とにかく! 私たちは市井の女とは違うのです。強い力を持つ御子をひとりでも多く増やすことこそが務めなのですから。ご夫君を独り占めして喜んでいるようでは、心得不足というものです」
耳まで真っ赤にして憤然と言った後、凰琴は意味ありげな視線をひとりの妃に向けた。
「──ねえ、佳燕様?」
「は、はい。申し訳ございません……」
名を呼ばれただけなのに、その妃は鞭で打たれたように身体を震わせて、顔を伏せた。
(佳燕様……? どの宮の方だっけ……)
見れば、風に揺れる白百合のような清楚で儚げな風情の方だった。この場にいるからにはいずれかの皇子の妃なのだろうに、目上の凰琴が相手だからといって、この怯えようはいったい何ごとだろう。
「謝る必要はないのよ? 佳燕様は、ちゃんと分かっていらっしゃるもの。悪いのは、お聞き入れにならない翰鷹様よ」
翰鷹、というのはやはり皇子の名前だろうか。佳燕の立場を思い出す前に新たな名前が出て、朱華が軽く首を傾げたのに気付いたのか、隣の席の妃がすかさず耳打ちしてくれる。
「皓華宮を賜る第三皇子殿下よ。白妃──佳燕様は、翰鷹様のご寵愛を一身に受けていらっしゃるの」
朱華のために、というよりは、何だか棘のあるもの言いだった。佳燕も、か弱い花が萎れるように、ますます面を伏せてしまう。整った容姿、華奢な姿だけに痛々しいほどだった。
「ええ……まことにもったいなくて……もっと相応しい方にお譲りしたいものなのですが」
突然の流れの変化に朱華が瞬く間にも、妃たちの間からは涼やかな嘲笑と毒を含んだ囁きが漏れる。
「本当に。時見で名高い白家の姫君なのに、佳燕様は明日の天気を当てることもおできにならないのですもの」
「翰鷹様も変わったご趣味をお持ちですわねえ?」
「大人しい顔で、いったいどんな手管を使ったのかしら」
……どうやら、生意気な朱華の代わりに、もっとお手軽な相手に狙いを定めていたぶることにしたらしい。誰が何を言ったわけでもないのに、見事な息の合い方だった。
(本当に、妓楼とやってることが同じなんだから……!)
明らかに気弱な佳燕を標的にする卑劣さも、それで朱華を脅そうとする浅はかさも、まったくもって馬鹿馬鹿しい。──でも、それよりももっと馬鹿馬鹿しいことがある。
「あの」
今日の獲物が朱華だったというなら、初志貫徹して欲しいものだ。気の毒なくらい青褪めて震えている佳燕と違って、彼女なら多少のことでは怯んだりしないのだから。
佳燕のため、というよりは、まだやり足りない、という負けん気を満たすために、朱華は無邪気に声を上げた。
「皆様、まだそんなお遊戯をなさっていますの? そんな──明日の天気を当てるとか、そんなどうでも良いことを?」