第一皇子の宮、碧羅宮
天遊林の東に位置する碧羅宮では、その名の通りの碧の瑠璃瓦が陽光に輝いていた。天遊林の四方の宮は、それぞれの方角に則った色と名を帯びるのだ。黒を基調にして重厚な雰囲気のある北の星黎宮とこちらでは、だいぶ雰囲気も違うようだった。
それは、建物が纏う色だけが理由ではないだろう。第一皇子を主とする碧羅宮には、すでに何人もの妃が迎えられていて、彼女たちが従える侍女も宮の中を行き来している。そんな女たちの小鳥のさえずりのような声や衣擦れの音が、空の色を纏う宮に、いっそう華やいだ雰囲気を与えているのだろう。
「陶妃様、ようこそお出でくださいました」
「第一の宮にお招きいただき、まことに光栄に存じます」
「皆様、首を長くしてお待ちですわ。どうぞこちらへ」
侍女を従えて碧羅宮を訪ねた──というか炎俊に放り込まれた朱華は、出迎えた者の所作の美しさ恭しさ、言葉遣いの丁寧さに少しだけ驚いた。
(新参者にもお優しいのね?)
もちろん、各々の立場や序列はどうあれ、皇子の妃が蔑ろにされてはならないのだけど。でも、もう少しひやりとした棘のようなものが突きつけられるのではないかと思っていたのに。
庭園を臨む客庁に通された朱華を迎えたのも、目が眩むばかりの華やかな彩と美しい笑顔だった。
「まあ、陶妃様。ようやくお会いできましたわね。雪莉様とお呼びしてもよろしいかしら?」
「もちろんですわ、宋妃様」
「私のこともどうぞ名でお呼びくださいな。同じ妃同士なのですもの」
碧羅宮の女主人は、宋家の凰琴という名の女の、おっとりとした雰囲気の佳人だ。纏う衣装の色も柔らかく、驕ったところなど欠片も見えない。……少なくとも、表面上は。
「まあ、なんてお優しいお言葉でしょう」
でも、だからこそ朱華は怖い。控えめな笑みも淑やかな声も、何の疑問も抱いていない良家の姫君を演じられているはずだけれど。
『義姉上たちに挨拶をしておくれ。私はどうも嫌われているようだから』
「旦那様」は割とさらりと言っていたけれど、嫌っている義弟の嫁は、やはり嫌われるものではないかと思うのに。
(例の予言を警戒しているってことかしら。それとも、市井育ちなのが気に入らない? 両方かもしれないわね……)
炎俊は、具体的に朱華に何を求めているかは少しずつ教える、と言っていた。言葉で説明するのではなく、実際の社交の場で察して来い、だなんて──かなり乱暴ではないかと思うけれど、彼らしいと言えば彼らしい。
(確かに、実際に見聞きしないと分からないこともあるしね)
遠見や時見の力を持っていたとしても、相手と直に会って、呼吸や表情を肌で感じることから読み取れることは大きいのだから。
「雪莉様は、どうぞ真ん中に。皆様にお顔を見せてくださいね?」
「恐れ入ります、大姐」
あくまでも優雅に、にこやかに。朱華は勧められた席に着いた。
客庁には、凰琴の他にも先客がいた。第二皇子と第三皇子の宮からも妃たちが招かれているのだ。今日は朱華の顔見せの席だから、新参者の器量を見ておこうということだ。それぞれの髪に飾った玉に、金銀の簪に、天女のごとき薄く軽やかな領巾に──気合の入った装いが、とても眩しい。
一通りの紹介が済むと、茶菓を摘まみながらの歓談の席になった。これもまた百花園の時とは違って、お互いの《力》を見せ合う場面はない。妃に選ばれた時点で、相応しい《力》があって当然、ということなのだろう。
「炎俊殿下もやっとお妃を娶られたのですね」
「宮での暮らしにはもう慣れられて?」
座は、いたって和やかなもの。特に、主賓たる朱華には次々に言葉が掛けられる。それらを紡ぐのはいずれ劣らず美しい声、しかも上品で優しく、心からの親しみに満ちているとしか思えない。少なくとも、朱華の耳が聞き取れる限りにおいては。
(これじゃあ、本当に歓迎してくれてるのかと思っちゃいそう。油断させるつもりなら、大したもの、かしら?)
内心に抱えているのだろう警戒や敵愾心を完全に隠せているのだとしたら、この女たちは百花園で分かり易い嫌味を言ってきた女たちより何枚も上手だ。百花園の女たちをまとめて雑草呼ばわりした炎俊も、あながち無礼なだけではないかもしれない。
「雪莉様? 遠慮なさらないで、どうぞ召し上がって」
それは、この碧羅宮の女主人たる宋凰琴の手腕があってこそ、なのだろうか。
(宋家といえば水竜の血筋、よね……?)
凰琴の実家は、治水に長けた《力》を持つはず。それなら、朱華の正体を視透かされる恐れはないだろうか。でも、他の妃の中には遠見や時見の目を持つ者もいる。朱華の正体に疑念を抱かれることがないよう、一挙一動にも細心の注意を払わなくてはならない。
「申し訳ございません、宋妃様――凰琴様。私、まだ夢を見ているような心地ですの。私が、妃と呼ばれるようになるなんて。皆様は天女のようにお美しくて――その中に、入って良いものかと……」
凰琴が菓子をひとつ摘まんで見せたのに倣って、朱華も蓮花を象った香ばしい酥餠を口に運んだ。
「雪莉様こそ華やかで美しい方なのに……!」
朱華のやや露骨な追従に、華やかな笑い声が弾けた。とはいえ、誰も真に受けて喜んだりなどしていないだろう。顔見せというのは口実で、ほかに本題があるに違いないのだから。
「ご心配なことがあったら何でも相談してくださいね」
「炎俊様のお妃というのは、お気が張るでしょう? 色々と、ねえ?」
「今日は、またとない機会だと思っておりましたのよ」
朱華に語り掛ける体で、妃たちは互いに意味ありげな視線を交わした。
(ほら来た……!)
朱華は茶で軽く口を湿した。宮の色と同じ、晴れた空の色の青磁は唇に冷たく、緊張に高まりそうな熱を冷ましてくれる。
ここからは、これまで以上に言葉に気を付けなければならないし、妃たちの反応にも目を光らせなければならない。彼女の旦那様であるところの炎俊が、いったいなぜ、そしてどれくらい嫌われているのか確かめなければ。
「──と、仰いますと……?」
妓楼だろうと後宮だろうと、女が集まれば悪口大会が始まるのは変わらないらしい。
(炎俊の評判を確かめる、絶好の機会ね!)
意気込む内心は悟らせぬよう、朱華はふんわりと首を傾げた。あくまでも、何の事だか分からない、という無邪気さを装うのだ。
「安心なさって。碧羅宮の呪を越えて覗き見することはできませんわ。たとえ炎俊様でも、ね」
「だから雪莉様、本音でお話してくださってよろしいのよ」
身を乗り出したほかの宮の妃たちは、朱華が本心を見せていない、ということはさすがに察したらしい。彼女が曖昧に微笑んで口を閉ざすのは、何も遠慮や怯えが理由ではなく、大姐がたに饒舌になって欲しいだけだ、ということまでは分かっていないようだったけれど。
案の定というか、大姐がたは朱華の反応なんて二の次で、勝手に盛り上がってくださる。
「あんな方に摘み取られるなんて。伝統ある陶家の姫君がお気の毒に……!」
「力ある方が皇宮に迎えられるのは、まだ分かります。でも、星黎宮を与えるなんて分不相応ですわ」
似たようなことを、ほかならぬ炎俊が言っていたのを思い出す。市井出身の皇子が帝位継承争いに食い込んでいることについては、やはり反発が大きいらしい。
華奢な拳を握りしめて熱弁する妃のひとりは、さらに、憤りを込めて声を高めた。
「炎俊様は、平民を取り立てて何やら企んでいらっしゃるとか。古くから皇室に仕える私どもを蔑ろにしているのではないかしら」
「平民……」
「ええ!」
心当たりのあってしまう朱華は、その一語にぎくりと震えたのだけれど──その妃は、我が意を得たりとばかりに大きく頷いた。ほかの妃たちも、大げさに額を抑えたり、扇で顔をあおいだりしながら口々に唱和する。
「大した力を持たない者どもに官位を与えて、外朝の秩序を乱していらっしゃいます」
「由々しきことですわ!」
どうやら彼女のことを言っているらしいのではないと気付いて、朱華はようやく安堵の息を吐くことができた。そこへ、今日の茶会の主催者である凰琴が、艶のある微笑を浮かべて口を挟む。
「雪莉様は、まだご存じなかったのね」
「ええ……まあ」
平民の登用だなんて、それは確かに大騒ぎになりそうだな、というのは何となく分かる。けれど、彼女自身も平民なのだから、朱華が憤るなんてあり得ない。むしろ炎俊らしいな、と納得するくらいだ。
(平民だからこそ、便利な《力》があれば上手く使おうとするでしょうね)
幼い朱華と炎俊が、花街でしたように。それは、百花園での芸の見せ合いよりも、よっぽど有意義な使い方のはずだ。
「やはり、炎俊様はひどい御方です。──ねえ、雪莉様。そんな御方にお仕えする必要が、あって?」
「……はい?」
懐かしい思い出に浸りかけていた朱華は、凰琴の意味ありげな囁きへの反応が遅れてしまった。それも遠慮だとか演技だとか思われたのだろうか、ほかの妃たちも一斉に身を乗り出し、声を低める。
「私たち、貴女様を助けて差し上げたいの」
「大切な決断をしてくださった方は、どの宮でも歓迎されるわ」
「ご実家だって、そのほうが良いでしょう」
美しく華やかで輝かしい席に、なぜか暗い影が落ちた気がした。妃たちが仄めかすのは、とても後ろ暗く邪悪なことだと、気付いてしまったのだ。
朱華の頬が強張ったのを見て取って、凰琴は笑みを深めた。おっとりとした雰囲気は最初と変わらないのに、どこか剣呑なすごみがある。
「皇帝陛下の予言を信じている者なんて、誰もいないわ。未来視が外れるのはよくあること──むしろ、なかったことにしなくては。違うかしら?」
朱華は、炎俊を裏切るように勧められているのだ。あるいは、間諜を務めろということかもしれないけれど。いずれにしても、そのご褒美に、彼女はほかの皇子に拾ってもらえるらしい。
(偉い人たちが偉そうに、卑劣なことを言ってくるものね……!)
凰琴たちは、どうやら朱華が喜んで飛びつくと思っているらしい。美しくも傲慢な女たちの言いなりになるのは悔しいから──朱華は、あえて朗らかに笑った。
「あら、そうでしょうか」