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炎華繚乱 偽の姫は予言の皇子と玉座を目指す  作者: 悠井すみれ
一章 偽の姫、天遊林に入る
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夫婦生活、開始

 寝台が微かに軋んだ。かと思うと、炎俊の顔が朱華の目の前に迫っている。 猫のようにしなやかで密やかな身のこなしで押し倒されたのだ、と気付いた時には、もう、相手の身体に圧し掛かられていた。


「な、何でも、って……?」


 そういえば、朱華は花嫁として初夜の寝室に呼ばれたはずだった。声を上ずらせて震える彼女の頬を、炎俊の意外と硬い掌が包み込む。時の彼方を見通すという彼の目は、薄闇の中でどこまでも黒く深く、吸い込まれてしまいそう。

 その目が、意味ありげに微笑む唇が、さらに朱華に近づく──ことは、なかった。


「何よりもまず、そなたの目だ。遠見の《力》は便利だ。間諜にも向いているし、治世においてもいくらでも使い道がある。芸以上の使い方ができる者は、なかなかいない。特に、天遊林の()()の中には」


 炎俊の口調こそ、熱を帯びていたけれど。どう考えても男女のことや色恋にはまったく関係なく、都合の良い駒が手に入ったことを喜ぶ内容だった。

 名家から後宮を彩る花として選りすぐられて送られたはずの姫君たちを()()と切り捨てる口の悪さといい、今までこいつに妃がいなかったのは、出自の悪さや立ち位置の振りだけが理由では絶対にないだろう。


「そ、そう……」


 事実、彼の身体のしたからさりげなく抜け出そうとした朱華を、炎俊が止めることはなかった。


「あ、伽のことなら当面要らない。懐妊させては、矢面に立たせられなくなってしまうからな」

「あっそう!」


 思い出したように言う炎俊の声にも表情にも、気遣いも恥じらいもまったくない。どこまでも傲慢で計算ずくで、自分のことしか考えていない──身勝手極まりない態度を前に、これ以上話しても無駄だ、と思い切る。


(じゃあ、私だって勝手にするわよ!)


 寝室の主に断ることもなく、朱華は褥に包まると寝台の真ん中に陣取った。せめて良い位置を奪ってやるくらいしないと収まらない。

 身体を包んでもなお余る褥を抱き締めるようにして横になった朱華の背に、くすくすと笑い声がかけられる。


「そうだな、今宵のところは休むが良い。長い付き合いになるだろうから」


 朱華は聞こえないふりをして、蛹のように頭までしっかりと褥に埋もれた。取り合っては、無駄に消耗させられるだけだともう悟っていたから。

 それに──悔しいけれど、炎俊の言う通りではある。身分を偽って後宮入りしたのが暴露されれば、朱華の命はない。それが嫌なら、言いなりになるしかない。彼女の意志とは関係なく、長い付き合いに、なってしまうのだ。


(私が逆らえないからって……!)


 こうして朱華は炎俊皇子の妃になった。予想していたのとは全く別の意味で、最悪の初夜だった。


      * * *


 閉じた目蓋に朝の陽の光を感じた朱華は、違和感を覚えた。


(あれ、もう日が昇ってる……?)


 夜が明けるかどうかのうちから峯が叩き起こしに来るのが、彼女にとっての日常だった。天遊林に入った後でも、礼儀作法の復習だとかなんとか口実をつけて。

 それを想うと、ずいぶん寝坊をしている気がするけれど。まあ、何かの事情で許されているなら、これ幸いと惰眠を貪ろう。そう思って寝返りを打った瞬間──


「――ひゃ!?」


 朱華は予期せぬ温もりと柔らかさに鼻先をぶつけて悲鳴を上げた。


「……目が覚めたのか。ゆっくり休めたようで何より」


 絹の褥を掻き分け、転がるようにしてその存在から距離を取る。壁に背がぶつかったところで呆れたような声の出所を睨みつければ、炎俊が自らの腕を枕にしたしどけない姿で彼女の狼狽えようを眺めていた。


 朱華よりも早く目覚めたのだとしても、寝入ってはいたのだろう。艶やかな髪が解けて、乱れた内衣の胸元に流れる様は、朝の爽やかな空気には似合わない色気を漂わせている。

 明るい中で改めて見ると、炎俊は見た目だけは麗しい貴公子に成長していた。閨の中にふたりきり、を意識してしまうと否応なく朱華の頬は羞恥に熱くなる。


「人の寝顔を眺めてたの!? 悪趣味ね!」


もう遅いのは承知しつつ、胸元を掻き合わせて、頬を紅潮させて。寝起きの掠れた声を張り上げると、炎俊はうるさそうに顔を顰めた。


「妻の顔だ。というか、本当に寝るんだな、と思っていた」


 今日から朱華の夫ということになるらしい男は、ごく真面目な顔でふざけたことを言ってのけた。眠れなくなるようなことをしでかした自覚がある癖に、よくも感心したような口を叩けるものだ。

 呆れが朱華の動揺を鎮めてくれた。手櫛で髪を整えながら、唇を尖らせて答える。図太くて鈍感、とでも言いたげな口調も、不本意だったのだ。


「だって、睡眠は大事でしょう。無駄に起きていても良いことなんて何もないわ」


 食べられる時に食べ、休める時に休むのが朱華の主義だ。

 妓楼にいた時も陶家に買われてからも、「飼い主」の気分や何かしらの罰、そうでなければ躾と称して食事や睡眠が取り上げられるのはよくあることだった。それで頭がぼんやりしたり手元や足元がふらついたりすると、また新たな折檻の口実になるのだ。

 だから、辛かろうと痛かろうと悔しかろうと、与えられたものは咀嚼しなければならないし、横になれるなら目を閉じなければならない。二十年にも満たない短い人生で、彼女が得た教訓がそれだった。


「確かに、その通りだな」


 納得したように頷いた炎俊も、同じような教訓を得る機会がたっぷりとあったのだろう。その点、彼女たちは似合いの夫婦と言えるのかもしれない。


(苦労は……したんでしょうね。何があったか聞くべきかしら?)


 同情もあれば好奇心もあるし、帝位を狙う()()としては、情報共有も必要だろう。けれど、朱華が何を尋ねるか決める前に、人が言い争う声が寝台の紗幕を揺らした。


「朝から、何なの?」


 皇子の寝所に施された呪によって、遠見の力を発揮することができないのがもどかしかった。

 壁と紗に隔てられては、交わされる言葉を拾うのは難しかったけれど――しばらく耳を傾けるうち、朱華は気付く。言い合っているのはふたりの女、それも、そのうちの片方の声には嫌というほど聞き覚えがある。


「……峯──陶家の者ね。昨日の首尾が気になったんでしょう」


 つまりは、炎俊がちゃんと朱華を抱いたかどうか、だ。


(どうするの?)


 人ふたりが寝ていたのだから、褥には当然それなりの乱れはある。でも、それだけだ。性急に伽を命じておいて、手を出さなかったなんていかにも怪しい。

 朱華と炎俊の関係に気付くはずはないけれど、陶家はこれを侮りと見做して難癖をつけてくるかもしれない。


「心配はいらない」


 もの問たげな朱華の目に気付いたのだろう、炎俊は軽く笑うと身体を起こした。寝台の端へと向かった彼が紗を払うと、眩い朝の光が朱華の目を射る。依然として遠見は利かないままだから、朱華としては視界が晴れた気はしないけれど。


「ずいぶんと頑張っているようだが通させはしない。私は『雪莉姫』を気に入ったから、まだ閨から出す気はないのだ。実家の者とて野暮は不要、と――追い返すように命じてある」

「へえ、陶家を怒らせても良いの? せっかくの外戚なのに」


 寝台から降りるように目で促されたのに答えながら、朱華は皮肉っぽく切り返した。


 結局のところ、炎俊が欲しいのは幼馴染の朱華ではない。強い遠見の《力》があって、弱みを握って脅せる存在が、「陶家の雪莉姫」の(ガワ)を被って現れたから、摘み取っただけ。すっかり計算高く冷徹にお育ち遊ばしたようなのに、抜けたことをするものだ、と思ったのだけれど──


「外戚よりもそなたのほうが大事だからな」

「……うん?」


 意外な言葉を聞かされて、朱華は瞬いた。

 彼女の「夫」は、新妻の内心など知らぬげに大らかに伸びをしていた。彼女のほうを見ることさえなく、宦官が捧げ持つ着替えに手を伸ばす様子からは、甘い気配など欠片も伺えない。


(……貴重な駒、って意味よね?)


 だからたぶん、一瞬だけでもどきりとしてしまったのは不覚というもの、喜ぶのはまだ早い。


「ね、私に何をさせる気なの? 具体的に教えてよ」


 床に素足をつくと、ひやりとした感触が伝わって肌が震えた。緊張と不安によってでもあるだろう。いったいどんな無理難題を言われるのか、分かったものではないのだ。


「少しずつ教えていこう」


 急かした朱華をはぐらかすように、炎俊はちらりと笑った。顔かたちが整っていることだけは確かなのが腹立たしい。


「まずは、朝餉を取ろうか。その調子なら食欲もあるのだろうな」


 言われて腹を抑えると、急に空腹感が襲ってきた。そういえば、昨夜は花嫁衣裳の息苦しさに、まともに食事をするどころではなかったのだ。


「ええ、もちろん!」


 食べられる時に食べる――朱華の主義を実践する時のようだった。

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