炎俊の本性
一度思い出すと、様だの殿下だのと称号をつけて話すことは不可能だった。再会の驚きと喜びが込み上げるまま、朱華は炎俊のほうへ身を乗り出した。
「炎俊って、あの炎俊なの!? 皇子様だったの!? 花街じゃ、あんたは盗賊に売られたって噂になってたわよ!?」
ふかふかとした、雲のような褥が敷き詰められた寝台の上、行儀悪く膝を立てて座った炎俊は、軽く笑って朱華の勢いをいなした。
「ありそうなことだ。皇宮から迎えが来たなどとは言いふらせまい。そなたの時もそうだっただろうが」
「そうね……」
彼女自身の代金として積み上げられた金子。詮索無用、と言い捨てた陶家の者の目の冷たさを思い出して、朱華は呻いた。貴族の家でもああだったのだから、皇子様を皇宮に迎えるとなれば、もっと厳しい口止めがされたのは想像に難くない。
(ひとりやふたり、消されてそう……!)
考えないほうが良さそうなことを考えてしまって、朱華はふるりと震えた。ついでに、彼女自身が口を滑らせたことにも気づいてしまう。炎俊皇子の出自は周知のことだとしても、「陶家の雪莉姫」ということになっている彼女は、花街になんて足を踏み入れたこともないはずなのだ。
「私、今──あの、『こういう』時ってお付の人が控えてるもの、なのよね?」
「だから先ほど下がらせた。遠見も警戒いらぬ。何も視えないであろう? 皇族の閨を覗き見る無礼は、何人たりとも許されぬのだ」
言われて、遠見の《力》で辺りを探ろうとして──できないことに、朱華は気付く。本当の意味で目隠しをされたように、視界を封じられた心細さに不安になるほどだった。
星黎宮自体が、天遊林のどこにも増して念入りに呪で隠されていたのだから、ましてその最奥、宮の主の寝室ともなればなおのこと、なのだろう。
(ああ、だから……?)
人払いをした上に、覗き見の恐れもない。炎俊が朱華を寝台に連れ込んだのは、ふたりきりで内密の話をするためだったらしい。
「女の衣装は動きづらそうだ。一、二枚脱いだらどうだ?」
「……そうね」
そうと気付くと、彼の言葉にいちいち動揺するのも馬鹿らしかった。
声にも表情にも情欲の気配が一切ないし、彼自身も上衣を脱ぎ落したのも、本当に寛ぎたいからでしかないかのようだし。
(落ち着かないわね……)
ただ、陶家の者たちが選び抜いたであろう豪華絢爛な衣装を脱ぐと、どうも心細かった。鎧ではない、金銀と宝石で飾られた絹の布切れでしかないのだけれど、彼女が姫君を演じる寄る辺になってくれていたのかもしれない。
内衣姿になって、「雪莉姫」ではない、ありのままの姿になったところで、朱華は改めて炎俊に向かい合った。褥の上で端座するのは、どうも座りが良くないけれど、腹筋で耐える。
「さっき、変わりないって……私のこと、覚えてくれていたの?」
「ああ。そなたは忘れていたようだが」
「忘れてたっていうか……! だって、男は天遊林には入らないだろうし、皇子様だなんて思わないし。もう会えないと思ってたもの。だから分からなかっただけよ……!」
言い訳しながら、じっくりと炎俊の姿を眺める。
相手も同じく内衣姿なのに羞恥を覚えないのは、幼馴染の少年の面影が確かにあるから。
けれどいっぽうで、炎俊の物腰も言葉遣いもものすごく偉そうだった。朱華よりも早く花街から消えた彼は、皇宮で十年くらいを過ごしたことになるのだろうか。その間に、彼は完全に「皇子様」になってしまったのだろうか。
「炎俊……あんた、皇帝になるの? そういう予言があった、って聞いたけど」
「帝位争いに関わる人間の思惑がどれほど多く複雑だと思っている。誰が皇帝になるかあらかじめ分かれば、皇子を争わせる必要などない」
未来見の難しさ、アテにならなさは峯の婆も言っていた通り。炎俊の口振りだと、彼自身にも即位の未来なんて見えてはいないようだ。
「じゃあ……?」
「皇上は、私に星黎宮を与えることで、ほかの皇子を発奮させようとしたのではないかと思う」
首を傾げた朱華に、炎俊は皮肉っぽく笑う。
そんな表情も、いかにも偉い人が浮かべそうな冷ややかな気配を漂わせていた。良心の呵責なく下々を使い捨てる、陶家の連中と似た気配だ。──あるいは、炎俊が見下す対象に、彼自身も入っていたりするのだろうか。
「卑しい生まれの皇子を皇宮に迎えるだけならまだしも、帝位争いの候補に入れるのは受け入れがたい、と考える者は多いだろうから」
「まあ、そうでしょうね……」
天遊林に、皇子のための宮殿は四つ。
東の碧羅宮、西の皓華宮、南の辰緋宮、そしてここ、北の星黎宮。
それぞれの宮殿の主たちが、すなわち次の皇帝候補ということになる。もちろん、皇族に連なる男子の数はその百倍はいるだろうから、宮殿を得るだけでもかなりの難事らしい。と、陶家で教えられていた。
皇子たちもその妃たちも、皇帝候補の立場を失うことがないよう、その座を狙う者に足を掬われることがないように努めなければならないのは言うまでもない。
(市井育ちで母親の実家の後ろ盾もない──追い落とすならまずこいつ、って思うわよね……)
炎俊への同情が半分、そんな奴に見初められた自身の将来への不安が半分。いずれにしても安易な慰めも気休めも言えないから、朱華は炎俊が枕元の小盒に手を伸ばすのを黙って見守った。
小盒から取り出された丸薬状のものは、炎俊の口の中に放り込まれてかり、ぽり、と音を立てる。糖衣を絡めた堅果のようだ。そういえばこいつは、甘いものが好きだった。
「争いが熾烈になれば、より優れた者が次代の皇帝になる、とでも考えたのだろう。まったく迷惑な」
「ねえ──」
差し出された小盒から、堅果を一粒だけ取って、甘さと香ばしさを味わう──余裕はないので、とりあえず咀嚼しながら。朱華はおずおずと切り出した。炎俊の皇帝に対するもの言いは、不敬なだけではなくあまりにも情が感じられないのが不可解だった。
「皇上ってさ、あんたのお父様、なのよね? そりゃ、色々と思うこともあるでしょうけど……一応、良い暮らしはさせてもらってる、のよね?」
「無論、感謝もしている。あいにく、伝える機会はほとんどないのだがな」
言葉とは裏腹に、炎俊はあからさまに眉を寄せていた。きりりとして力強く、それでいて涼しげなその眉の線は、子供のころと変わっていない……だろうか。
(……やっぱり、あの炎俊なの?)
朱華が呼ばれた理由を、彼はまだ教えてくれていない。けれど、名前を呼んだ以上は覚えていてくれたということだろうし、女としてどうかはともかく、懐かしさくらいは感じてくれているのだろうか。
(花街上がりの子供が皇宮に放り込まれたのよ。大変だったのは間違いないわ、私以上に……)
貴族と皇族、女と男。後者のほうが求められるものが何かと多かっただろうし、必然的に躾も厳しかっただろう。命を狙われたことも、あったかも。肩を震わせてうずくまる子供の姿が見えた気がして、朱華は思わず手を伸ばしたのだけれど。
「皇宮に入って分かったが、この国の《力》の使い方は無駄だらけだ」
当の炎俊は、いっそ憤然として言い切った。寂しげだとか儚げだとか、そんな殊勝な風情とは無縁の傲然とした態度を前に、朱華の手は虚しく宙に浮く。
「《力》に頼って栄えた癖に、それを理由に権を握っている癖に、《力》の使い方も考えずに遊び暮らす者の、なんと多いことか。そなたも天遊林の有り様は見ただろう?」
「それはまあ、そうね。分かると思うわ」
気まずく手を引っ込めて、朱華は一応頷いた。姫君たちの力比べは、結局のところ遊戯同然、とは彼女だって思っていた。幼い炎俊のほうが、よほど上手く《力》を使いこなしていた、とも。
(なんか、嫌な予感がするわね……)
嘘でも演技でもなく相槌を打てるのは良いことのはずなのに、不思議なことなのだけど。
「だろう。そなたなら分かるだろうと思っていた」
引っ込めたばかりの朱華の手を握って、炎俊は満面の笑みを浮かべていた。例によってその力は強くて、痛みを感じるほどだ。もちろん、逃げることなんてできそうにない。我が意を得たりと輝く目に見つめられて、どきどきとするのは──ときめきなんかでは、決してない。
「そのいっぽうで、一部の皇族や貴族は国への奉仕を押し付けられるのだ。私は、昊耀のために我が身を犠牲にする気はない。犠牲が必要なら、《力》ある者すべてに捧げさせる。私が帝位に就いた暁には、そうするつもりだ」
「……ん?」
犠牲を、捧げる。不穏な言い回しに朱華が首を傾げると、炎俊の整った顔がいっそう近づいて、囁いて来る。
「手始めは、そなただ。皇上の世迷いごとを実現させてやろう。そのために身命を賭けてくれ」
「なんで私が!?」
紗幕を震わせるのではないか、と思うくらいの大声で問い質すと、炎俊はごくあっさりと答えた。相変わらずの、曇りない綺麗な笑みを浮かべて。
「そなたは裏切る心配がないからだ」
それは、清々しいほど打算的な宣言だった。幼馴染の情なんて、微塵も感じられない。
「そなたは陶雪莉ではないから。皇室を欺くは大罪と、重々言われていることだろう? 妓楼上がりの孤児だと、露見したら拙いだろう? 暴露されたくなかったら、何でも言うことを聞いてくれるな?」
弱みを握って脅して、利用し尽くす──そのために朱華を召したのだと、炎俊はさらりと白状したのだ。