「夫」との「再会」
皇子たちの宮は、陶家の屋敷や百花園のどの建物にも増して厳重な呪が施されている。だからこれまでは朱華の目を持ってしても内部の様子を窺うことはできなかった。その場所に遠目の焦点を合わせようとしても、靄がかかったように形を捉えることができなくて。
(ここが、星黎宮──さすがに豪華な部屋よね)
帝位を狙う皇子のための宮殿だから、贅を凝らした調度は当然のことだ。
翡翠の彫刻、とろりとした釉薬の艶が美しい青磁の壺、絢爛な花に蝶が舞う図の衝立に──やたらと大きな寝台。赤い紗で覆われたその内には、柔らかな褥が用意されていることだろう。
峯が当て擦ったように、卑しい生まれの朱華としては、見蕩れるよりも妓楼の一室のようだ、なんて思ってしまう。
「まあ、やることは同じだしね……」
呟きながら、朱華は酒杯の縁を指でなぞった。深い翠に、わずかに差した薄紫の色が美しい、翡翠の杯だ。でも、今夜はそんな贅を楽しむ余裕はないだろう。
これからのことを考えて朱華は少し震え、そして、不安を忘れるために比較的楽しかった記憶を思い出そうとする。客を取ったり売られたりがまだ遠い先のように思えた、無邪気に遊ぶ余地もあった、小さな子供のころのことを。
といっても、あのころから朱華は遠見の力のせいで何かと周囲から浮いていた。友人と呼べるのは、あの子くらいなものだった。今思えば、朱華と同じく特別な目を持っていた、少し年上の少年。
(あの子は時見だったのよね。天遊林の姫君たちより、よっぽど使いこなしてた……)
人に見せるために、芸のように視たものを口にするだけではなくて。どう言えば普通の大人に怪しまれずに信じてもらえるか、疑われたり気味悪がられたりすることなく、ご褒美にありつけるか──ふたりして色々と作戦を考えたものだ。
客の噂で聞いたすることにするとか。普通の人間にも見えるモノから気付いたように、もっともらしく筋道をこじつける技とか。一緒に
(女の子だったら、また会えたかもしれないのにね。今ごろ、どうして……そもそも生きてるのかしら)
《力》を持った庶民を密かに養育しているのは陶家だけではないだろうな、という気がする。朱華の夫である炎俊皇子からして市井育ちだというし。
ここにあの子がいたなら、強い味方になっていたかも──とはいえ、女の子なら彼女と同様に天遊林に送り込まれるかもしれないけれど、男の子の場合は官とかまた別の使い道があるのだろう。
そもそも、ともに過ごしたのは何年も前のこと、再会したとしてもお互いに分かるかどうか。
(……っていうか、私、名前も覚えてないかも。なんか──お揃いっぽい、とか言ってたかしら。朱──赤に関わる字……?)
とても薄情な自分に気付いて、朱華は考え込んでしまっていた。
「──陶妃様」
「ひゃ!?」
だから、ふいに呼び掛けられて、小さく悲鳴を上げて飛び跳ねた。通されたきり、閉ざされたままだった寝室の扉の外から聞こえたのは、宦官の奇妙に高い声だった。けれど、人の気配はふたつ──彼女の夫になるはずの皇子がすぐ傍まで来ているのだ。
「炎俊殿下のお成りでございます」
触れと当時に扉が開くを聞きながら、朱華はその場に額づいた。
目の前に迫った床には、多種多様な木材と石材を磨き上げ組み合わせて精緻な模様を描かれていた。貴人が踏みつけ通り過ぎるだけの場所にも、気が遠くなるような手間暇と金がかけられているのが後宮という場所だ。
「そなたが雪莉姫か。やっと会えて嬉しく思う」
もちろん、炎俊皇子は朱華のことを「陶家の雪莉姫」として認識している。偽者だということは気取られてはならないから、言動には重々注意しなければ。良家の姫君らしく、淑やかに振る舞うのだ。
「もったいないお言葉でございます。恐悦至極に存じます」
頭上から振る声の涼やかなことに少し驚きながら、朱華は皇子の姿を視た。
間諜を遠ざけるための呪も、同じ部屋に入ってしまえばもう効果を及ぼさない。遠見とは、遠くの物事を視るだけの力ではない。要は、常の視界では見えないものに、いついかなる時でも焦点を結ぶことができる《力》なのだ。
例えば、平伏したまま、自身を見下ろす青年の容姿を確かめることだって朱華には容易い。
(なんだ……意外と優男じゃない)
気に入った女を、その日のうちに閨に召そうとするような男だ。だから、何となく脂ぎったいかにも好色そうな姿を思い描いていたのだけど。
炎俊皇子はすらりとした細身の若者だった。さほどの長身ではないけれど、均整が取れた身体つき。切れ長の目に、白い頬。形の良い薄い唇が朱華の装いを見てか微笑んでいる。ただ、覇気というのか、人を跪かせる自然な傲慢さは、たしかに皇族の一員なのだろうと思わせる。
これが、朱華の夫になる男。彼女が運命を託さざるを得ない男なのだ。
と、指先のわずかな動きだけで、炎俊皇子は朱華に立つよう促した。平伏した体勢からでは、床に落ちる影さえ見えない程度の小さな動きだ。遠見の《力》を持つ者は、常に周囲を窺うていどの機知は持っていて当然、些細な仕草も見逃すはずがない、と試されたのだ。
(バレてはいけない……!)
分かり切っていることをもう一度強く念じてから、朱華は立ち上がった。すると、自ら求めた花嫁を直に見た喜びゆえにか、炎俊皇子の整った唇が軽く微笑んだ。
「久しぶりだが変わりないな。感慨深い」
「え──あ、あの、恐れ入ります」
今、何かおかしな言葉が聞こえたような。訝しみながら、朱華は恐縮してみせた。
立ち上がったところで、皇子の顔を正面から見ることなど思いもよらない。それでも、上目遣いの朱華と、当然のように見下ろす風の炎俊皇子の視線は一瞬絡む。ほんの束の間見つめ合ったその間は、皇子の漆黒の目は熱く彼女を見つめていたような気もした。
ただし、それはあくまでも上辺だけを見た時の話。遠見の《力》も、人の内面を見るには何らの役にも立たないのだ。微笑む炎俊皇子に対し、朱華は身構えずにはいられない。何しろ彼は奇妙なことを言ったばかりだ。
(『雪莉姫』が皇子様と会ったことがあるはずはない……そんなことがあれば教えられてるはず……!)
久しぶり、だなんて。言い間違いか聞き間違いか、そうでなければ思い違いに違いない。でなければ困る。どう切り抜けて良いか分からない。
なのに──背を冷や汗で濡らす朱華に、炎俊皇子は不満げに眉を寄せた。
「なんだ、覚えていないのか」
「あの──わたくし、殿下とお会いしたことがあったでしょうか……?」
こうなれば、非礼かもしれないけど惚けるしかない。震えながら尋ねると、炎俊皇子は再び笑みを浮かべた。蕩けるような──そして同時に、悪戯を思いついた子供の風情がある笑みは、どうにも朱華は不安にさせた。
「そうだな。そなたは賢かった。立場をよく弁えているのだな」
「殿下……!?」
立場というのは──「雪莉姫」の偽物、代役としてのそれ、ということなのか。だとしたら──
(もう気付かれてるの!? なんで!?)
朱華の悲鳴のような呼びかけに、浮かべてしまったであろう不安と焦りに、炎俊は気付かないようだった。いや、違う。気付いた上で、取り合おうとしなかった。
彼は朱華の腕を捕らえると、ぐいと引っ張った。──皺ひとつなく整えられた、寝台の方へ。
「殿下! こ、このように突然に──」
「炎俊で良い。夫婦になるのだから」
すらりとした体格に似合わず、炎俊の力は強かった。闘神の《力》も備えているのかもしれない。
かさばる衣裳に足を取られる朱華は逆らえず、寝台の紗幕の中に放り込まれた。
「皆、下がれ。朝まで入るな」
炎俊の命令に従って、侍女や宦官が退出する衣擦れの音が聞こえた。いっぽう、取り残された朱華は想像通りの柔らかな褥に受け止められた──かと思うと、すぐそばにもうひとり分の重みが加わって、寝台が軋む。
「で、殿下──」
「炎俊で良いと言っているのに」
暗い中で、炎俊が笑ったらしい。白い歯がちらりと輝いたのが見えた。
「昔はそう呼んでいただろう。我らの名は対のようだと。燃え盛る炎、その色の花──朱華」
炎俊の柔らかく甘い声が、朱華の耳元で囁いた。胸がざわつくのは、けれどその声の響きや彼の温もりの近さだけが理由ではない。
彼女の本当の名前を人に呼ばれるのは、本当に久しぶりのことだったのだ。
自分の名前は自分だけのもの、ほかの誰に何と呼ばれようと関係ない。そう思っていた、はずなのだけれど。自分を自分と呼ばれるのは、思いのほかに嬉しかった。
それに──炎俊の言葉が、先ほど掴み損ねた記憶を胸の奥底からすくい上げてくれた。彼女とお揃いの名の、遠見の目を持つ、頼もしい友人。
その少年の面影が、目の前の皇子と重なって。朱華は思わず叫んでいた。
「あ、あんた……!」