共にいる未来
星黎宮に、今日は客人の姿はない。舟遊びの日の後始末に、第二皇子の志叡も第三皇子の翰鷹も忙しかったそうだから、芳琳も佳燕も、それぞれの旦那様を労うのに専念したいことだろう。
龍基皇子は、碧羅宮を去ることになった。事実上、皇太子争いから離脱させられた、ということだ。朱華や炎俊を害するよう、凰琴にはっきりと命じた証拠はついに見つからなかったから、仕方ない。とはいえ、一度は帝位に手をかけるところだった御方には、一介の皇族として生きることは屈辱だろう。
龍基皇子の妃たちも、彼に従って碧羅宮を後にする。ただし、凰琴はその中には含まれない。皇子とその妃を害そうとした実行犯は、その罪を逃れることはできないのだ。この点は、彼女の実家の宋家も、峯と陶家も同様だ。
とはいえ、宋家も陶家も、大罪人として処罰された、というわけではない。皇帝から直々にお叱りを受けたというし、一族の者のいくらかが左遷されたり降格されたりといった、内々の罰で済んだ、というだけだ。
もっとも、それは何も慈悲ではない。名家への遠慮は、まあまったくなかったわけではないようだけれど、炎俊への反発を抑えるため、という理由のほうが大きいらしい。さらに言うなら、あえて見逃すことで恩を売りつつ、手綱をつけた、ということだ。
皇室への反逆にも等しい大罪を見逃す代わり、炎俊に良いように使われることになるのは、誇り高い名家の方々には耐え難いだろう。いっそ死を賜ったほうがマシだ、とさえ思うかも。でも、せっかく強い力を持つ者たちを、炎俊が大人しく死なせてやるはずがないのだ。
(良い気味よ。偉そうにふんぞり返ってるだけじゃなくて、きりきり働けば良いんだわ)
凰琴には怖い思いをさせられたし、峯と陶家に対しては積年の恨みもある。朱華としては同情する気にはなれなかった。もちろん、やり過ぎて逆恨みされないよう、また狙われることがないよう、炎俊を見張る必要はあるだろうけれど。
決意と親しみと──たぶん、多少の愛しさを込めて、朱華はそっと囁いた。
「これからも大変ね? ……でも、きっと大丈夫。私がついていてあげるもの」
恥ずかしいことを口にできるのは、炎俊は、目下、彼女の膝を枕にうたた寝の真っ最中だからだ。紫薇は建物の外に出ることはできないから、ふたりきりで並んで日向ぼっこを楽しんでいたところ、眠そうな表情を見せたから休憩を勧めたのだ。石造りの長榻は背中が痛くなりそうだけど、朱華の腿の柔らかさとうららかな陽射しで相殺できるだろう。
(眠ってると、可愛げもあるんだけどね)
この間の後始末で、だいぶ疲れが溜まっていたのだろう。明るい日差しの中で、整った顔が目を閉じているところを眺めるのはなかなかの眼福だった。
妃としては、旦那様を労わるのも仕事のひとつ。たとえ、いまだに夜はお互いぐっすり寝るだけの、ままごとのような夫婦だとしても──あるいは、だからこそ。ようやくできた公務のない日には、ゆっくりさせてあげたい。
(……それにしても、暇ね……)
いくら旦那様の顔が整っていても、寝顔をずっと眺めているのにも限界はあった。朱華は書も何も、時間を潰せるようなものを持ってきていないし、人の頭は結構重くて膝がしびれてきた。
(お菓子を近づけたら、眠ったまま食べちゃうんじゃ……!?)
ふと、いたずら心が芽生えたから、朱華は卓上に放っておいたままの菓子に手を伸ばした。炎俊を起こさないようにそっと、静かに。今日の茶請けは小さめの酥餠だから、まあ喉に詰まらせることもないだろう。
いつも澄ました顔の炎俊の、食い意地の張ったところを見ることができれば楽しそうだ。あとで紫薇にも話して笑い話にしてやろう。そう思っていたのに──
「……朱華?」
覗き込んで、酥餠を口元に近づけたところで、炎俊が目を開けた。ぱちり、と音が聞こえそうなほど、急に、それも大きく。そして、目の前の菓子に気付いて、怪訝そうに眉を寄せる。
「え、っと。あのね、これは──」
悪戯の現場を抑えられたのが気まずくて、朱華はどうにか言い訳を探そうとした。
もちろん見つかるはずもなくて狼狽えていると、炎俊は軽く上体を起こしてぱくり、と酥餠を口で取っていった。意外と柔らかな唇が、朱華の指先に触れて行ったのが、何だか熱い。
「炎俊……?」
燃えるような感覚の頬を、手であおいで冷ましながら。朱華は呼びかけた。
彼女の動揺など気付いていないかのように、炎俊は菓子を咀嚼している。朱華の膝に再び頭を預けた、怠惰極まりない格好で。
やがて、無防備にさらされた白い喉元がごくり、と動いたかと思うと、炎俊は唐突に微笑んだ。
「うん。やっぱりそなただな」
「……何よ、寝ぼけてるの? そんなに疲れてるの……?」
炎俊の涼やかな目に眠気の幕は下りていないし、言葉も明瞭なものだった。けれど、言われたことの意味が分からない。
眉を顰め、熱を測ろうと彼の額に手を伸ばそうとした朱華に軽く頭を振って、炎俊は今度は完全に起き上がった。石の長榻に並んで掛けて、朱華と目を合わせる格好だ。
「未来が見えたのだ。私が帝位に就き、傍らに皇后がいる未来が」
「……はい?」
またも謎めいたことを言われて、朱華は目を瞬かせた。
(未来見って……例の皇帝陛下の?)
炎俊が帝位に就くという、例の予言だ。それによって炎俊は皇宮に迎えられたし、後には朱華が彼の妃に仕える切っ掛けにもなった。
「でも、そんな先の未来なんて見えないんじゃなかったの?」
帝位の継承に関する人間の数は多すぎ、思惑は複雑すぎるということだから。
おずおずと尋ねた朱華に、炎俊はなぜか楽しそうな笑顔のまま頷いた。
「うん。今までは、見ようとしてもよく見えなかった。だから、父上は皇子たちの競争を盛り上げるための、方便で仰ったのだろうと思っていたのだが」
普通なら見通すことができないはずの未来を、一応は見ようと試みたらしいのは、炎俊らしくはあった。炎俊なら、何ごとも自力でやってみなければ納得しないだろう。
(できっこない、とか決めつけないからこそ、国を変えようだなんて思えるんだものね……)
賞賛の想いを、朱華が口にすることはできなかった。炎俊が身を乗り出したかと思うと、彼女の手を握り、互いの睫毛が触れ合うほどの近さで晴れやかに笑う。
「今、一瞬だがはっきりと見えた。皇帝の冕冠から下がる旒越しに、金糸銀糸で彩られた朱い衣を纏い玉を連ねた鳳冠を戴いた──皇后の礼装をした、華やかで気丈な風情の女が」
「それが……私?」
炎俊の笑顔が輝かしいのはもちろんのこと、彼が語った衣装の煌びやかさは、目が眩むようだった。皇帝とか皇后とか──言葉で語ってはいても、その位に伴う格式だとか権威だとかを、朱華ははっきりと思い描けていなかったようだ。
「間違いない。私は、そなたとずっと一緒にいられるらしい。喜ばしいこと」
そして、炎俊のもの言いもごく軽い。無邪気な笑顔からは、至尊の地位に上ることへの気負いや覚悟なんてまるで感じられない。まるで、ただひたすら、朱華と一緒、が嬉しくてならないかのようだった。
「……便利な駒として、ってこと?」
何となく、気恥ずかしくて、朱華はふいとそっぽを向いた。膝枕で乱れた衣装を直すふりで、意味もなく絹の生地を弄る。──と、炎俊は何の遠慮もなく彼女の顔を覗き込んできた。
「替えが効かない者を、駒とは呼ばないだろう。そなたは私の妃だ、朱華」
「……っ」
「先日、そなたが攫われた時は、呼吸が苦しくなったし考えはまとまらないしで大変だった。あのような思いは、もうしたくないな」
炎俊の声にも表情にも、本当に甘さがない。赤くなるのは朱華のほうだけ、彼はただの事実を言っているだけなのだ。悔しいような──だからこそ真実だと分かるのが、嬉しいような。
(どうせあんまり分かってないなら、私だって恥ずかしいことを言っちゃうわよ?)
もらったのと同じだけの想いを返さないのは、失礼な気がして。それに、もしもこの先、炎俊に人並みの情緒が芽生えることがあったら、後からでも赤面させてやりたくて。
鼓動が早まるのを感じながら、朱華は炎俊に向き直った。白い頬を両手で挟んで、額と額を合わせて──囁く。
「炎俊。我が君。あんたは私の旦那様よ。私に名前を返してくれた。自由をくれて、世界を見せてくれる……大切な、人」
表向きは、朱華はまだ「陶家の姫」だ。けれど、先日の事件での貸しがあれば、奴らが彼女に命令することはもうできない。罪を重ねることもできないから、彼女の本当の出自を暴露される心配もまずないだろう。……亡くなった「本物の」雪莉姫も、ようやく弔ってもらえるのではないだろうか。
(……亡くなった人より、私のこと。私たちの未来のことよ)
会ったこともない姫君の、ぼんやりとした面影を振り払って、朱華は笑う。
「お返しに、どこまでもお供してあげる。支えてあげるわ。──だから、よろしくね」
「うむ。こちらこそ、だな」
炎俊には、やはり照れは見えなかった。けれど、深い頷きには真心を感じたから、十分だ。
過去や未来、千里の彼方をも見通すふたりの目は、今は目の前の相手だけを見ているだろう。炎俊の双眸に、自身の姿が映っているのを確かめて、朱華は思う。
この笑顔、この目の輝きを絶対に放したりしない。共にある未来を必ず掴むのだ、と。
今話にて完結です。最後までお読みいただき、ありがとうございました!