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炎華繚乱 偽の姫は予言の皇子と玉座を目指す  作者: 悠井すみれ
五章 あるべき未来のために
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燃えて輝く炎の華のような

 ただでさえ宴どころではなくなっていた碧羅(へきら)宮の庭園は、いっそうの混沌に包まれた。妃たちも、侍女も宦官も──皇子たちも。いっせいに、鞭打たれたようにその場に平伏したのだ。

 水の竜と虎が争った後でどこもかしこも水浸しだから、あちこちからびしゃ、べちゃ、という音が聞こえる。それに、卓上に残っていた皿やら杯やらが地に落ちて割れる音も。妃たちの豪奢な衣装は、きっと台無しになっているだろう。


 その点、朱華(しゅか)はすでに泥塗れのひどい格好だったから、水たまりの中に平伏するのにもそれほどの抵抗はなかった。

 でも、だからといって落ち着いているわけでは決してない。がたがたと震えるのは、冷たい水に手や膝が浸かっているからではなくて──炎俊(えんしゅん)が呟いた単語を聞いて、恐れおののいているからだ。


(父上……炎俊のお父様? っていうことは、皇帝陛下……!?)


 言うまでもなく、昊耀(こうよう)の国で一番偉い御方。国のすべてを担う至尊の地位にある御方のはずだ。


(お忙しいんじゃ、ないの? 普通、皇帝陛下のお出ましって、先ぶれや準備が大変なんじゃないの……?)


 朱華と同じ疑問を、この場の誰もが抱いているはずだった。けれど、皇帝陛下の御前で許しなく口を開くなど思いもよらない。だから、不穏な緊張に空気が張り詰める中、しばし、どこかから水が滴る音だけが聞こえた。


「ち、父上……」


 そんな中、口を開く勇気を奮ったのは、龍基(りゅうき)皇子だった。地位ゆえに余裕があったというわけではないだろう、震え引き攣った声からして、緊張に耐えかねて礼を失しただけのような気がする。


(だって。帝位争いって言っても、弟を亡き者にしようとするのは規則(ルール)違反のはずだもの。……本来なら、ね)


 四つの宮を与えて競わせるのは、皇子同士で流血の争いをさせないため。身内の争いで貴重な力の持主を失わないためのはず。龍基皇子がしようとしたことは、国の指針に背く重大な罪になりかねない。……バレなければ良いと、考えていたのかもしれないけれど。


「このようなところに、わざわざお運びくださるとは──お知らせくだされば、相応しい饗応を整えさせましたのに……!」

「何、息子たちが何やら集まっているのが()()()のでな。仲間外れが寂しくなっただけのこと」


 龍基皇子の狼狽えように反して、皇帝の声は意外と穏やかだった。低く、深みのある声は威厳だけでなく思慮深さや慈愛も感じさせる。


(これが、皇帝陛下……)


 碧羅宮も、庭園にまで呪が施されているわけではない。だから、見ようと思えば遠見で皇帝陛下のご尊顔を覗き見ることも不可能ではないのだけれど──それをしてはいけない、と自然に思ってしまうくらい、国の頂点にある方の存在感はすさまじい。


 ただでさえ鉛の重石を頭に載せられているような気分だったのに──


「──で、これはいったい何ごとか」

「……っ、そ、それは……!」


 皇帝の静かな問いかけは、空気を凍てつかせるようだった。季節が逆になって、真冬に変わったかのよう。父帝に応える龍基皇子は、雪の中に放り出されたかのように歯を鳴らしていた。


「お、弟たちが揃って私を陥れようとしたのです。妃の凰琴までもが辱められては見過ごせず……!」

「この父の力を見た上で、またごまかそうとするとは。そなたに碧羅宮を任せたのは読み違えたかもしれぬ」


 第一皇子の苦しい言い分に、皇帝は深々とした溜息で応じた。決して、あからさまに非難したわけではない。でも、そこには落胆や失望がたっぷりと篭っていて、聞いているだけの朱華も震え上がった。


(叱る価値もないってこと? 呆れかえってるんじゃない……?)


 なのに、大声で怒鳴られなかったというだけで、龍基皇子は何か勘違いをしたようだった。

 微かな衣擦れの音がして、皇子が顔を上げたのが分かった。親子とはいえ、皇帝に対しては不遜だろうに。それに、彼の声も、先ほどよりも大きく、拗ねたような響きがした。


「読み違いと言うなら、炎俊を皇宮に迎えたことこそ、でしょう! そやつさえいなければ──あのような予言さえ、なければ! 志叡と翰鷹とならば、私は堂々と競っていた!」

「そうだ。時見も遠見もしばしば誤る。そのていどのものだ」

「は……?」


 静かに諭した父帝に、龍基皇子は間の抜けた吐息のような声を漏らした。彼は、時見や遠見を得意としていないのかもしれない。でも、朱華には皇帝が言わんとしていることが何となく分かった。暗い長櫃(ながびつ)に閉じ込められて。遠見で周囲を窺うことはできても、助けを待つことしかできなかった──その無力さを、味わったばかりだから。


(何を見るか、だけじゃない。ひとりで、ひとつの力でできることには限りがあるから──)


 常人を越えた力を持つこと、だけでは大したことがないのだ、きっと。皇帝が言うそのていどのもの、でしかない。より重要なことが、あるのだ。


「だからこそ、どの未来を選ぶのか──そして、見たものをどう精査しどう使うか、ほかの力を持つ者といかに助け合うかが肝要だというのに」


 皇帝の意図を理解したのは、朱華だけではないようだった。龍基皇子よりもよほど滑かな衣擦れの音を奏でて、恐らくは恭しく拝礼したのは──音の出どころからして、志叡皇子だろう。続けて聞こえた声が、朱華の予想を裏付けてくれた。


「今日、我らが見聞きしたものごとは、隠すことなく記録し、さらには調査の上でご報告いたします。龍基兄上にも凰琴義姉(あね)上にもご協力いただけるものと思いますが」

「うむ。兄弟が共に力を合わせる機会が生まれたのはめでたいこと。──炎俊を迎えた甲斐があったな」


 声の聞こえ方からして、皇帝は炎俊に向き直って声をかけたようだった。つまりは、彼の隣にいた朱華も、至尊の御方の視界にばっちり入っていることになる。


(ひえ……)


 朱華は、ますます畏まって居ずまいを正した。声を発することはおろか、呼吸さえ極力抑えたいくらいだったのに──


「では、ことのついでに褒美をねだりたいと存じます」

「炎、俊!」


 遠慮も畏れも欠片もない炎俊の発言に、叱らないわけにはいかなくなってしまった。

 あまりの図々しさ、あまりの非礼に、心臓が止まるかと思ったのだけれど。


「何だ。申してみよ」


 でも、幸いなことに、皇帝は軽く笑って促してくれた。


「この雪莉の実家、(とう)家も此度のことに関わっているようでございます。本来ならば、この者も皇宮を去らなければならないのでしょうが──お許しいただきたく」


 そして、言われてみればとても大事なことだった。龍基皇子と凰琴を追及すれば、(ほう)の、ひいては陶家の関与も明らかになるだろう。皇子が皇子を害そうとしただけでも大罪なのに、臣下の立場で加担したとなれば、より重い罰が課せられてもおかしくなかった。


(炎俊……私のために……?)


 熱い想いが込み上げて、朱華の喉を塞いだ。嬉しいのに息苦しくて、必死に息を吸って、吐く。その間に、皇帝と炎俊、とてつもなく高貴な親子はさらさらとやり取りを続ける。


「そなたがかねてより執心の姫ということだったな。良かろう」

「ありがとうございます。それと──」


 (とど)まるところを知らない炎俊の図々しさに、やっと整いかけた朱華の呼吸と鼓動はまた止まりそうになった。


(炎俊ってば……!)


 今度は声を出せそうになかったから、朱華は炎俊の袖を強く引っ張って無作法を窘めた。


「なんだ、まだあるのか」


 皇帝も、意外そうな声を出す。罪を犯した家の姫を庇うだけでもとてつもない慈悲なのだろうから、当然だ。志叡皇子も翰鷹皇子も、心配そうに、そして居心地悪そうに身動ぎする気配がする。


「はい」


 でも。もちろん、炎俊は空気を読んで黙ったりはしないのだ。


「陶家との関わりを絶ったと示すために、この者に新たな名を与えたいと思います。……実のところ、密かに似合いの名を贈っていたのですが、正式に、ということで」


 ほかの者たちは、炎俊が何を言い出したか分からなかっただろう。戸惑いを表す衣擦れや溜息が、碧羅宮の妃や使用人たちにまで広がって夜の空気を乱した。


(嘘。まさか)


 でも、朱華には分かった。何と呼ばれるか、どの名前を名乗るかは、彼女にとってはとても大切なこと。

 雪莉姫──もう亡くなった、陶家の姫君の名ではない。本当の名前で呼ばれたい。その願いは、確かに炎俊に漏らしたことがあるのだけれど。


「なるほど。その、似合いの名というのは?」

「朱華、と呼んでおりました。」

「ほう」


 皇帝の、恐らくは精緻な刺繍が施されているであろう衣が、重たげな衣擦れの音を奏でた。どうやら、顎を撫でるか何かしたらしい。


「炎俊の妃よ、朕が許す。顔を上げよ」

「は、はい……!」


 下命に応えて、朱華はゆっくりと半身を起こした。

 びしょ塗れになった不快も冷たさも、皇帝に対する緊張も、もはや感じなかった。身体の芯に炎が宿ったかのように、全身が熱い。興奮と喜びが、朱華の心を燃やしているのだ。


 身体の内を焦がす炎は、遠見や時見でも見えないのだろうけれど──朱華の顔を見た皇帝は、にこり、と微笑んだ。声から想像したとおり、顎に立派な髭を蓄えた、穏やかな威厳を備えた御方だった。


「確かに、燃えて輝く炎の華のような娘だ。似合いの名だし、そなたには似合いの妃のようだ。末永く、大事にするのだぞ」

「命じられるまでもなく、そのつもりです」

「こういう時はな、感激した様子を見せたほうが印象が良いぞ」

「そうですか……?」


 相変わらずの調子の炎俊に、皇帝は軽く苦笑した。そして、朱華に向かって口を開く。


「この通り、至らぬところも多い()だが、そなたがいれば何とかなろう。朕からも頼むぞ、朱華」

「……はい」


 皇帝と目を合わせてしまっているという恐ろしさは、ひしひしと感じる。国の未来、誰が皇帝になるかまでを見通したという、優れた時見でもある御方だ。朱華の正体も、もしかしたら察しているのかもしれない。


(私は、炎俊の妃だもの。彼を、ずっと支えるの)


 でも、朱華は目を逸らさなかった。そうすることで、覚悟を見せたかったのだ。


「炎俊……様が描く世界を、私も見たいと思いました。いえ……見るだけではなく、その世界を実現させたい、と。そのための助けとなれるのでしたら、この上ない喜びでございます」

「うむ。そなたらがいかなる未来を紡ぐか楽しみだ」


 言い終えた朱華が再び平伏すると、満足そうに頷いた気配が降ってきた。そして、金糸銀糸を施した絹の、重たげな衣擦れの聞こえ方からして、皇帝は皇子たち全員を見回したようだった。


「未来とは個々の想いが織りなす複雑なもの。朕の目をもってしても何が出来上がるかは読みがたい。とはいえ、善意と希望を持つ者が多いほど、鮮やかな織物が浮かび上がるとは期待できよう。──そのことを忘れずに励むように」

「は──」


 志叡皇子と翰鷹皇子は、恭しく。龍基皇子は、焦りを滲ませて慌てたように。そして、炎俊はやはり淡々としてあっさりと。

 皇子たちの答えはそれぞれの立場と性格を反映してそれぞれの響きがあった。でも、とにかく。彼らの声は唱和した。龍基皇子への沙汰は、また追ってあるのだろうけれど──より良い未来のために、という皇帝の御意志は、帝位を目指す者たち全員に伝わったことだろう。

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