彼女なしではいられない
青褪めて震える紫薇の、落ち着きなく動く目や、わななく唇を裏返すつもりで過去見をすると、彼女が何をしたか、誰と会ったかはすぐに見えた。
(何と言ったか──陶家の者か。朱華に会おうとしたのを追い返すうちに接触されたのだな。それに、宋凰琴……!)
呪で守られた場所で密談をすれば、炎俊の目も届かなかっただろうに。こうして容易く見ることができるのは、凰琴が水竜の力を使って紫薇を脅したからだ。
茶器に一杯ていどの水でも、人を窒息させるには十分に足りる。水の塊を喉に詰められて、吐き出すこともできずに苦しむ紫薇を見下ろして、凰琴は笑っていた。艶やかな唇が何を命じたのか──聞こえずとも、想像はつく。
「雪莉を人質にして、私をおびき出そうとしたのだな。陶家も絡んでいるということは、凰琴義姉上とあらかじめ通じていたのか。だが、雪莉が実家との接触を断ったから業を煮やして──といったところか?」
雪莉──ということになっている朱華──が攫われた直後に、都合よく脅迫状を持って紫薇が現れたのだ。子供でもできる、簡単な推測に過ぎない。
だが、兄たちからは驚きの声が上がる。
「凰琴──碧羅宮の、龍基兄上の妃の!?」
「陶家は、自家の姫にあのような無体を働いたのか!?」
志叡皇子と翰鷹皇子は、朱華は雪莉姫ではない偽者だと知らないからこその驚きだろう。
確かに、大事な姫を目障りな皇子への刺客にすることも、連絡が途絶えたからといって切り捨てることも、考えづらい。……普通なら。
(凰琴と陶家にとっては、しょせん下賎の女だったのか……だから、道具にしても良いと考えたのだな)
兄たちの察しが悪いわけでは決してない。より多くの情報を持っていながら、想像が及ばなかった炎俊が悪いのだ。
人の心が分かっていないと、朱華には何度叱られたことだろう。市井の出の皇子や妓楼上がりの偽者に対して、名家と呼ばれる者たちがどう思うか──嫌悪や警戒、軽侮を正しく認識できていなかったのが悔やまれる。
固く拳を握り、歯を噛み締める炎俊を余所に、翰鷹皇子が紫薇の手から書簡を取り上げた。
「……妃を返して欲しくばひとりで来い、とあるが。聞いてはならぬぞ、炎俊。その侍女も拘束せねば。そなたを背後から刺すつもりだったのかもしれぬのだからな」
「そうだ。我らの従者とここの住人とを差し向けて、待ち受けている者を取り押さえさせよう。龍基兄上と宋凰琴への追及は、皇宮に帰ってからじっくりとやれば良い」
書簡は、翰鷹皇子から志叡皇子の手へと渡った。ふたりの兄が揃って苦々しい顔をしているのは、紙に触れたことで、それを書いた者が悪だくみをしている表情でも見えたのかもしれない。時見も遠見も、ゆかりある品物に触れながらだとやりやすいものだから。
とにかく──兄たちの主張は、まったくもって正しく合理的だった。いつもの炎俊なら、すぐに頷いていただろう。凰琴の背後には長兄の龍基皇子がいるに違いなく、帝位を争う競争相手をひとり減らせるのもとても良い話だ。
「いいえ」
だが、炎俊は即座にきっぱりと首を振った。
「それでは朱華──雪莉の居場所が知れぬままです。私に返すつもりなどないのでしょうから、何をされるか、どこに連れ去られるか分かったものではない」
だから呼び出された場所に向かう、と。強く言い切ると、兄たちは困惑したようにそっと視線を交わした。
「だが──」
「陶家も姫君には無体をすまい」
眉を寄せて口々に言う兄たちは、彼を案じているのだろう。事情を知らぬふたりには、彼は、妃を案じるあまりに愚かな行動をしようとしているとしか見えないのだ。
「あ、あの方々は、しゅ──雪莉様を、暗闇に閉じ込めると……だ、だから遠見でも見つけられぬ、と……!」
いまだ床に倒れ伏したままの紫薇も、だから無謀なことは止めろ、と言おうとしているようだ。
(裏切ったのに、私の身を案じるのか……?)
心の片隅で不思議に思うのは、現実逃避のようなものだった。ただでさえ山と森の広大さ、影の多さに手を焼いていたのに、さらに目当ての朱華が闇の中にいるのでは、探し出すまでにどれほどの時間が必要か分からない。
(黒幕の追及など二の次だ。朱華を見つけ出さねばならぬのに。この目の役に立たぬこと……!)
苛立ちと悔しさに紛れて、炎俊は両目を指先で抑えた。いっそ、そのまま抉ってしまいたいほどだったが──翰鷹皇子が横から腕を伸ばし、彼の手をぐいと強く引っ張る。
「炎俊……! 気持ちは分かるが、聞き分けよ。戻るぞ」
「兄上は、ご存知ないから……!」
陶家は、仮初に姫を名乗らせただけの女を手厚く扱ったりはしないだろう。
遠見の力ゆえ害されることはなくても、だからこそまったく安心できない。力は親から子に継承されるものなのだから。朱華は、陶家にとっては強い力を持つ子を産ませるための道具でしかないだろう。
(そのようなこと、させるものか……!)
朱華は、彼の妃なのだ。本当の意味での夫婦ではなくても、短い間でも、寝食を共にし、未来について語らった。彼女が来てから、なぜか兄たちもその妃たちも彼に理解と興味を示してくれて──そうだ、だから、炎俊は彼女なしではいられないのに。
「炎俊!」
志叡皇子も、眉を顰めて強い口調で彼の名を呼んだ。聞き分けのない子供のような扱いに反論すべく、炎俊は大きく息を吸った──だが、彼が声を発する前に、部屋の扉が音を立てて開いた。
さすがに振り向いた皇子たちの視界を、色鮮やかな絹と金銀と玉の煌めきが輝いた。
行楽のための衣装をまとったままで待機していたはずの、佳燕と芳琳が転がり込んできたのだ。扉が開く音がやけに大きかったのは、芳琳の怪力によるものだろう。
皇子たちの視線を一身に浴びて、震えながら──必死の表情と細い声で訴えたのは、佳燕だった。
「あの! 申し訳ございません、お話を聞いておりました──雪莉様が暗い中にいるのでしたら、望みはあります!」
「どういうことですか、佳燕義姉上」
気弱な佳燕のことだから、強く詰め寄っては怯えてしまうだろう。分かっていても、炎俊は急かしてしまう。
「そ、それは……」
恐れた通り、佳燕は頬を引き攣らせた。けれどそれも一瞬のこと、すぐに気を取り直したように息を整え、口を開く。
「私がお贈りした髪飾りです。夜光の珠の──炎俊様も、ご覧になったことがあるはず」
「……雪の結晶の──」
「はい。あれは、暗い中では光りますから……!」
朱華の髪に挿されていた、雪の結晶を象った髪飾り。偽の、雪莉という名にちなんだものなのが申し訳ないと、寂しそうに笑っていたのを思い出す──と同時に、炎俊は遠見で夜光の珠の青白い輝きを探し始めた。
(暗い中にあの輝きは……とても目立つ!)
何よりも、朱華が身に着けていたもので、彼自身も見たことがあるものだ。光る雪の結晶を見つけたら、次は場所を絞っていく──あてもなく、あらゆる物陰を精査するよりはよほど早いだろう。
「雪莉姫の居場所が知れたところで、山の中なのだろう。近づくのは難しかろうし、察知されれば逃げられるぞ?」
炎俊の目つきで、もはや目の前を見ていないことに気付いたのだろう。志叡皇子が、心配げな声を上げるが──
「我が君様、そこは私がお役に立てるかと」
炎俊の代わりに、志叡皇子の妃である芳琳が、高く澄んだ幼い声で応じる。
「……芳琳?」
「我が君様以外の殿方に触れるお許しをくださいませ。……場所が分かれば、炎俊様を背負って私が跳びます」
なるほど、芳琳の力なら、炎俊を背負った上で木々の梢や谷間を越えて跳躍することは可能だろう。道がなくとも、案内がなくとも問題にならない。
「お願いできますか、芳琳義姉上」
「恥ずかしいですが、雪莉様のためですから」
いまだ遠見に集中したまま、炎俊は少し笑った。芳琳が頼もしく頷いたのは、声と気配で感じるだけだ。
「志叡様、どうか──」
芳琳に頼みこまれた志叡皇子がどんな顔をしているのか、夜光の珠の輝きを探していた炎俊には見えなかったが──やがて、諦めたような溜息が聞こえたかと思うと、力強い声が決断をくだす。
「……分かった。だが、そなたたちだけで行かせはしない。従者の中で闘神の力を持つ者を集めさせよ。雪莉姫を救いつつ、同時に炎俊を呼び出した者たちも捕えるのだ……!」