許さない
朱華は今や、ぬかるんだ地面に倒れて、泥で頬を汚している。肉眼の視界も、ほとんどが地面と草葉で占められているけれど──凰琴や峯のものではない、重い足音がいくつか近づいてくるのが音と振動で感じられる。
(陶家の者? 碧羅宮の宦官を連れて来たの……!?)
遠見の視界で確かめてみれば、その両方が混ざっているようだった。つまり、大勢をかき集めて炎俊を陥れようとしている。朱華を攫い、紫薇を遣いにしておびき出して──亡き者にしようというのだろうか。
(そんなこと、させない……っ)
朱華の抵抗は、でも、泥の蛇によって巧みに封じられてしまう。縄と違って自在に伸縮する泥水の戒めは、闘神の力も持たない小娘が暴れたところでどうにもならなかった。しかも、現れた男たちと宦官たちは、彼女の手足を持ち上げて長櫃の中に押し込めてしまう。
重い木材の蓋が締められる直前、峯と凰琴の笑い声が漏れ聞こえた。
「時見も遠見も、暗闇には弱いものだ。視覚に頼る力だから、呪に頼らずとも闇の中に封じてしまえば見通すことは難しい」
「ことが終わったら出してあげるわ。陶家に返してあげる。卑しい生まれでも、力を継承する役には立つでしょう」
峯が言った通りなのは、朱華にもよく分かる。
遠見の力は、彼方の地に視線を飛ばすことはできても、その場所に灯りを点けたりなんてできない。天遊林での遊戯のように、目の前にある絵の裏側を見る、くらいならまだしも、手の届かない場所の暗がりを見通すのは、とてつもなく繊細な力の制御と集中が必要になる。
……この山のように馴染みのない場所、物陰も暗がりも無数にある場所で、朱華を見つけ出すのはまず不可能だ。
(陶家に返す、ですって!? あそこは私の家じゃないのに!)
朱華を閉じ込めてひと安心、ということなのか、手足を戒めていた泥の蛇は水に戻ったようだった。生臭い泥で全身が汚れ、冷えるのを感じながら、朱華は怒りに任せて長櫃の蓋の裏を叩く──でも、びくともしない。暗闇から外の世界を見ることはできるから、遠見の力を使って見てみれば、太った宦官が長櫃の上に座り込んで重石を務めている。これでは動かせそうにない。
(せめて、どこにいるか分からない……!?)
遠見の視界を上空に飛ばしても、山や谷を越えてみても、どこにいるかは確実には分からなかった。広い運河の流れは見落としようがないけれど、多少、流れを辿っても炎俊たちが乗っていた船は見えない。木々の間や岩陰に隠れているのを見つけようと思えば、ひとつひとつの暗がりを覗き込まなければならない。
(……それじゃあ。こっちの手勢を見て、覚えておかないと。助けが来た時に、伏兵を教えられるように……!)
朱華の力を知っていながら、暗闇に閉じ込めるだけで安心しているなんて愚かなことだと、思い知らせてやらなければ。炎俊は、冷静だし遠見と時見の力を持っているし、頭も回る。……気遣いはできなくても、この場面では不利にならないはず。きっと、朱華を見つけ出してくれるはずだ。
(暗い。狭い。息苦しい。怖い、けど……押し潰されたり、しない!)
厚い木材に阻まれて外には聞こえないだろう。朱華は、自分自身を鼓舞するためにも声に出して決意した。
「……許さない。私にしたことも、紫薇にしたことも。炎俊にしようとしていることも……!」
朱華と紫薇から名前を奪い、心を踏み躙り、好き勝手に利用したこと。それも、炎俊を陥れるために! しかもその理由は、平民に権力を奪われるのが嫌だから、というのだから始末に負えない。
(炎俊は、皇帝になれる。相応しい力と、国を導く展望がある。こんなところで殺されて良い奴じゃない!)
会ったこともない皇帝の予言とやらを、今は信じたかった。何年も先の未来、しかも、多くの人間の思惑が絡み合うことを正しく読み取るのは、とても難しいとは聞くけれど。──でも、分からないからこそ。未来は掴み取らなければならないのだ。
(私が、炎俊を皇帝にしてあげるって言ったのに。嘘になんかしない。させないんだから……!)
粘りつくような闇を、強い怒りと決意で跳ねのけて、朱華は目を凝らした。身動き取ることができなくても、彼女にはまだ遠見の力があるのだから。できることをやって、炎俊が来るのを待つ──今は、それに専念しなくてはならない。