誰でも良い
「紫薇! 大丈夫なの……!?」
不安も疑問も、山ほどあった。でも、朱華の口から真っ先に出たのは、紫薇を案じることばだった。
「朱華様。わ、私──」
だって、紫薇の様子は明らかにおかしかった。顔は紙のように真っ白で、朱華のように濡れそぼっているわけでもないのに全身ががくがくと震えている。しきりに辺りを見回しているのに、目は焦点を結んでいない。なのに、何かを振り払ったり、避けようとしたりする仕草をしては、頭を振り、顔を手で覆って──まるで、何かから逃れようとするかのように。
「怖い、です。黒い濁流。決壊して、押し寄せる──みんな、みんな流されてしまう! 苦しい、助けて……っ」
悲鳴のような紫薇の声に、朱華は状況も忘れて手を差し伸べようとした。でも、抱き締めてあげるより先に、鋭く乾いた音が響く。
「落ち着きなさい、うるさいわね」
凰琴が、紫薇の頬を打ったのだ。呆然と、頬を押さえて立ち竦む紫薇を前に、凰琴はうんざりとした様子で肩を竦めた。
「運河を掘削した時の過去見かしら。何十年も前のことでしょうに、区別がつかないなんて……」
そうだ、紫薇は時見の力を制御できないと言っていた。見たくもない恐ろしい光景ばかりを引き寄せてしまうのだと。皇宮を遠く離れたこの山の中では、呪は彼女を守ってはくれない。凰琴たちは、そんなところに紫薇を引きずり出したのだ。
絡みつく泥を振り払い、踏みしめて、朱華は今度こそ立ち上がり、凰琴たちを睨めつけた。
「……紫薇を脅したの? 星黎宮の中でないと生きていけないって言ってたのに! なんて、ひどい──」
「正確に言えば、呪を施された宮殿の中でなければ、だ。つまりは、星黎宮でなくても良いということだ」
でも、峯は皴ひと筋たりとも動かさなかった。淡々と言われたのはいったいどういう意味か──朱華が眉を顰めていると、凰琴もおっとりと穏やかに口を挟む。泥まみれの朱華に比べて、ふたりとも染みひとつない装いなのが腹立たしかった。
「炎俊なんかに忠誠を誓う侍女がいるとは思えなかったから、調べさせたのよ。そうしたら、その娘は出来損ないだと言うじゃない? 安全な住まいを提供してやると言ったら、喜んで話に乗ったのよ」
「わ、私は……」
凰琴に微笑みかけられて、紫薇は震えて顔を伏せた。でも、朱華は凰琴なんかの話を信じないし、紫薇に怒りを向けたりもしない。彼女が怒るべきは、卑劣な企みを巡らせた者たちだ。
「星黎宮は、十分安全な住まいのはずでしょ。あんたたちが、余計なことさえしなければ!」
朱華が叫んで手を振り回した弾みに、泥が跳ねて峯と凰琴の衣を汚した。絹の衣に落ちた染みを見下ろして、ふたりは嫌そうに顔を顰めた。
「……まさしく。その娘は不安に思ったのだろうよ。炎俊皇子が失脚しないはずがない、より有望な御方の信頼を得なければ、と──」
けれど、嫌悪や苛立ちよりも、まんまと嵌めた朱華を悔しがらせたいという思いのほうが勝ったらしい。お陰でというか何というか、朱華は峯と凰琴の計画の全容を知ることができた。
「私、私……ずっと迷っていました。こんなことをして良いのか。炎俊様は私を取り立ててくださって、朱華様は優しくしてくださった。朱華様が何もお尋ねにならないのを良いことに、陶家の企みを言わなくても良いのか、と──」
紫薇の想いも、やっと分かった。朱華の化粧を手伝いながら、この侍女は最後まで打ち明ける機会を窺って葛藤していたのに。
(私が浮かれてたから? もっと切り出しやすいようにしておけば──陶家も凰琴も、侮り過ぎていた? 話を聞かなければ大丈夫、だなんて甘く見てはいけなかった……!)
いくつものもしも、が頭を駆け巡って、朱華は強く唇を噛んだ。遠見の力なんて、結局大したものではないのかも、とさえ思う。
(遠くが見えたって、目の前の紫薇の気持ちが分からないんじゃ……!)
拳を握りしめて、俯いた時──紫薇がふふ、と笑った。というか、笑い声に聞こえなくもない、引き攣った息を漏らした。
「……でも、貴女様は『雪莉姫』を名乗るのがお嫌だと仰ったから。誰もが羨む名家の姫君でいるよりも、ただの朱華と呼ばれるほうがお望みだというから。それを、叶えて差し上げられるなら……!」
「紫薇?」
朱華が顔を上げると、紫薇の目からはぽろぽろと涙が零れ落ちていた。過去か未来の恐ろしい情景を見てしまって泣いているのか──それとも、裏切りに心を痛めてくれているのか。でも、どちらにしても何を言っているのか分からない。
「……どういうこと? 朱華って呼んでもらえて嬉しかったのは本当よ。それが、どうしたの……?」
朱華がおろおろと声をかけても、紫薇は涙を流し続けるだけ。その様子の何がおかしかったのか、凰琴がひと際高らかに、楽しそうに笑う。
「陶家の望みは、雪莉姫という名前の娘が栄達することだけ。本物の姫君がもう亡くなっている以上は、中身は誰でも良いのよ。妓楼上がりの下賎な女だろうと、力を使いこなすことのできない役立たずだろうと、ね!」
峯の婆も、凰琴に負けず劣らず楽しそうだった。凰琴の高く澄んだ声と、峯の低く掠れた声が、耳障りな二重唱を奏でて、聞きたくもない陰謀を明らかにしてくれる。
「炎俊皇子は、何者かに攫われた妃を助け出そうとして、命を落とす。夫君を失った雪莉姫は心を病んで人前には出られなくなる」
「でも、我が君様はお優しいから。傷心の雪莉姫を慰めて差し上げるの。そのうちに、姫君も我が君をお慕いするようになるでしょう」
ふたりが言うのは、どこまでも気持ち悪かった。そういうことにしたい、権力で抑えつけてそういうことにする、というだけの話を、自然とそうなるかのように語るなんて。
(私の代わりに、紫薇を雪莉姫に仕立て上げる……そして、もう誰とも会わせずに、第一皇子のものにするっていうこと!?)
朱華は、やはり甘かったのだ。
偽の「雪莉姫」を演じている以上、安全だと思っていた。強引な手段に訴えられることはないだろうと──でも、陶家が重んじるのは名前と体面だけだということを、もっと考えておくべきだった。
(偽者を、さらにすげ替えるなんて。中身は誰でも良い!? そんな、亡くなったお姫様にも失礼なことを……!)
勝手な企みで用なしにされるなんて、悔しくてならない。そして、失礼というなら、紫薇に対してだってそうだ。
「それで良いの、紫薇!? これから先、ずっと『雪莉姫』として生きるなんて。閉じ込められて、会ったこともない奴の妻にさせられるなんて……!」
名前を奪われること、自分のものでない名前で呼ばれることの不安や辛さや後ろめたさは、朱華が誰よりよく知っている。
(どういうことだか、分かってるの!? 今よりもっと泣くことになるかもしれないのに……!)
紫薇にも怒って欲しかった。脅されてここまで来てしまっただけで、冷静になれば酷い話だと分かるはずだと思ったから。
「でも、碧羅宮にいられます! 第一皇子の……恐らくは、皇帝になる御方のお傍にいれば、私は何も見ないでいられる。心穏やかに……それなら、私の名前なんて」
朱華の必死の訴えに、けれど、紫薇は微笑んで首を振った。微笑みといっても強張って引き攣って、涙に濡れた目は怯えと諦めで翳っていたけれど。名前なんてどうでも良いはずはないのに──説得する時間は、与えられそうになかった。
「そろそろ行きなさい、紫薇。炎俊に報せるのよ。星黎宮に脅迫状が届いたと──大切な妃を返して欲しくば、ひとりで出向け、とね」
「……はい」
凰琴の命令に頷くと、紫薇は朱華に背を向けて去ってしまう。頼りない足音がどこに向かうのか、彼女には知る由もない。
「紫薇……!」
「人のことより、自分の心配をしたほうが良いのではなくて?」
凰琴が楽しそうに笑った、かと思うと、朱華は再び地面に倒れていた。何かが彼女の足を引っ張って転ばせたのだ。
「きゃ──」
びちゃん、と大きな音が立って泥飛沫も派手に散る。でも、凰琴たちの衣装が汚れることはない。
(泥水も、水竜で操れるんだ……!)
朱華を転ばせたのは、泥色の蛇──蛇のように細長く、しかも意志を持つかのように蠢く濁った水だ。凰琴が操っているのであろうそれは、巧みに朱華の手足に絡みつき、自由を奪う。
「く……っ」
泥の蛇は、さらに朱華の口にも巻き付いた。喉の奥まで侵入して窒息させられることはないけれど、土と苔とカビの臭いが口の中に満ちて吐き気がしそうだ。しかも、もう憎まれ口を叩くことさえできなくなった。