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黒幕の計画

 気が付くと、朱華(しゅか)は苔むした地面に手をついて、激しく咳き込み水を吐いていた。


(助かった……? 違う、どこに攫われたの……!?)


 横目で周囲を窺えば、一面の深い森。それも、斜面になっているということは山の中だ。炎俊(えんしゅん)たちが乗った船はおろか、運河の水面さえ見ることができない。遠見で周囲を見回そうとしても、酸欠の頭では山間の複雑な地形を把握することができないから、すぐに諦めた。


(……遠見が駄目なら、目の前のものだけでも……!)


 せめて、肉眼で事態を把握しようと、朱華は水が染みて痛む目を瞬かせた。視覚以外の五感も、動員させる。

 地面が濡れてぬかるんでいるのは、朱華を呑み込んだ水の竜が形を失って水に戻ったのだろうか。泥と草葉と苔の混ざった匂いは青臭く生臭く、不快だった。濡れた衣が肌に張り付くのも。


(……伽羅(きゃら)の香。それに、白粉の匂い……?)


 ただ、どこかから漂う匂いだけは、そう悪いものではなかった。むしろ、馴染んだものでさえある。でも、それもおかしな話だ。朱華に馴染みがある世界は、妓楼でなければ後宮で、こんな山と森の中には決して似つかわしくないのに。


 不思議に思った時──今度は、耳にも聞き覚えのある声が届く。とてつもなく優雅で柔らかい、聞くだけで高貴さを窺わせる、女の声だ。


「お久しぶりね、雪莉(せつり)様」


 美しいのに冷ややかなその声に答えるために、朱華はひと際激しく咳き込んだ。それは、どうにか動揺や驚きを隠すための時間稼ぎでもあった。


(やっぱり! 水竜の力がある者でなければできないものね……!)


 ……正確に言えば、()()()がやったということ、それ自体はさほど驚くようなことでもなかった。とはいえ、自ら働くことを(いと)い、後宮の奥でふんぞり返っていたその女が、こんな山奥に現れるのは、やはり意外としか言いようがない。


「……お見苦しい、っ、格好で……失礼、いたしますわ。凰琴(おうきん)様……!」


 息の乱れと、激しい怒り。ふたつの理由によって切れ切れに吐き捨てながら、朱華はその女を睨め上げた。

 (そう)凰琴──水竜の力を持つ、第一皇子の第一の妃。碧羅(へきら)宮の女主人。──その女は、先日の茶会と動揺に、美しく煌びやかに着飾っていた。

 森の中には不釣り合いな輝かしさは、知らぬ者が見れば仙女が舞い降りたのか、とでも思っただろう。


「こんなところでお目にかかるなんて、思ってもいませんでしたから! ご自身でお出ましになるなんて、さぞ珍しいことでしょうね!」


 もちろん、凰琴の本性を垣間見たばかりの朱華は、見た目の美しさに惑わされたりはしない。第一、彼女を見下ろす凰琴の眼差しは、虫でも見るかのような嫌悪と苛立ちに満ちて、整った面も醜く歪んでいた。


「私も、こんなところで、こんな形で会いたくはなかったわ。(とう)家の段取りが悪いせいで、手間をかけさせられたこと……!」


 苦し紛れの皮肉でも、凰琴を不快にさせることはできたらしい。今日も細く美しく描かれた眉がぎゅっと寄せられ、ふいと背けた横顔が、整った顎の線を見せつける。でも、そんなことより、凰琴が言ったことのほうが問題だ。


「陶家……?」


 朱華の、表向きの実家の名が、どうして凰琴の口から漏れるのか──疑問への答えは、問うまでもなく与えられた。

 濡れた草葉を踏む湿った音が聞こえたかと思うと、これもまた朱華にとって馴染みの、そして、二度と聞きたくなかった低くしわがれた声が響いたのだ。


「申し訳もございませぬ、宋妃様。炎俊皇子とこの者が旧知の仲であるなどとは、思いもよらず……」


 凰琴よりは質素な装いながら、やはりこの場所には不釣り合いな、長い裾の(くん)を引きずって現れたのは、(ほう)だった。陶家から遣わされた朱華の教育係にして監視役、油断でない性悪婆の!


「あんた……なんで!?」


 朱華が動揺して狼狽えた声を上げたのがおかしかったのだろうか、凰琴は高らかに笑った。澄んだ高い声は木々の梢を揺らし、驚いて飛び立った鳥が落とした羽根が、朱華の眼前に散る。


「不思議そうね、雪莉姫を名乗っていた、下賎の女……! お前の正体は、はじめから分かっていたのよ? 必死の演技も無駄だったの。良い(ザマ)ね!」


 ひとしきり笑って機嫌を持ち直したらしい凰琴は、滔々と語った。朱華が知らされていなかったこと、華やかな茶会の陰で、どんなどす黒い企みが蠢いていたのかを。


「お前は、反抗的な上に小賢しいからな。計画の全容を明かすことなど思いもよらなかった」


 つまり、陶家もまた、炎俊が皇帝になる、という予言を信じたわけではなかったのだ。彼らが気にしていたのは、雪莉姫()()()()()()()()娘が高い位に上ることだけ。その娘は誰でも、朱華でも良かったし、その夫君もまた、炎俊に限らず誰でも良かったのだ。


「市井出の皇子が帝位に就けるはずもない。とはいえ、目障りに思う者は多い。天遊林(てんゆうりん)()()()()()という功績と引き換えに、お前の正体を見逃していただくことになったのだ」

「陶家がとても()()()ことを考えていると聞いて、最初は驚いたわ。……でも、大事なのは、力の継承ですものね。炎俊を始末する褒美としてなら、卑しい女が我が君の御子を産むことだって許容しましょう」


 代わる代わる説明する峯と凰琴は、不気味なほどにこやかだった。まるで、それが名案でもあるかのように。朱華に対しても、寛大で慈悲深い計画であるかのように。


(炎俊を陥れる手伝いをしたら、ご褒美に第一皇子の妃にしてもらえる、ってこと? それも、力のある子を産むために!?)


 激しい怒りを噛み殺そうと、朱華は奥歯をぎり、と噛み締めた。絞り出すように、精一杯の皮肉をぶつけてやる。


「……『雪莉姫』は炎俊から第一皇子に乗り換えた、って話にしようとしてたの? 気持ち悪い。本物のお姫様だってお気の毒だわ!」

「皇帝の妃のひとりになれるのだ。候補止まりの皇子、それも、いつ失脚するか分からぬものの妻よりはよほど良い! お前にとっても身に余る光栄であっただろうに、それを無にするとは……!」


 では、峯がやたらとしつこく星黎(せいれい)宮に押しかけてきたのは、炎俊に盛るための毒を渡すとか、そんな悪だくみを聞かせるためだったのだ。


(でも、私には会えなくなった。だから、凰琴様に泣きついてこんな強引な手段に訴えた、ってこと?)


 身に余る光栄を無にした、ということは、峯たちは当初の計画は諦めたのだ。この後何をする気か、朱華は何をされるのか──分からないし、とても怖い。でも、良かったことがないわけではない。


「……紫薇(しび)が、星黎宮の侍女があんたたちを締め出してくれたのよ。聞かずに済んで良かったわ! どうせ、ろくでもないことだと思ってた……!」


 朱華は、もはや陶家の駒ではないのだ。

 最初から、思い通りにしてやるつもりは欠片もなかったけれど、余計な押し問答をしなくて澄んで本当に良かった。峯と凰琴が彼女に何をするつもりにしろ、彼女が炎俊の邪魔になってしまうことはないだろう。


(あいつは……とても、合理的だもの。必要なら私を見捨てることができるはずよ)


 そう考えるのは、胸の痛みを伴うけれど。でも、当然のことでもある。


(私は、表向きには『雪莉姫』だもの。それほどひどいことにはならない、はず……!)


 この数か月、朱華は「雪莉姫」として天遊林(てんゆうりん)で生活してきたのだ。顔を知っている者だって大勢いる。陶家が醜聞を恐れるなら、そう簡単に彼女を始末することはできない。


 そう、自分に言い聞かせて。朱華は、凰琴を睨みつけた。見下ろされている視点が不愉快で不本意でならないから、濡れそぼって冷え切って、震える手足に力を入れて、立ち上がろうとする。でも──


「ええ。あの侍女は、()()()()をしてくれたわね」

「──え?」


 凰琴は、たったひと言で朱華を抑えつけた。目と口を間抜けに開いた朱華に、くすくすと、この上なく優雅な嘲笑が浴びせられる。


「出ていらっしゃい、紫薇。お前の口からも説明したほうが良いでしょう」


 その名を凰琴の唇が呼んでもなお、朱華は嘘だ、と思った。思いたかった。でも、それは虚しい願いなのだろう。彼女は、いったいどんな表情をしているのか──とにかく、凰琴はこの上なく愉しそうに、わざとらしいほど優しい口調で囁いた。


「炎俊がこの未来を見通せなかったのを、おかしいと思わなかった?」


 そう──確かに、水の竜に呑み込まれた時に、朱華も疑問を抱いたのだ。炎俊の時見が確かなら、あんなことが起きるはずはなかったのに。


(……この女は、その理由を知っているっていうの? なんで……!?)


 知りたくて堪らないけれど、凰琴に乞うのは嫌だった。唇を噛み締めて目に力を込める朱華を見下ろして、凰琴はなおも高らかに笑う。


「それはねえ、この計画を考えたのは、出かけるのを決めた()だから。炎俊が見た時には、この未来は決まってはいなかったの。何も起きない未来を見て安心したのでしょうけど──身内が私たちに情報を流すなんて、想像していなかったようね!」


 身内。情報を流す。……炎俊が未来見をした後で、それができる者は。分かっては、いるけれど。峯は、炎俊と朱華が旧知の仲であることさえ知っていた──漏らした者がいるのも、認めなければならないけれど。


(そんな、はず……!)


 受け入れたくなくて、朱華が激しく頭を振った時だった。湿った草葉を踏む、べしゃり、という音が聞こえた。


「……朱華様。あの。申し訳ございません」


 そして振ってきた声も、木々の葉の間から零れる陽光が照らし出した姿も、嫌というほど朱華の馴染んだものだった。

 つい数時間前に別れて、星黎宮で留守を守っているはずの紫薇が、そこに立っていた。

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