水竜の顎《あぎと》
都を離れてしばらく運河を遡ると、周囲の風景は山がちになっていった。水の流れは曲がりくねり、刻一刻と趣を変える眺めは、朱華たちの目を驚かせ、また、楽しませてくれる。
目の前にまで岩肌が迫る狭い場所があったかと思えば、また開けて。一面に咲いた躑躅の花で燃えるような絶景の次は、鬱蒼と茂った木々の枝が頭上を翳らせることもある。険しい崖を軽やかに跳び跳ねる羚羊に、列をなす羊の群れを追う農民に──ひとつひとつの情景も見応えがあるし、遠見と違って音や匂い、肌の感覚でも非日常を味わえるのはとても楽しい。
でも、ここ最近、力の使い方を学び、考えてきた朱華たちにとっては、また違った感想が真っ先に出てくる。
甲板に設えた卓を囲んで、開放的な気分で茶菓を楽しみながら。絵画に描かれる仙境のような渓谷を見回して、朱華はしみじみと言った。
「こんな山の中まで、よく運河を造ったものね……」
今日は皇子一行の行楽とあって、前後左右にほかの船の姿は見えない。けれど、日ごろは食料や商品を載せた船が行き交って、地方と都を繋ぎ、また、周辺の地域に豊富な水をもたらしているのだ。
大地を掘り、山を割って水路を通し、しかもそれを維持する──気の遠くなるような大事業を想像すると、目眩がしそうだ。大きく頷いた佳燕も芳琳も、きっと同じ思いだろう。
「水を操る水竜と、闘神の怪力があればこそ、だそうですわ」
「時見と遠見も欠かせなかったでしょう。雨や増水に備えたり、表面からは見えない地盤の様子を確かめたり」
昊耀の国は天から授かった力によって栄えてきた──言葉の上では知っていても、彼女たち自身がその力を持ってはいても、具体的にどうやって力が使われて来たのか、皇宮を出ないと分からないこともあるようだ。
妃たちのすぐ横では、皇子たちがもっと専門的な政策についての議論を戦わせている。夫たちから受ける刺激もあって、こちらの話題も勉強会のような趣が出ている。
「……ということは、建築だとか土木だとかの勉強も必要になるのかしら」
「ええ……たいへんなこととは、思いますけれど」
「でも、お勉強で力の弱さを補えるなら、私にとっては心強いことですわ」
船に乗って運河を進み、大いなる自然を穿ち、制御した壮大な工事の規模を思えば、明日の天気が見えるかどうかで言い争うのは本当に馬鹿馬鹿しいしどうでも良い。先ほど志叡皇子が言ったように、朱華たちの集まりに興味を持ってくれている妃が本当にいるなら、お茶会でのあのぎすぎすした雰囲気も、もっとどうにかならないだろうか。
皇子たちの卓を横目で窺えば、時々笑い声が弾けたりして和やかな雰囲気だ。……碧羅宮では、炎俊はだいぶ嫌われているし、平民を登用するという方針は反発されていると感じたのだけれど。生母の位も恐らくは高く、どこからも文句が出ない「皇子様」であるはずのふたりは、そんなこともないようだ。
(話せば分かる方たち、だったのかしら。大姐がたは、政のために働かせられるなんてとんでもない、って感じだったけど)
ということは、男の世界と女の世界では受け止められ方が違うのだろうか。まだ会っていない第一皇子、碧羅宮の主である方は、どうなのだろう。
「雪莉様。次の村で休憩するそうですわ」
「特産品は刺繍と織物だそうです。楽しみですわね……!」
「え、ええ」
考え込んでいた朱華は、佳燕と芳琳の笑顔への反応が遅れてしまったけれど──
(刺繍と織物! きっと、都にはあんまり出回っていないんじゃない……!?)
数回瞬きする間に、良い考えが浮かぶ。これは、紫薇へのお土産を手に入れる絶好の機会だ。どんな場所でどんな人たちが作っているかも併せて伝えれば、一緒に出掛けた気分になってもらえないだろうか。
「侍女にお土産を約束してきましたの。何か小物でも見つかると良いのですが」
「まあ、雪莉様はお優しい」
「その侍女はきっと喜びますわ」
ふたりの頼もしいお墨付きを得て、朱華の頬にも笑みが浮かぶ。
「はい。いつもとてもよくしてもらっているので──」
でも、彼女が最後まで言い切ることはできなかった。
「きゃ──」
「な、何……?」
船が大きく揺れたのだ。
卓上の茶器が落ちて割れ、零れた茶が甲板を汚す。菓子の皿もひっくり返って大惨事だ。──というか、卓そのものも危うく揺らぐほど、朱華たちが座っていた甲板が縦になるのではないか、と思うほどの激しい揺れだった。
「佳燕! こちらへ!」
佳燕ひと筋の翰鷹皇子が、いち早く手を差し伸べて愛妃を腕の中に確保した。志叡皇子も炎俊も、彼に続く。ただ、席次の関係と、立て続けの揺れによって、朱華はすぐに炎俊の手を取ることができない。
「殿下がた、お妃がたはどうぞ中へ。──晴れているのに、何だ、この波は……!?」
船を操舵する水夫の奏上も、甲板に転がりながらのことだった。従者も侍女も、帆柱や船縁に縋ったり甲板に這いつくばったりしてどうにか揺れをやり過ごしている。振り落とされたものがいないようなのは不幸中の幸いだった。
彼女自身も必死で身体の均衡を保ち、炎俊に手を伸ばしながら──朱華の脳裏に、不穏な直感が閃く。
(まさか、水竜の……?)
水を自由に操る力があれば、嵐でもないのに船を揺り動かすことはできるだろう。水竜の力を持つ名家といえば──宋家。碧羅宮の皇子の第一の妃の、凰琴の実家。
(でも、炎俊の未来見だと今日は大丈夫だって……!)
企みがないと確かめた上で、彼は志叡皇子の招待を受けたのに。炎俊の力が、凰琴だろうとほかの皇子や妃だろうと後れを取るとは思えないのに。
(どうして!?)
朱華が心の中で叫んだ時──船がひと際大きく、揺れた。同時に、船縁を越えるほどの高い波が、飛沫を上げて太陽を翳らせる。
……違う、それはもはや波ではない。大きく鎌首をもたげた蛇、あるいは竜。それを造り出したであろう力の名の通り、透明な水の竜が、向う側の景色を透かせながら、顎を開く。ご丁寧に牙までも備えた大きな口が、朱華に迫る。
「──朱華!」
次の瞬間、朱華は水の竜にぱくりと食いつかれていた。
炎俊の、珍しいほど必死の顔が、差し伸べられた手が、水の向こうに歪んで見える。応えようと口を開けば、水が流れ込んで噎せてしまう。喉と鼻を襲う痛みと息苦しさに涙が出るけれど、それも竜の体内に溶けていく。
(……駄目じゃない。本当の名前を、人前で呼んじゃ──)
こんな時でも炎俊を窘める言葉が浮かんだのは、たぶん、現実逃避のようなものだった。彼はまだ朱華に呼びかけ、何かを叫んでいるようだけれど、水の壁に阻まれて聞こえない。
そもそも、彼女を咥えた水の竜は、船を離れてどこかへ泳ぎ去ろうとしているようだった。
その間も、もちろん呼吸をすることはできなくて。苦しくて──朱華の意識は、すぐに闇に呑まれた。