皇子たちの語らい
皇子の妃たちは、下々に素顔を晒すものではないのだそうだ。だから、皇宮を出て都の通りを抜ける間、朱華の視界は轎子に備えられた御簾によって遮られていた。ちなみにこの御簾にも防ぐ呪が施されているとのことで、遠見や時見によって覗き見されることはないということだった。
というわけで、朱華が自由に周囲を見回すことができたのは、乗り込んだ船が岸辺を離れた後のことだった。
御簾と呪文、二重の目隠しを取り去って、朱華は広々とした視界を味わった。遠見の力のお陰で、日ごろから壁も天井も彼女にとっては障害にはならないのだけれど、実際に青く晴れた空の下で外の空気を味わうのは爽快な気分だった。
(もう動き出してる──風が気持ち良い……!)
幅広い運河の真ん中を進めば、船上の人の姿を岸からはっきりと捉えることはもはや不可能だ。だから、朱華を始めとした妃たちもその侍女も、顔を隠すことなく堂々と景観を楽しむことができる。
貴人が行楽や宴を楽しむための船だから、甲板は広く取られている。何なら、歌舞を演じさせることもできそうなくらいの空間に、今は仮の柱が立てられ、陽射しを避けるための、厚い織物の覆いがかけられている。
その、即席の日陰に佇む人影こそ、第二皇子の志叡と第三皇子の翰鷹だ。煌びやかな刺繍の袍が彼らの身分を教えていたし、芳琳と佳燕が、それぞれの夫の隣についたから、どちらがどちらか分かる。
そして、朱華もまた、彼女の夫である炎俊と並んで、目上の皇子たちに挨拶をすることになった。
「兄上がたへのご紹介が遅れました。こちらが我が妃、陶家の雪莉です」
「第二皇子殿下、第三皇子殿下へのお目通りが叶い、まことに光栄に存じます」
星黎宮で何度も練習してきた通りに、丁寧な礼と共に口上を述べる。船の上にいるとはいえ、幸いに水の流れは穏やかで、みっともなくよろけたりふらついたりせずに済んだ。
「そなたが雪莉姫か。我が妃たちから、噂はよく聞いていた」
「お、恐れ入ります……」
例によって、遠見で見られていることを前提に、指先の合図で朱華の顔を上げさせたのは、辰緋宮の志叡皇子。快活な笑みにも典雅な雰囲気を湛えた、怜悧な印象の貴公子だ。
(噂はかねがね、ってこと……? 芳琳様に余計なことを吹き込んだとか、思われていない……?)
辰緋宮には、芳琳以外にも複数の妃がいるとか。彼女たちは、妹分の芳琳が星黎宮に出入りしているのを好ましく思っていないかもしれないし、それを夫君に告げ口したのかもしれない。
(やっぱり、釘を刺すために呼び出されたの……?)
緊張に、朱華の笑みは少し強張ってしまったのだけれど──志叡皇子の声も表情も柔らかいものだった。
「畏まる必要はない。何を考えているかだいたい分かるが──芳琳の顔が明るくなったのを見て、そなたたちの集まりが気になるという者も出てきている」
志叡皇子も、遠見や時見の力を持っている可能性は高い。そもそもたった四人の皇太子候補のひとりであるからには、優れた才を持つ御方のはずだ。そんな彼が、興味深げにしげしげと覗き込んできたものだから、朱華の背は冷や汗に濡れ、声も揺れた。
「さ、さようでございますか」
「近々、仲間に入れて欲しいという打診もあるかもしれぬ。無論、おかしな企みを抱いてはいないか、こちらでも確かめた上で送り出すつもりだ」
志叡皇子は、何だか朱華の気苦労が増えそうなことを言うだけ言うと、傍らの翰鷹皇子に目配せした。次はお前の番だ、ということらしい。
兄皇子に代わって進み出た翰鷹皇子は、精悍な顔立ちの殿方だった。華奢な佳燕と並ぶと、がっしりとした体格がいっそう際立つ。日よけの覆いなど要らなさそうな、太陽の輝きが似合う爽やかな笑顔が、朱華に向けられる。
「そなたたちには、一度礼を言わなければならぬと思っていた。佳燕があれほど思い詰めているとは、知らなかったのでな」
「まあ……」
翰鷹皇子に肩を抱かれた格好で、佳燕は少しだけ苦笑していた。きっと、何度も訴えてはいたのに翰鷹皇子は取り合ってはくれなかったのだろう。
単に寵愛されるだけでなく、夫君のために力を使って支える──朱華と炎俊がそんな在り方を示したからこそ、佳燕も翰鷹皇子に強く主張することができるようになったのだ。
(もっと早くに気付いて差し上げても良かったのに……)
時見の力が弱いこと、にもかかわらず翰鷹皇子の寵愛を独占していることで、佳燕は肩身の狭い思いをしているようだった。
佳燕は怒っていないようだけれど、夫君としては気が利かないことだったと思うと、朱華の目には呆れが浮かんでしまっただろうけれど──翰鷹皇子は、気付かないようで軽く肩を竦めた。
「佳燕を娶りたいと実家の白家に申し出たら、皇太子候補になれば考える、と言われたのだ。だから皓華宮を得て万事丸く収まったと思っていたのに。後から、ほかの娘も、だとか言い出すし、ほかの家もうるさいから困っていた」
「あの──佳燕様おひとりのために皓華宮を……?」
でも、さらりととんでもないことを言われて朱華は目を瞠って口元を抑えた。
皇太子候補になれるのは、数多の皇族の中から選び抜かれた、たったの四人だけ。佳燕を妃にしたい一心でその座を掴むなんて。そういうつもりだったなら、ほかの妃を迎えるつもりがなかったというのも、一応は分からなくもない。
「佳燕様は、本当に翰鷹様に愛されていらっしゃるのですね……」
「翰鷹兄上は、才の割にやる気がないと思っておりましたが。そのようなご事情でしたか」
朱華だけではなく、炎俊も驚きの声を漏らしていた。ただ、その内容がとても失礼だったから、朱華は素早く声を上げた。
「炎俊!」
「構わぬ」
窘めるというよりは、子供や子犬の悪戯を咎める時の口調だったかもしれない。それくらいに、慌ててしまったのだけれど──翰鷹皇子は、おおらかに笑うだけだった。
「そういうことだから、佳燕と穏やかに暮らすことさえできれば、私は誰が皇帝になっても良いのだ。兄上がたのいずれかにお譲りするつもりだったが、恩返しと思えば炎俊でも良い」
「翰鷹。そなたは帝位を何だと思っている」
翰鷹皇子の放言はさすがにやる気がないにもほどがあったらしく、年長の志叡皇子からも苦言があった。けれど、第三皇子に渋面を見せたのも一瞬のこと、朱華と炎俊に向き直った時には、志叡皇子の顔は笑顔に彩られていた。
「まあ、たまにはこんな機会があっても良いだろう。互いに何を考えているか、会わねば分からぬものだ」
「はい。私も、兄上がたには嫌われていると思っておりました」
炎俊は大真面目な顔で頷いたけれど、これもまた率直過ぎる発言だ。朱華はまたも、子犬を制御しようと炎俊の袖を引いた。
「ちょっと、炎俊!」
「何だ、雪莉?」
朱華は慌てているのに、炎俊は何が悪いのかまったく分かっていない様子だ。
「何だ、って──」
怪訝そうな、そして真っ直ぐな目に見つめられて絶句してしまう朱華の耳に、上の皇子たちの笑い声が届く。
「わけの分からぬ奴、とは思っていたかもしれぬ」
翰鷹皇子が言えば、志叡皇子も大きく頷いた。とても力が入った頷きように、これまでの炎俊の振る舞いが察せられる気がして、朱華は頭が痛くなる。
「だが、芳琳の話を聞いてみれば、なかなか面白いことをやっているようだったからな。何も手の内のすべてを明かせとは言わぬが──」
「いえ、何も隠すつもりはございません」
ほら、またしても、だ。炎俊は兄皇子の言葉を途中で遮るという非礼を犯して、朱華の心臓を跳ねさせた。佳燕も芳琳も、驚きと不安の眼差しで彼を見つめる。ただ──翰鷹皇子と、当の志叡皇子は、興味深げな面持ちで末の弟を試すように眺めていた。
例によって周囲の反応には無頓着に、炎俊は堂々と述べた。
「私の望みは、力ある者が正しく力を振るい、昊耀の国を栄えさせること。兄上がたにご賛同いただけるなら、たいへん心強く思います」
志叡皇子と翰鷹皇子は、意味ありげに視線を交わすと、頷き合った。兄弟の間で何を通じ合ったのか──翰鷹皇子は、にやり、と笑った。
「妃だけではなく、そなたもなかなか面白いな……?」
「そうでしょうか」
「ああ、そうだ。今日はもっと面白いところを見せてもらおう」
腑に落ちない表情で首を傾げる炎俊に、志叡皇子も笑いかけた。つられるように笑った妃たちの声を、風がさらっていく。
(何だか、良い雰囲気みたい……?)
肩の力を抜いて、朱華も頬を緩めた。
風は、彼女の結った髪から零れた後れ毛も撫でていく。水面を滑る船が立てる波の音、空を舞う鳥の影や鳴き声。草や花や水の香り──緊張が解けたからか、水辺の麗しい光景が、五感で感じられるようになる。
すでに仲良くなった方々と、初めて会った方々と。今日はきっと、たくさんの思い出ができるだろう。