お出かけの準備
三つの宮の間で慌ただしく書簡が行き交い、行楽の日取りは滑らかに決定された。
いよいよ夏の盛りを迎える季節ということもあって、舟遊びの納涼の会にしよう、ということになった。
行き先は、都の近くを流れる運河だ。天遊林からは、皇子たちは騎上して、妃たちは轎子に乗って船着き場を目指す。皇宮から現れた壮麗な行列に、商人も旅人も皆、畏まって道を開けるだろう。
そして、第二皇子志叡の整えた船に乗り込んで、まずは流れに逆らって上流を目指す。民の暮らしを眺めたり、仙境さながらの山間の景観を堪能した後、帰りは運河の流れに乗って船を駆けさせて、疲れを感じる前に皇宮に戻る──と、大ざっぱにはこのような計画になる。
もちろん、船上では人の目や耳を気にすることなく歓談することができるし、それぞれの宮の厨師は、腕によりをかけた料理や菓子を用意してくれるだろう。水辺や山に咲く花や住む鳥は、天遊林の丹精された庭園とはまったく別の趣があるだろうし、通り過ぎる農村の住人と話がつけば、新鮮な野菜や果物を味わうこともできるかもしれない。深窓の姫君である佳燕と芳琳はもちろんのこと、妓楼と陶家に閉じ込められて育った朱華にとっても、初めての体験が詰まった日になるのは間違いない。
(──つまりは、とても楽しみということね!)
第二から第四皇子と、その妃たちが揃って出かける、その当日──心が弾むあまり、朱華は化粧を終えた紫薇の指先が頬から離れるや否や、跳ねるように椅子から立ち上がっていた。子供のようなはしゃぎように、紫薇がおっとりと苦笑を浮かべる。
「朱華様──どうぞ、お気をつけになって。崩れにくい髪形にはしましたが、大事な簪を水に落としたりなさいませんように」
「お淑やかに、ということよね。分かっているわ……!」
今日も、妃三人はお揃いの夜光の珠の髪飾りをつけて行こうと約束している。佳燕が心を砕いて贈ってくれたものを、出かけた先で失くしてしまうわけにはいかない。
「今日もとてもお綺麗ですわ。二の君様も三の君様も、見蕩れられることでしょう。もちろん、炎俊様はしっかりと守ってくださるでしょうが」
「三の君様──翰鷹様は佳燕様ひと筋なんでしょう? 二の君様も、どうもきっちりした方みたいだけど」
紫薇の褒め方も心配も大げさで、朱華は笑って首を振った。翰鷹も志叡もすでに妃がいるから無用の心配だろうし、そもそも弟の妃を奪うなんて醜聞だろう。
「……でも、仲睦まじいところを見せておいたほうが良いのかしら、ね? あの炎俊も妃を娶って、しかも上手くやってるんだ、って」
妃たちの間では、正論ばかりの炎俊は怖がられ嫌われているようだった。兄君たちも、煙たがっていてもおかしくない。人並みに夫婦生活を送れるということ、社交では朱華が支えることを見せておけば、今後のためにもなるかもしれない。
(恥ずかしいけど……頑張らないと……!)
佳燕様や芳琳様を見れば、些細な仕草や言葉の端々から、ご夫君がたを心から愛しているのが伝わってくる。あのふたりを見習って、炎俊を慕い、案じる健気な姫君を演じなければ、と。朱華は拳を握って気合を入れた。でも──
「……はい。それがよろしいかと思います」
「紫薇?」
紫薇の相槌に、妙に力が入っていない気がして、ゆるゆると拳を下ろす。よく見ると、忠実な侍女の整った面は、憂いに沈んでいるようにも見える。
「ごめんなさい、はしゃぎ過ぎちゃったかしら。貴女も来られれば良かったのに……」
「もったいないお気遣いです。私は、喜んで留守番を務めさせていただきますので」
炎俊と朱華が出かける間、紫薇は星黎宮を守ってくれるという。陶家やほかの宮からの遣いが来たとしても、上手くごまかしてくれる、ということだ。
当然のように、にこやかに引き受けてくれたから、疑問を抱くことなく当日を迎えてしまったけれど──
「本当に……? えっと。今からでも一緒に──炎俊に頼めばどうにかならないかしら」
紫薇も同行したかったのかもしれない、と思って、朱華はおずおずと提案した。でも、紫薇は静かに首を振る。
「実は──私、時見の力を上手く制御することができないのです」
「制御、できない……?」
「朱華様や炎俊様、生まれながらに強い力を持ち、しかも呼吸と同じように操る方々には想像もできないのでしょうが」
いつもと変わらず穏やかで上品な紫薇の微笑に、どこか暗い翳りを浮かべて、紫薇は語った。
紫薇の持つ時見の力そのものは、強い。何年も何十年も隔てた場面を見ることもできるほどに。
でも、何を見るかを選ぶことができない。むしろ、見たくないもの、恐ろしいことのほうが彼女の視界を襲うのだとか。
親しい人の老いた顔に、恐ろしい病や怪我に見舞われる姿。いつかの時代の戦いや、毒を呑んで倒れた者や、無念を抱いて死んだ者。嵐でも火事でも、大勢の人が玩具のように流されたり燃えてしまったり──
「時たま、そういう者が生まれるのだそうです。嫌なものを見るたびに泣いたり叫んだりして暴れるものですから、多くは閉じ込められるか打ち捨てられて一生を終えるのです」
紫薇が侍女として隙のない振る舞いをすることができているのは、厳重な呪で守られた皇子の宮にいるからだ。星黎宮の中にいる限り、過去や未来の災いの光景が彼女を襲うことはない。
「──ですから私は星黎宮を出ては生きていけません。だからこそ、炎俊様も私を信用してくださっているのです」
そういえば、紫薇は庭園でのお茶会にはいつも姿を見せいなかった。今さらながらに気付いて絶句する朱華に、紫薇は小さく笑って目を伏せた。
「楽しい日ですのに、おかしなことを申してしまいましたね。どうぞお気になさらずに」
「紫薇……」
だから置いて行っても構わない、だなんて思うことはできなかった。だからといって、安易な慰めや同情はかえって紫薇を傷つけるだろう。朱華は、必死に言葉を探した。
「何か、お土産を探すわ。話もいっぱい聞かせてあげる。貴女が良ければ、だけど! ……迎えてくれる人がいるということは、嬉しくて安心するものよ。きっと、炎俊もそう思ってると思う」
「朱華様」
紫薇が軽く目を見開いたのが、不快や戸惑いによってではないか、とても怖かったのだけれど──やがて、彼女は柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、存じます」