今日はきっと楽しい日
碧羅宮での茶会から数日後──佳燕と芳琳を星黎宮に招く話は整った。客人を迎えるために、朱華は鏡台の前に座らされている。鏡越しに見る紫薇は、なぜかとても機嫌が良さそうだった。
「星黎宮に、ほかの宮からお客様を迎えるなんて。こんな日が来るとは、思ってもみませんでした……!」
流れるような手つきで朱華の髪を梳きながら、日ごろは控えめな侍女は、歌うような調子で言った。
「そ、そう……?」
まるで、友だちがいない子供に遊び相手ができて安心したかのような、大げさな物言いに、朱華は首を捻ってしまう。
(でも、そうかな……大姐がたのあの調子だと、皇子同士もそんなに仲良くなさそうだし……)
紫薇だって、炎俊の母親や姉のような目線で言っているのではないだろう。
主の勢力は、使用人の立ち位置にも影響するものだ。妓楼でも、誰が売れっ子だとか落ち目だとかで勢力図は変わってくる。後宮ならなおのこと、主の立場が不安定だと、使用人は肩身が狭いどころか命の危険を感じることだってあるかもしれない。
「あんなご主人で、貴女たちも大変だったんじゃ……?」
「それは──でも、皇上の予言を信じておりましたから。それに、大した力もない身を、この宮に置いていただいた御恩がありますし……」
紫薇は大きく首を振ったけれど、言い訳のように述べた言葉はかえって朱華の懸念を裏付けた。空気を読んだり方便を使ったりをしない炎俊のこと、星黎宮の使用人たちは、これまで不安な思いをしていたのだろう。
(皆のためにも、もっとしっかり、って言っておかないとね)
後でお説教を、と心に留めてから、朱華は鏡の中の紫薇に微笑みかけた。
お客様を迎えるための身支度は、いつもよりも時間が掛かる。この機会に、この侍女ともっと話をしておきたかった。
「ねえ、紫薇にも何かの力があるの?」
「宮女をしていた母が、さる尊い御方のお情けを受けたとのことで──といっても、本来ならとうてい皇宮に留まれるほどの力ではなかったのですが」
「ふうん……」
何の力か言わないのは、簡単に人に明かさないのが礼儀なのだろうか。紫薇の母君も、何やら委細ありげで立ち入ったことは聞きづらいし。
紫薇が髪飾りを選ぶ間、朱華は次に何を言うべきか、しばらく考え込んだ。
「えっと。星黎宮も、ずっと妃が私だけってわけには行かないと思うんだけど、紫薇は──」
「とんでもないことですわ! 私には分不相応なことです」
口では強く否定しながら、紫薇はどこまでも優しい手つきで朱華の髪に絹で造った躑躅の花飾りを挿した。燃えるような花の色は、やはり彼女に似合う、と思う。
「私のような者は、これ以上生まれてはいけませんもの。私は、侍女としてお仕えするだけで十分幸せなのです」
朱華の髪を整え終えた紫薇は、今度は彼女の正面に回って微笑んだ。次は、化粧に入るのだ。顔に触れる紫薇の指先は、ひんやりとして心地好い。
(私のような者って……ずいぶん卑下するのね。力の有無や強弱で人の価値を決めるなんて……)
言いたいことも聞きたいことも、まだまだあったのだけれど。唇に紅筆が近づくと、口を開くわけにはいかなくなってしまう。だから、紫薇とのやり取りは中途半端なところで終わってしまった。
* * *
佳燕と芳琳は、ほぼ同時に星黎宮に到着した。西の皓華宮と南の辰緋宮と、それぞれ北の星黎宮との距離は違うのだろうけれど、楽しみにして時間ぴったりに参上してくれたのだろうな、と感じる。迎える朱華としては嬉しいし、おもてなしにも気合が入る。
二台の轎子から声が響くのも、ほぼ同時だった。ひとつは淑やかに、もうひとつは弾んで軽やかに。
「雪莉様、お招きいただき、誠にありがとうございます」
「雪莉様には赤が似合うのですね。とてもお綺麗です! 辰緋宮にもおいでいただきたいですわ」
佳燕の微笑は今日も優美だったし、率直な賞賛をくれる芳琳は可愛らしい。先日とは違った楽しい会になる予感に、朱華の頬も緩む。
(辰緋宮はやっぱり赤いのかな? 南の色だものね……)
まだ見ぬ第二皇子の宮の煌びやかさを思い浮かべながら、朱華は歓迎の想いを込めて、丁寧に拱手した。
「おふたりとも、ようこそお出でくださいました。炎俊様も、お待ちしていらっしゃいましたのよ」
これは、お世辞なんかではない真実だ。何しろ、下々のように力を振るうのを嫌い、市井育ちの皇子を見下しているとばかり思っていた妃たちの中から、話を聞きたいという方々が名乗り出てくれたのだ。炎俊は、それこそ初めて友だちと遊びに出かける子供のように、明らかにうきうきとしていた。
(でも、例の調子で捲し立てたら、おふたりが怯えちゃいそうだから──)
最後まで楽しく和やかな席にできるよう、一応の手は打っておいたのだけれど、果たして成功するかどうか。少し緊張しながら、朱華は客人ふたりに微笑みかけた。
「庭に、席を用意しましたの。広いところのほうが、気兼ねをしなくて済みますでしょう?」
佳燕と芳琳を案内したのは、先日、炎俊と永州の遠見をした四阿だ。睡蓮の花がまだ盛りなのが理由のひとつ。そしてもうひとつは、力の使い方の話をするなら、呪の施されていない屋外が都合が良いからだ。
さらには、ほかの皇子の妃と炎俊が会うことで、醜聞の種になってはいけない。
帝位を狙う競争相手とはいえ、義理のきょうだいで家族同然の間柄なのだから、本来は会ったところで何の問題もないはずなのだけれど──なるべく隙を見せないに越したことはない。壁もない、傍から丸見えの四阿で不貞なんてとんでもない、ということにしておいたほうが良いだろう。
庭が近づき、水と緑の瑞々しい香りと気配が感じられるようになったころ──朱華の背後から聞こえるふたつの足音が、少し重く、遅くなってしまった。佳燕と芳琳の、小声での囁きも聞こえる。
「……私、緊張してきましたわ」
「私も。炎俊様は、これまでは式典の時などに遠目にお見かけするだけでしたから……」
皇族のくせに積極的に平民を登用し、妃までもこき使う気満々だという炎俊に、教えを乞おうというのだ。控えめな佳燕や、幼い芳琳が怯えるのも無理はない。
客人の緊張を解すべく、朱華はくるりと振り向いて明るく言った。
「我が君の評判は、想像がつきますわ。恐ろしい、厳しい方だと思われていらっしゃいますのね? でも、心配はご無用ですわ。お願いしていたお土産は、お持ちしていただけましたのよね?」
「え、ええ」
「もちろんですわ……!」
佳燕と芳琳がこくこくと頷いたところで、視界に眩しい光が差した。戸外に出たのだ。太陽の光が木々の緑を輝かせ、池の水面を渡る爽やかな風が、心地好い涼気を届けてくれる。
麗しい風景の中、凛と立って妃たちを迎える炎俊もまた、見た目には麗しい貴公子だった。
「佳燕義姉上、芳琳義姉上。親しくお話する機会をいただき、嬉しく思っております」
「こ、こちらこそ……」
「星黎宮にお招きいただき、光栄ですわ」
礼儀正しい微笑と口上に、佳燕と芳琳もややぎこちなく挨拶を返す。朱華がしつこく言い聞かせた甲斐あって、第一印象はそう悪くないようだ。……では、次の手を打つ時だ。
「おふたりから、炎俊様にお土産があるそうですの。ね、佳燕様、芳琳様!」
朱華の目配せに応えて、佳燕と芳琳は侍女に携えさせていた包みを炎俊に献上した。
「月餅でございます。餡に南国の果物と、香辛料も使っておりますので、珍しくて華やかな味わいかと──」
「桃の蜜漬けの蛋糕です。辰緋宮には、桃林がございますから」
説明しながら、ふたりの視線は不安そうに朱華を窺っていた。それぞれの宮で自慢の甘味を持参して欲しい、と言われたものの、こんなもので良いのだろうか、と思っているのだろう。でも──
「ありがとうございます。私は、甘いものに目がないのです」
朱華が思っていた通りだった。
炎俊は、輝くような満面の笑みでお土産の菓子を受け取った。最初の社交的な微笑とは打って変わった、心からの嬉しそうな笑顔だ。声も、明らかに弾んでいる。
「そ、そうでしたの……?」
「あの、本当に美味しいのです。お気に召すと良いのですが……!」
怖と思って構えていた相手の、子供のように無邪気な姿を見せられて、佳燕も芳琳も自然な笑みを浮かべていた。
(厳しい皇子様が甘いもの好きだなんて、思わないもの。隙を見せると落差で気を許してもらえるのよ……!)
花街で見て覚えた手管が成功したのを見て取って、朱華は内心で快哉を上げた。炎俊に勧められて席に着く佳燕と芳琳の所作からは、ぎこちなさが消えていて──今日は、楽しい会になりそうだった。