幕間 峯の疑い
黒を基調に、絢爛な装飾が施された星黎宮は、その名の通り、星が散りばめられた夜空を思わせる、荘重かつ美しい宮殿だ。
東の碧羅宮は、青。南の辰緋宮は、赤。西の皓華宮は、白。そして北の星黎宮は、黒。
皇太子候補の四人の皇子に与えられる宮は、それぞれの方位に対応する色で飾られている。宮の主の立場に相応しく、皇帝と皇后の住まいに次いで皇宮の中でも格式高く、壮麗な──とても、特別な殿舎だ。
その特別な宮のひとつに、今は「陶家の雪莉姫」が迎えられている。それも、ただひとりの妃として。相手が市井出身の炎俊皇子なのがやや危ういが、陶家にとってはたいへんな名誉である。
陶家に仕えた峯にとっては、妓楼育ちの下賎の娘を鍛え、躾けた甲斐があるというものだった。「雪莉姫」の監視役──表向きは相談役──として、彼女も星黎宮に入る気満々だったし、妃の側近兼皇子の外戚への窓口には、敬意が払われるものと疑っていなかった。
だが──
「なぜです。なぜ、この私が雪莉様についていて差し上げられぬのですか!?」
なぜか、最初の夜に星黎宮に送り届けて以来、峯はあの娘に会えていない。豪奢を極める宮の内部をじっくり眺めることが許されないのは不満だし、何より、あの生意気な娘を野放しにしておくことなど思いもよらない。
「碧羅宮へのお招きも、勝手に承諾されたと──お衣装や髪形のお手伝いをしなければならなかったし、心構えもお伝えしたかったのに……!」
あの娘が、碧羅宮での妃たちの茶会に出席したと聞いて、峯は卒倒するような気分を味わった。
遠見の力に加えて、あの娘の見た目の良さも機転も認めざるを得ないが、時に反抗的な顔つきをするのをかねてから懸念していたのだ。
宋凰琴を始めとした手強い妃たちの機嫌を損ねぬよう、立ち回りには最新の注意を払わねばならないのに。陶家の姫としていかに振る舞うべきか、改めて叩き込んでおきたかったのに。
「陶妃様の身の回りのことは、何もかも私が滞りなく整えさせていただいております。ご実家の方々のお手を煩わすことはございません」
なのに、紫薇とかいう若い侍女は、きっぱりと言い切って峯を宮の中に通そうとしないのだ。皇子に仕えるだけあって顔かたちは整って、所作も優美そのものだが、だからこそ傲慢さや冷ややかさも感じられて気に入らない。
(年寄りだと思って侮っているのか。陶家の後ろ盾は、炎俊皇子にとっても大事だろうに……!)
峯が睨んでも、紫薇の微笑は揺らがない。皇子に仕える侍女に怒鳴りつけることなどできないのを、見透かされているのだろう。
「ですが、馴染んだ者がいなくては、雪莉様もお寂しいかと……!」
「陶妃様とは、もう親しくお言葉を交わしていただいております。年が近い者同士、気安いと思ってくださったのかもしれません」
「お若い方々だけでは目の届かないこともおありでしょう。うるさいとはお思いでしょうが、年寄りもいたほうが──」
「炎俊殿下の思し召しでもございますので。おふたりきりで過ごされたいのでしょう」
必死の思いで食い下がっても、皇子の意向を持ち出されてはなす術がなかった。ぎり、と歯軋りして押し黙る峯に、紫薇は勝ち誇ったように──彼女にはそう見えた──微笑んだ。
「ご心配は無用です。碧羅宮ではお話が弾んだとのことで、辰緋宮と皓華宮のお妃がこの宮を訪ねてくださることになりましたから」
「まさか、そのような──」
星黎宮に、というか、炎俊皇子にわざわざ近づこうとする妃がいるとは信じがたくて、峯は目を瞠った。
(それは、何かを企んでのことなのでは? 碧羅宮の方々は見過ごしてくださるのか?)
あの娘が何かしでかせば、陶家にも累が及びかねない。否、むしろあの娘は報復として陶家を道連れにしようとしているのかも。何より──
(これ以上の勝手を許せば、計画が台無しではないか……!)
疑い焦るあまり、峯は目の前の紫薇のことを束の間忘れていた。
「……ということですので、今日のところはお引き取りくださいませ。御用があれば、陶妃様からご連絡なさいますでしょう」
思い出したのは、有無を言わせぬ笑顔で帰れ、と言われてからのことだった。
(小娘が……!)
かつてあの娘にしたように、鞭で打って思い知らせてやれれば、と思うが──無論、できない。峯にできるのは、不信と不満と苛立ちとを、声と眼差しに込めてあて擦ることくらいだ。
「炎俊殿下が、雪莉様をそれほどお気に召してくださるとは光栄でございます。お立場も評判も考えられぬほどに、陶家の気遣いを退けるほどに独り占めされたいとは! そのようなご意向にも従わねばならぬとは、仕える方々もご苦労なさいますな!」
「私は、炎俊様に忠誠を誓っておりますので。その炎俊様が選んだ御方にお仕えすることも、心から嬉しく思っております」
紫薇は、さらりと述べると文句のつけようもないほど優雅な所作で一礼した。嘘を言っているようには見えないが──揺るぎない声は、かえって峯に疑念を抱かせた。
(この女は例の予言を信じているのか? 皇宮の中でもまともに信じる者はごく少ないのに?)
雪莉姫を嫁がせた陶家でさえ、大穴に賭けた、くらいのつもりであるのに。炎俊皇子に忠誠を誓う者がいるなど、にわかには信じがたかった。
それだけではない。不審な点はまだほかにもある。
(炎俊皇子は、本当にあの娘をそれほど気に入ったのか? 外戚に陶家の力を望んだのではなく? 下々の生まれ同士で、よほど馬が合ったのか?)
考えるほどに、何かがおかしい、と思った。だが、それらの疑問を紫薇にぶつけたところで、正直な答えが返ってくるはずもない。
「もったいないお言葉です。では──雪莉様を、どうぞよろしくお願い申し上げます」
「はい、もちろんでございます」
なので、峯はこの場では大人しく引き下がることにした。丁寧に拱手の礼をすれば、紫薇は安堵したように返礼した。
(調べねば。この女のこと、星黎宮の内情について。下賎の小娘の思い通りにさせてなるものか……!)
陶家は栄えなければならないし、雪莉姫は高い地位に上らなければならない。……そのためには、手段を選んではいられない。
決意を胸に、峯は星黎宮を後にした。