あんたを皇帝にしてあげる
興奮を鎮めるため、朱華はほったらかしにしていた茶器を口に運んだ。茶はとうに冷めきっていたのが、かえって好都合だった。
すっかり乾いていた喉を潤して、ようやく落ち着いたところで、しみじみと言う。
「碧羅宮で、大姐がたに言って差し上げたの。我が君様のお求めにお応えできるなら光栄、って。……正直、売り言葉に買い言葉だったんだけど、言っておいて良かったと思うわ」
朱華に自由をくれるなら。彼女を閉じ込めていた鳥籠の扉を開けて、広い世界に連れ出してくれるなら。
「嬉しいことを言ってくれる」
永州までの遠見は、炎俊にとってもそれなりの大事だったらしい。疲れを取ろうというのか、残っていた砂糖菓子を口に放り込みながら、彼は笑った。
珍しいほど素直な朱華の言葉が、嬉しかったりもするのだろうか。菓子を噛み砕く軽やかな音が響いた後、炎俊は熱っぽく語り始めた。
「今は永州で試験的に施行しているだけだが、上手く行ったら昊耀の全土に広げるよう、皇上に進言するつもりだ。貴族の家々は、自領を統治する術を秘匿しているからな。だから効率が悪いのだ」
「……どういうこと?」
炎俊にすべて食べられてしまう前に、菓子をひとつ確保しながら、朱華は首を傾げた。
遠見や時見の目印として石碑を置いておく、というのは良い考えに思えるけれど。名家と呼ばれる方々は、これまでその方法を思いつかなかったのだろうか。
「そうだな。例えば──」
知らなかったのか、と言いたげに目を瞬かせながら、炎俊は続ける。語りたくてたまらない話題らしい。
「罪人が逃げ込みそうな洞窟だとか谷間だとか。ここまで増水したら危ない、という堤防に、春の訪れを告げる花が蕾をつける枝──そんな知識を集積しておけば、治安の維持にも民の営みにも何かと便利であろう? だが、古くからその地を収める家は他者には漏らしたがらないから──」
旦那様が楽しそうなのを、妻としては喜べば良いのかもしれないけれど。朱華は、どこまでも続きそうなご高説を、ずっと聞いてはいられなかった。頭を抱えて、卓に突っ伏しながら、呻く。
「……あんたが嫌われてる理由もよく分かったわ」
「碧羅宮での話か? 義姉上がたは何と?」
「今よ、今! 貴族の昔からのやり方に口出しするなんて、嫌がられるに決まってるでしょ!」
炎俊が言った秘訣とやらは、たぶん、それぞれの一族が子孫だけに教える情報だ。余所者にはそれを教えないことによってこそ、彼らは権力を保っているのだろうに。彼の政策は、先祖代々受け継いできた財産を取り上げるのも同然、反発があって当然だった。
「だが、効率的な統治によって領地が栄えれば、貴族も利益を得るではないか」
朱華にも分かるていどのことなのに、炎俊は怪訝そうに眉を寄せている。彼の不満げな顔に、朱華は思わず指を突き付けて喚いていた。
「少しずつとか根回しとか、色々あるでしょ! あんたのことだから、上の皇子様がたや大姐がたにも、きりきり働け、とか言ったんじゃないでしょうね……?」
「そうだが?」
そんなはずはないでしょうね、の意味を込めての問いかけだったのに。何も分かっていない顔つきのまま、炎俊はあっさりと頷いた。
(こんなのと一蓮托生なの……)
遠見の《目》を酷使しただけではないどっと疲れが押し寄せて、朱華は目を閉じて額を抑えた。暗く閉ざされた視界にある思い出が浮かんできて、そっと息を吐く。
「そういえば、あんたって昔からそうだったわ……!」
「何の話だ?」
「人の気持ちが分からない、って話!」
まだ、ふたりともが花街にいたころのことだ。妓楼の店先の掃除を命じられた炎俊が、頑なに首を振って従わなかったことがあった。
『明後日には雨が降るのだから必要ない』
時見で知ったのだろうから嘘ではなかったのだろう。でも、もちろん妓楼の者には怠けようとする口実にしか見えなかった。それで叱られても殴られても、炎俊は頑として「無駄なこと」をしようとはしなかったものだ。
……たぶん、貴族や皇族の反発を避けたり妃たちを懐柔したり、も、炎俊にとっては「無駄」なのだ。
(……だから私、もっと上手くやらなきゃ、って思ったんだったわ……)
朱華のほうが年下だったのに。炎俊を放っておくと危なっかしい、と思ってしまったのだ。もっと人が耳を傾けたくなるような話の作り方や持って行き方や立ち居振る舞いを、考えてやらなければ、と。
あの時の使命感というか義務感が蘇って──抗えないのを悟って、朱華はもう一度溜息を吐いた。降参、の意味だ。
「分かった。どうせ、もう逃がしてはくれないのよね? あんたを皇帝にしてあげる。そのために尽力してあげるわ。その代わり、皇后になったら贅沢三昧させてよね!?」
「うん。そなたの願いも忘れていない。──朱華」
炎俊は、優秀ではあるのだ、本当に。律儀でもある。朱華が口にした願いを真に受けて、忘れないでいてくれるていどには。
(どうせ、呼び方ひとつで機嫌を取れるなら安いもの、とでも思ってるんでしょうね……)
なのに、嬉しいと感じてしまうのは。胸が高鳴って、頬が熱くなってしまうのは。絶対に、不覚、というやつだった。
(夫婦なんだもの。名前を呼ばれたくらいでいちいち照れてたら、身が持たない……!)
不本意に上がってしまった熱を、首を振って追い払って──朱華は、思い出した。昼間のお茶会の後での出来事、佳燕や芳琳と話したことを。
「ねえ。永州で試してるのって、時見や遠見だけ? 水竜や……闘神の力については、何かやってないの?」
「考えていないわけではないが──どうした、急に」
炎俊にとっては急な話題だっただろうに、それでも生真面目に応えてくれた彼は、やはり律儀だった。冷静な表情も、いつも通りだったけれど──朱華の報告を聞けば、さすがに少しは驚くのではないだろうか。
「私も、碧羅宮でちゃんと仕事をしてきた、ってことよ」
第一皇子の妃の凰琴と、言葉で殴り合ってきただけではない。もっと実りのあることを話せた方々も、いるのだ。
(あんたのやってることに興味を持ってくれる姫君なんて、貴重でしょう?)
得意な思いに、頬が緩むのを感じながら、朱華は胸を張って告げた。
「あんたの話を詳しく聞きたい、って方々がいるの。皓華宮の佳燕様と、辰緋宮の芳琳《様──星黎宮にお招きしても、良いかしら!?」