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大空を飛ぶ鳥のように

 彼女の手を握る炎俊(えんしゅん)の指先の熱に、朱華(しゅか)は狼狽えた。闘神──怪力の力を持つ芳琳(ほうりん)とはまた違う、男ならではの力強さも落ちつかない。それに、彼は今、何と言っただろう。


「見に行くって──今から!? どこに!?」

「我が領地、永州(えいしゅう)だ。早く。暗くなる前に」


 炎俊が当然のように述べた、領地、という言葉についてはまあ分かる。


 四つの宮の皇子たちを競わせて次代の皇帝を選ぶのが昊耀の倣い。とはいえ、古の御代ならまだしも、皇子たちが軍を率いて戦うようなことはもうしない。

 身内の争いで尊い血を流すくらいなら、国を富ませるような方法で行われるべきだと、いつの頃からか考えられるようになったらしい。そして落ち着いたのが、皇子たちのそれぞれに領地を与え、いかに富ませるかを見る、という今のやり方だ。


 そこで炎俊に割り振られたのが、永州という地らしい。でも、問題はそこではなくて──


「その永州ってどこにあるのよ。私、帰ったばかりなのに!」


 皇子の領地は皇都からそう離れてはいないはず。とはいえ、皇子の外出には面倒な手続きや準備が必要ではないのだろうか。朱華も、気の張るお呼ばれの後でゆっくり休みたいところなのに。

 でも、炎俊はこともなげに笑う。


「何のための遠見の目だと思っている?」


 つまりは、実際に移動するのではなく、遠見で()()()()、という意味らしい。


「でも。行ったこともないところを()()なんて──」

「大丈夫だ」


 炎俊の手に力がこもり、朱華の頬が熱くなった。自信たっぷりに請け合う、頼もしい──そして綺麗な笑みに絶句するうち、彼は続ける。


「陶家の屋敷の場所は分かるな? 皇宮との位置関係も。皇宮の外に広がる皇都の街並みを越えて、建祥門――北の城門の向こう。街道を辿って進め。鳥になったような気で」

「う、うん……!」


 皇宮。都。城壁を出て、北へ。

 炎俊に言われるがまま、朱華は遠く、遠くへと()を向けた。それこそ大空を飛ぶ鳥のように。

 これほどに遠くの景色を視ようとしたのは初めてだったけれど、そこに視るべきものがあると教えられれば、視線を届けるのは容易かった。


 目の前の庭を見渡すのと同じことだ。木の枝に止まった小鳥、葉の影に隠れた蝶――一度そこにいると気付けば、見過ごしようもない。それと同じように、今まで見ていなかった世界があると、炎俊の言葉が教えてくれた。


(あ、面白い……!)


 眼前を覆った幕が次々と取り払われて、世界が広がっていくかのようだった。目の前の池も睡蓮も茶も菓子も、もはや意識になく、朱華の《目》は遥かな外を追う。壮麗な皇宮を出て、下々が暮らす街並みを通り過ぎて。城門を出た先は、朱華が直に見たことがない景色だ。


 皇都へ入ろうとする者、これから出て行こうとする者。城門が閉まる日没が間近だからか、皆急いでいる。

 あるいは荷を背負い、牛や馬に車を曳かせて。馬車や牛車の荷台に積まれたか樽やら箱やらは何かしらの商品だろうか。薄汚れた衣服で汗を拭う御者の横を、金持ちの物見遊山なのか瀟洒な輿が通り過ぎる。


 遠見では音を聞くことはできなくても、城門の辺りの喧騒や賑わいはよく分かった。皇都は旅の始まりか終わりの場所だから、(たむろ)する人々の顔は明るく、彼らのしきりに動く口が紡ぐのが明るい言葉だろうと容易に思い浮かべることができるから。


 朱華のそれを握る炎俊の手に、少し力が篭った。市場で目移りして、ふらふらとさ迷って迷子になりそうな子供を御するかのよう。


「青い(かめ)を積んだ牛車がいるのが視えるか?」

「ええ。白い髭のおじいさんと――孫かな。ふふ、男の子が草の葉を振り回して……」


 とはいえ、浮かれている自覚はあるから、子供扱いでも今はそう気にならない。むしろ、炎俊とふたりで皇都の城門辺りを散策しているような感覚は楽しかった。同じ《力》を持つ者と同じ光景を視るのも、彼女には初めてのことだった。


「南方の酒を仕入れた帰り道かな。完全に暗くなる前に、最寄りの村まで進むつもりだろう。彼らが進む方向が永州だ」

「白い石碑が続いている方?」


 街道の脇に、人の腰の高さほどの石碑が立っている。その方向に《目》を向ければ、肉眼ならば見えるか見えなくなるか、くらいの距離にまたひとつ、同じような白が見える。そして視界の果てるあたりに、またひとつ。

 街道に沿って並ぶ石碑の表面には、数字が順番に彫りつけられている。皇都から離れるほど大きくなる数字は、まるで――


「これは、目印なのかしら?」

「そうだな、旅人にとっても、遠見にとっても。石碑に目が追いついたら、次を探せ。そうして辿るうちに永州に着く」

「分かったわ」


 炎俊の言葉は本当だった。城壁の外の世界はあまりに広くて、漫然と見渡すだけではどこに焦点を当てれば良いか分からなくなってしまっただろう。でも、街道に加えて石碑という標があれば分かりやすい。

 旅人や商人を追い抜いて、川を越え丘を登り、豊かな緑や道端の花、草を食む牛や羊の群れも目に留めつつ、途中の小さな村や町の暮らしもちらりと眺めて――そうして、石碑の数が二十を越えた頃に、朱華はやっと辿り着いた。


「『永』の字の旗が立つ城門――この先が、永州、なのね?」


 尋ねると、炎俊が手を握ったまま笑う気配がした。すぐ傍らにいるのに、今の朱華には遠い。彼女の《目》は、遥かな地を見ているから。炎俊もきっと同じだろう。


「そうだ。日没にはまだ間があるな。我が領を案内してやろう」


 肉眼でも遠見でもない幻の光景が、朱華には見える気がした。一歩先を進む炎俊が、彼女の手を引いて振り返りながら微笑むのだ。もしかしたら、夫婦での小旅行とか散歩とか、そんなものに相当するのかもしれなかった。


 朱華と炎俊は、しばらくの間永州を「旅」した。

 もちろん、遠見の目をその地に遊ばせたというだけで、ふたりの肉体は皇宮の一角にとどまったままだけど。

 見たことのない花の香や、皇都とは違う訛りの声、木々の葉が揺れる音、その地に吹く風──そんな、目に見えないものまで感じた気がして――とても、楽しかった。


「あの畑では何を育ててるの? 穀物……麦かしら」

「ああ、そなたは収穫など見たことがないのか。そうだな、麦は夏に実るものだ」

「あれは、漁船かしら。これから出るところ? もうすぐ夜なのに?」

「篝火で魚をおびき寄せる方法があるそうだ」

「へえ……どんな魚が取れるのかしら」

「庶民の料理は、私も食したことがないな。今度取り寄せるか……そのうち実際に行くことができれば良いが」

「うん……」


 実際に歩いている訳ではないとはいえ、長い時間遠見の力を揮い続けるのは心身の負担になるものだ。朱華の相槌は、溜息混じりの力ないものになった。


「まあ、今日はこのくらいで良いだろう」


 彼女の疲れを読み取ったのか、炎俊はそっと手を離した。


(……戻らないと。目の、焦点を合わせて──)


 軽く目を閉じ、息を整え、意識を永州からこちらに戻す。そしてまた目を開けると――満足げに微笑む炎俊が、間近に微笑んで朱華を見下ろしていた。

 ずっと握り合っていた手が解かれる。温もりが去ってしまうのが、なぜかとても寂しかった。


「私がやろうとしていることのひとつが、あの石碑だ。遠見の力が弱い者でも、()()があれば場所の特定が比較的楽になる。時見については、例えば暦に従って違う色の旗でも掲げておくとか──」


 炎俊はとても大事な話をしようとしている。皇太子候補として、彼がどのような政策を考えているか、効率的な力の使い方について。力の弱い者のための施策は、佳燕(かえん)が欲しているものでもあるはずで、そこも詳しく聞かなければ。


「ねえ」


 でも、真っ先に朱華が追及したいのはまた別のところだった。


「さっき、実際に行く、って言った? 妃でも、後宮の外に出られるの!?」


 性急に遮られて、炎俊は軽く目を見開いた。


 永州を()している間に、辺りはすっかり暗くなっていた。

 濃紺の空には星がちりばめられ、それが池の水面にも映って銀砂の煌めきに囲まれているよう。その、仄かな明かりに浮かび上がる炎俊の顔は、昼間とも閨の暗さの中とも違った風情がある。どこか色気さえ漂わせる整った顔が、不思議そうに傾いた。


「むしろ、来てもらわねば困る。私は妃を後宮で遊ばせておくつもりはないのだ」

「だって私……花街でも陶家でも自由に出歩くなんてできなかったんだもの!」


 戸惑いと憧れ、期待と疑いの間で揺れる朱華の想いを、炎俊が理解できたとは思えない。今までの人生で籠の鳥同然だったからこそ、炎俊に示された広い世界に惹きつけられるのだ、と。

 でも、とにかく。朱華の夫はにこりと笑うと彼女の頭をぽんと撫でた。例によって犬や猫の仔を撫でるような手つきではあるけれど、とりあえずは優しい仕草だった。


「ならば良かった。これも褒美のひとつになるのかな」

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