初めてのお誘い
佳燕──皓華宮の第三皇子の寵愛を一身に受けているという美姫は、その立場には似つかわしくないおずおずとした手招きで、朱華を槐の大木の陰に導いた。怖い大姐たちに見つからないように、ということらしい。
何となく足音を殺した朱華が完全に木陰に入るや否や、佳燕は深々と頭を下げた。髪に飾った金銀の歩揺が、しゃらん、と澄んだ音を立てる。
「雪莉様……あの、先ほどはありがとうございました。私を庇って、凰琴様にあのような──」
「い、いいえ。私は、思いのままに語っただけで……我が君様のためにも、黙っていられないところでしたから」
佳燕の目には、ずいぶん美化されて映っていたらしいのを知って、朱華は慌てて首を振った。
(売られた喧嘩を買ったようなものだったし……)
凰琴の言い分は無礼ではあったけれど、正面から言い返した朱華だって褒められたものではなかったと思う。なのに、佳燕は何かとても眩しいものを仰ぎ見るような眼差しで、しみじみと言う。
「雪莉様は、とてもお強い方ですのね。陶家の姫君は優れた遠見の目をお持ちだと、皓華宮にまで評判が届いておりましたわ」
皓華宮は、天遊林の西側にある第三皇子の住まいだ。碧羅宮の青、星黎宮の黒の流れなら、月のように白く輝く宮殿なのだろう。とにかく、妃は佳燕ひとりだというその宮にも聞こえるくらい、「陶家の雪莉姫」の噂は広まっていたらしい。
(やり過ぎたのかな……?)
もちろん、皇子の目に留まるようにと、力を見せびらかしてはいたのだけれど。妃たちの間で、しかもこんな風に尊敬らしき思いのこもった目で見られようとは思っていなかった。だって──皇子や妃なら、あのていどの遠見は驚くようなことでもないだろうと思っていたから。
恥ずかしいような、居たたまれないような。熱くなった頬を抑える朱華に、芳琳──第二皇子の辰緋宮に仕える怪力の少女も。華奢な拳を握る。
「辰緋宮でも、雪莉様のお噂でもちきりでしたわ! わ、私……もしも我が君様が雪莉様をお迎えになったら、ますますお目に留まらなくなるかもと、恐れていました……!」
「まあ……」
芳琳の初々しい頬は、赤くなったり青くなったりと忙しい。たぶん、朱華を褒めてくれているつもりではあるのだろう。その上で、競争相手が増えなかったことを喜んでいるらしい。
「それでは、私が炎俊様に見初めていただいたこと……芳琳様にはお喜びいただけたのでしょうか。もしもそうなら、嬉しいですわ」
年下の少女を宥めるつもりで、朱華はなるべく優しく微笑んだ。淑やかな「雪莉姫」を演じながら、心の中で叫ぶのはまったく別のことだ。
(炎俊に先に見つけてもらえて良かった……!)
たった一度のお茶会で嫌というほどよく分かった。複数の妃がいる宮の人間関係は、とても面倒臭そうだ。大勢の大姐の機嫌を窺いながら暮らすよりは、炎俊に脅されながらこき使われるほうがまだマシだ。何しろ、炎俊には遠慮なく素で怒鳴ることができる。
「……最初は、申し訳ないことだと思っておりました。だって、星黎宮の御方はお妃にたいへんなことをさせようとしていると、噂になっていましたから」
朱華の内心など知らない芳琳は、可愛らしい顔を曇らせている。平民のような仕事をさせられる──と思われていた──朱華の心配をしてくれたなら、この方も優しいと思う。
「でも……雪莉様のお話を伺って、とても無礼な誤解をしていたのだと分かりました……!」
「と、仰いますと……?」
控えめな微笑が似合う佳燕に対して、芳琳は表情をくるくるとよく変える。しょんぼりとした風情から一転して、何だか気合に入った面持ちになったのはいったいなぜなのか──少し警戒しながら促した朱華に、芳琳は軽く背伸びして訴えてくる。茶器を砕く怪力とは裏腹に、小柄な少女なのだ。
「炎俊様は、雪莉様の力を頼りになさっているとのこと。そして、雪莉様もそれを光栄なことだと──それは、とても素敵なことだと思いましたの」
「ああ……先ほど、芳琳様が応援してくださって、とても嬉しく思いましたわ」
あの空気の中で声を挙げるのは、とても勇気がいっただろうに。凰琴に歯向かってまで、そんなことができたのは──
「芳琳様も、旦那様のお力になりたいのね?」
「はい……!」
はにかんで、耳まで赤く染めて俯く芳琳は、それは可愛らしかった。年下の少女の恋する姿が微笑ましくて、朱華の頬も綻ぶ。
「あの、私は大きな石を持ち上げるとか、鉄の棒を曲げるとか、そんなことしか披露できないので……父や兄たちは名高い武人ですのに、辰緋宮の大姐がたには分かっていただけないのが悔しくて……!」
「……その、お察し申し上げますわ……?」
……もじもじと組み合わされる芳琳の指先は、そういえば朱華の身体を軽く粉砕できる力があるのだった。何となく、一歩引いて距離を取りながら。佳燕の表情も窺いながら、朱華は慎重に相槌を打ったのだけれど──芳琳は、素早く進み出ると、朱華の手を取った。
「雪莉様。私を星黎宮にお招きいただけませんか……!? 炎俊様は、私のようなものにも使い道を教えてくださるでしょうか。もちろん私は、我が君様のためだけに力を振るうつもりです。でも、昊耀の国のためにもなることだと思いますし、どうか……!」
「痛ったあぁ!」
恐れていた通り、華奢な指先に似合わぬ怪力で思い切り手を握りしめられて、朱華は悲鳴を上げた。
「あっ、ご、ごめんなさい……! つい、力が……」
幸いに、芳琳は慌てて手を放してくれたから、痛いだけで済んだけれど。指を開閉させて感覚を確かめる朱華に、今度は佳燕が口を開く。こちらも、繊細な面に何かしらの決意の色が浮かんでいる。
「私も。力ない身で皇子殿下にお仕えしているのが申し訳なくて……ほかの宮の方々に我が君が侮られるのも悔しくて、でも、ほかのお妃も迎えるようにお願いしても、翰鷹様は聞き入れてくださらなくて」
「それは……御心が休まらないでしょうね……」
まだじんじんと痛む手をさすりながらだったから、朱華は何を言われたのかよく分かっていなかった。芳琳の先ほどの表明についても同じく、だ。
(お招き、とか言ってたっけ? あれ……?)
そういえば、何だか大事になりそうなことを言われたような──でも、はっきりと認識する前に、佳燕の潤んだ眼差しが縋ってくる。
「私も、芳琳様と同じ想いです。……芳琳様のお顔を見ただけで分かりましたの。だからこうしてお声をかけさせていただきました」
ここで、芳琳が大きく頷いた。今までさほどの交流もなかっただろうに、このふたりは視線だけで何かを伝え合ったらしい。
「平民も登用しているという炎俊様なら、私のような者にも役目を与えてくださるのではないでしょうか。とても不躾なお願いとは思いますけれど、お縋りさせていただきたいのですわ……!」
「あ、あの! 私も、炎俊……様、からは具体的なことは聞いていなくて……」
何だか、とてつもなく大きな期待を寄せられていることにようやく気付いて、朱華は悲鳴のような声を上げていた。
(ほかの皇子様のお妃を、お招きして大丈夫なの? 炎俊は何て言うかしら。警戒したほうが良い? このおふたりなら、罠ってことはなさそうだけど……!)
一瞬の間に、朱華の頭の中をいくつもの疑問と懸念が過ぎっていった。嵐のような混乱の後──それでも残ったのは期待、だった。
「でも……おふたりのお気持ちはとても嬉しく伺いましたわ! きっと、炎俊様も一緒だと思います!」
本当に炎俊も喜ぶかどうかは、正直言って分からなかった。何かと理詰めで考えるあいつのことだから、旦那様を思う女心何て鬱陶しいと思うかもしれない。そもそも、競争相手の妃たちなのだし。罠ではないというのは朱華の心証でそう思うだけ、もっと慎重になれと諭されるかもしれない。
「雪莉様!」
「では……!?」
でも、太陽が雲間から覗くようなふたりの明るい笑みは、信じたかった。皇子の妃が集まって、やるのが悪口大会や嫌味の応酬だけだなんて不毛にもほどがある。もっと前向きで、しかも楽しいことができたら良い。
「おふたりのこと、炎俊様にお伝えします。何か良い案があるかどうか……とにかく、すぐに星黎宮にお招きしますわ」
それに、何より。
誰かを個人的にご招待、なんて初めてのことだった。妓楼では朱華は常に下働きで、陶家に引き取られてからも厳しい修行と勉強の日々だったから。
「お友だちになれるなら……それも、とても嬉しいことですもの……!」
仲良の良い方たちとおしゃべり、なんて。そんなことができるなら──とても幸せなことだと思うのだ。
* * *
そうこうするうちに、ほかの妃たちは皆、それぞれの宮へと発っていた。
佳燕と芳琳に、すぐに連絡するから、と伝えて轎子に乗り込んだ朱華は、ゆるやかな揺れに身を任せてようやく力を抜いた。軽い頭痛に、緊張によって力が入っていたことを知る。
今日はきっとよく眠れそうだ、と思うけれど──たぶん、炎俊はすぐには寝かせてくれないだろう。色っぽいことではまったくなく、今日の出来事をこと細かに知りたがるに決まっているからだ。
(まずは言ってやらないと。碧羅宮の方々は、あんたをすっごく嫌ってるって──何しろ、私に間諜をさせようとするくらいなんだから。新婚早々、旦那様を裏切ると思われてるなんて、よっぽどじゃない?)
義姉上がたからの悪評について、いじってやろうか、それとも慰めてあげようか。炎俊の反応を思い浮かべて少し笑ってから、朱華はふと首を傾げた。
(あれ……?)
妃のひとりが言っていたことを、思い出したのだ。
『ご実家だって、そのほうが良いでしょう』
彼女の実家ということになっている陶家は、炎俊が帝位に就くという予言を信じているはずだ。だからこそ大事な「雪莉姫」を嫁がせたわけで。
だから、朱華の勝手な判断で余所の宮の、余所の家の妃に寝返っては、不都合なはずだ。もちろん、朱華が凰琴の誘いに乗らなかったのは炎俊のためであって、陶家の思惑はどうでも良いと言えば良いのだけれど。
(貴族の家も、色んな考え方のとこがある、ってことかしら……?)
大姐がたは、ものごとを自分の都合の良いように考えるようだから。陶家の思惑を勝手に決めつけても、それほどおかしなことではないかもしれない。
(まあ、良いや……今のうちに、少し寝ておこう)
星黎宮では炎俊が休憩の暇を与えてくれないのかもしれないのだから。
軽く頭を振って疑問を追い払うと、朱華は星黎宮につくまでの間だけでも、と目を閉じることにした。