第9話 廃墟での休息
時間: 2038年6月26日、朝8時15分
場所: 荒野、崩れたショッピングモール跡
ランドマスターのエンジン音が次第に弱まり、車体の不規則な震えが穏やかな脈動へと変わっていった。レイナが決断を告げる声は、疲労で低く沈んでいた。
「ここで休む」
彼女は車を崩れたショッピングモール跡の陰に滑り込ませた。人類の栄華を象徴していたはずの建物は今や骸骨のように風化し、風と時間の彫刻となっていた。鉄骨がむき出しになった骨組みは空に向かって不規則に伸び、かつてのガラス張りの天井からは灰色の光が差し込んでいた。コンクリートの壁は地震か爆発の痕跡か、放射状に亀裂が走り、床に散らばったマネキンの破片は奇妙な白い島のように灰の海に浮かんでいた。
壁に残る看板の一部が風に揺れ、「ウェイド・インダストリーズ・コミュニティ・センター」の文字が辛うじて判読できた。この小さな街に、ウェイドの触手はここまで伸びていたのだ。
メアリー・マクレーンは後部座席から消耗し切った息を吐いた。
「少しでも休めるなら...ありがたいわ」
彼女は眼鏡を外し、両目を軽く押さえた。レンズの傷と埃がこの数時間の過酷な旅を物語っていた。疲労の中にも、彼女の観察力は研ぎ澄まされていた。この廃墟は何年も前に放棄されたように見えるが、壁に残る赤い結晶の痕跡は、比較的最近までナノマシンが活動していた証拠だった。
「いったいどれだけの人々が...」
彼女は言葉を飲み込んだ。今彼女の脳裏には、ロンドンの自宅での穏やかな朝の光景が浮かんでいた。キッチンから漂うコーヒーの香り、子供たちの笑い声、ティムが天気予報を聞きながら新聞を読む姿。たった一日で失われた日常の重みが、彼女の胸を痛く締め付けた。
助手席のティムも肩の傷を押さえながら、緊張の糸が切れたように深く息を吐いた。
「安全なのか?この場所は」
彼の声には疑念と疲労が入り混じり、血に染まった袖口を見つめる目には苛立ちが宿っていた。農場で培った直感が警告を発していた—この静けさは嵐の前の静けさに似ている。頬の筋肉が痙攣し、彼は顔を歪めた。失血のせいか、それとも疲労からか、視界が一瞬霞んだ。
レイナはエンジンを切り、常に用心深い目で周囲を見回した。
「ナノイドは周期的に活動する。今は休止期に入ってる」
彼女の左手がショットガンの銃身をなでるように触れ、触覚で弾の装填状態を確認した。その自然な動作は、長年の生存本能が彼女の体に刻んだ儀式のようだった。肩に浮かぶ古い傷跡と新しい血痕が、彼女の言葉に重みを与えていた。
「ここで一時間、体力を回復させよう」
アールは車から飛び出し、廃墟の一部を指さした。
「あれ、何だろう?」
彼の声には恐怖を忘れさせる好奇心が満ちていた。少年の視線の先には、半壊した電子機器店の残骸が見えた。陳列棚は倒れ、床には割れたスクリーンと基盤が散乱していた。技術の残骸は、少年の目には化石のように見えた。
「見てみたいな」
ティムが即座に厳しい声で止めた。
「だめだ、アール。離れるな」
彼の父親としての本能が、未知の危険から息子を守ろうとした。農場で育った彼は、目に見える危険よりも目に見えない危険を恐れることを父から学んでいた。
ヴァージニアの声は不安と疲労で細くなっていた。
「ずっとここにいるの?怖いよ」
彼女はメアリーの腕から少し身体を離し、自分のセーターの糸くずを神経質に弄っていた。建物の残骸を見つめる彼女の緑の瞳には、恐怖と共に奇妙な魅力も映っていた。崩れた壁のシルエット、床に反射する光の模様、灰の中に埋もれた商品の色彩—これらが彼女の感性に響いていた。
「ねえママ、これって昔はお店だったの?」
メアリーは娘の思考の方向転換に感心し、静かに答えた。
「2025年のショッピングモールとそんなに変わらないね」
ジュディの声は素直な子供らしさに溢れていた。
「ママ、喉乾いた...」
彼女の単純な願いは、全員を現実の必要性に引き戻した。生きるための基本的要素—水、食料、休息—が今の彼らにとっての最優先事項だった。ウーちゃんを抱く小さな腕には既に疲れが表れ、ぬいぐるみの片耳から漏れ出た綿を指で押し戻そうとする仕草には切ない愛着が見えた。
レイナは後部座席の箱を開け、古びた水筒を取り出した。
「これしかない、飲みな」
彼女は近くのティムに水筒を手渡した。日焼けした手の擦り傷と古い火傷の痕が、この世界で生き抜いてきた証だった。彼女の目には「大切に使え」という無言の指示が宿っていた。
ティムはキャップを外し、戸惑いながらも優しい表情でジュディに差し出した。
「ほら、ジュディ。少しだけだぞ」
少女の乾いた唇に水が触れた瞬間、彼女の瞳に光が戻った。「ありがとう、パパ」と小さく微笑むと、その無邪気な表情がティムの疲れた心を癒した。
「少しでいいから」
彼は微笑み返し、アールに水筒を渡した。
アールは不満そうな顔をしながらも、規律を理解していた。一口だけ飲み、「ヴァージニア、はい」と手渡した。この小さな分かち合いの瞬間に、姉弟の間に存在する絆が垣間見えた。ヴァージニアも同様に一口飲み、「ママ、どうぞ」と母親に返した。
水筒はメアリーへと渡り、彼女も一口だけ飲んだ後、最後にレイナの分を残した。どの家族も満足という訳にはいかなかったが、この共有の儀式に小さな団結感を覚えた。
メアリーはティムに視線を送り、小さな声で語りかけた。
「ティム、レイナに感謝しないと...彼女がいなければ、私たちは...」
言葉にできない恐怖を、彼女は夫と共有していた。科学教師として、彼女は脅威の本質を理解していた。目に見えない敵、制御不能のナノマシン、変異した生物—これらに対して彼らは無力だった。
ティムは水筒をレイナに差し出し、複雑な表情で言った。
「残りはあんたが飲んでくれ、俺はいらない」
レイナは一瞬躊躇し、「いい」と断ったが、ティムの頑なな視線に押されるように最後の一口を飲んだ。水が喉を潤す感覚に、彼女は目を閉じ、つかの間の安堵を感じた。その仕草には彼女が長い間忘れていた人間らしさが垣間見えた—孤独な生存者ではなく、誰かと分かち合う存在としての自分。
メアリーはレイナの疲れた姿を観察していた。教師として人間の微細な表情変化を読み取る訓練を積んだ彼女は、レイナの中に秘められた複雑な感情の層を感じ取っていた。
「レイナ、あなたずっと戦ってきたのね。そんなに長く...一人で」
その言葉にレイナは「慣れてる」と短く答えたが、その声には微かな感謝の色が混じっていた。彼女の指は無意識にショットガンの傷跡をなぞり、武器と自分の体が同じように戦いの痕跡を刻んでいることに気づかなかった。
アールは自分の疲れを忘れたかのように、子供らしい率直さで賞賛を口にした。
「レイナ、すごいよ!怪物も車の運転も、全部完璧だった!」
彼の熱意は、この灰色の世界に一瞬の鮮やかさをもたらした。
レイナは窓の外を見つめながら、思いがけない褒め言葉に戸惑いを隠すように静かに応えた。
「完璧なんてない。ただ生き延びてるだけだ」
その言葉には長い年月の諦めと孤独が凝縮されていた。彼女の視線はどこか遠くを見つめ、この場所にいながらも心は別の時間を旅していた。
車内に沈黙が広がり、風がコンクリートの亀裂を通り抜ける微かな音だけが耳に届いた。それぞれが自分の思いに沈むこの空白の時間は、奇妙な形での休息だった。
ティムは話題を変えるように、実務的な質問を投げかけた。
「セクター7って、どんな所なんだ?何があるんだ?」
彼の問いには、未知の場所への警戒と家族を守るための情報収集の意図が込められていた。
レイナはバックミラーの角度を調整しながら答えた。
「元はウェイドの研究拠点だった。今は...最後の人間の砦だ」
彼女の目に映るのは過去の記憶か、それとも今この瞬間の廃墟か、判然としなかった。
「高い壁に守られた自給自足のコミュニティ。食料、水、電力...必要なものは全て内部で賄える」
メアリーはレイナの言葉を慎重に分析した。
「昔は...というと、あなた、そこにいたのね?ウェイドで働いていたの?」
彼女の洞察力は鋭く、レイナの言葉の裏に隠された意味を探っていた。過去を知ることで未来を予測する—それは教師としての彼女の習性だった。
レイナは長い沈黙の後、ようやく認めた。
「ああ、大崩壊までな。研究員だった」
その告白は重い空気を伴い、彼女が内ポケットから取り出した古いIDカードが証拠となった。プラスチックは割れ、写真は色あせていたが、そこには若く希望に満ちた別人のような彼女の姿が映っていた。
アールは科学への好奇心を抑えきれず、シートの端に身を乗り出した。
「研究員!?ナノマシンを作ったの?」
その質問には少年らしい興奮と驚きが溢れていた。彼の目には尊敬の光が宿り、レイナが突然違う角度から見える存在になった。彼の心の中でレイナは英雄と悪役の境界線上に立っていた。
レイナはIDカードを手のひらでそっと撫で、過去への繋がりを確かめるように言葉を選んだ。
「そうだよ。私、ナノマシンの開発チームの一員だった」
彼女のIDカードには「レイナ・ハート、ウェイド・インダストリーズ、環境修復部門主任研究員」と印字されていた。今となっては皮肉な肩書きだった。
家族全員の視線がカードに集中し、それぞれの胸に様々な感情が渦巻いた。レイナの指がIDカードを強く握りしめ、まるで過去への贖罪のように見えた。
「私は...失敗した。ナノマシンの夢に惹かれて入社したけど...あの日、制御が効かなくなった」
彼女の声は途切れがちで、視線は床に落ちた灰に向けられていた。彼女の肩から感じられる緊張は、長い間抱え続けてきた自責の念の重みを物語っていた。
「私は止められなかった...ナノマシン安全装置が作動しなかった」
メアリーは胸が締め付けられる思いで、思わず手を伸ばした。
「レイナ、ごめんなさい...そんな話をさせて」
教師として長年生徒の心に寄り添ってきた彼女は、レイナの傷の深さを感じ取っていた。魂の奥底まで届く痛み—メアリーはその本質を理解していた。
レイナは首を横に振り、静かな決意を込めて言った。
「いいんだ。セクター7に残ったのも、そのためだ。いつかナノマシンを止める方法を見つける...それが私の償いだ」
彼女の言葉には、過去の過ちと向き合い続ける孤独な決意が込められていた。IDカードを握る手に力が入り、指の関節が白くなった。
車内に重い空気が漂い、家族全員が彼女の告白の重みを感じていた。長い沈黙の後、意外な言葉がティムの口から発せられた。
「自分を責めるな。お前一人のせいじゃない」
その言葉は単純だが、農場育ちの彼らしい率直さで、レイナの心に響いた。彼の目には同情ではなく、理解と受容があった。彼自身も家族を守れなかった無力感を知っていた。
メアリーも頷き、温かな声で続けた。
「そうよ、レイナ。あなたが罪を背負う必要はないわ。それに...あなたがいてくれて良かった。あなたは既に私たちの家族よ」
「家族...」
レイナの声は掠れ、その言葉を発することさえ彼女には奇妙に感じられた。かつての同僚たちの顔が記憶の海から浮かび上がり、彼女の胸に複雑な感情が入り混じった。長い孤独の後に差し伸べられた温かい手は、彼女には不慣れであると同時に、渇望していたものでもあった。
ジュディの素朴な問いかけが、大人たちの重い沈黙を破った。
「みんな戻れるのかな?」
彼女の質問は子供らしい直截さを持ち、全員の思考の核心を突いていた。灰の世界から抜け出す、元の生活に戻る—それは誰もが胸に秘めた願いだった。
車内は静まり返り、その問いかけの重みが全員の肩にのしかかった。レイナは慎重に言葉を選んだ。
「可能性はある。私が研究していた頃、時空間フィールド制御の実験があった。もしそのデータが残っていれば...」
彼女の声には微かな希望が宿っていたが、その目には不確かさへの警戒心も見えた。科学者として彼女は、希望だけでは事態は変わらないことを知っていた。手にした希望が砂のように崩れ落ちるのを、彼女は何度も見てきた。
ティムが身を乗り出し、その言葉に飛びついた。
「データがあれば何だ?過去に戻れるってことか?」
彼の声には農場育ちの単純明快さと、家族を守るためには何でもするという決意が混ざっていた。彼の心は複雑な科学的説明よりも、「戻れるか戻れないか」という二択を求めていた。
レイナは肩をすくめるように答えた。
「...かもしれない。あの技術は原理的には可能性を持っていた。でも、完成はしていなかった。私の専門は環境ナノマシンで、時空間技術については詳しくない。それでも、データが残っていれば...」
メアリーの声は実務的で冷静だった。
「そのデータは今どこにあるの?」
レイナは「セクター7の中央データベースに保管されているはずだ」と答え、再びIDカードを見つめた。
「だが、アクセスできるかどうかは分からない」
遠くで赤い光がチラつき、ショットガンを握る手に再び力が入った。安全と思われていた場所も、この世界では束の間の休息でしかなかった。
廃墟を囲む影で赤い光が瞬き、遠くでうなり声が響き始めた。アールが
「何かいる!」
と叫び、窓に顔を近づけた。
レイナは素早く「落ち着け。まだ遠い」と言い、ショットガンを手に取った。その動きは疲れていても無駄がなく、危機への備えが身体に染み付いていた。
「ナノイドは周期的に活動する。もう少しでまた活動期に入りつつある」
ティムは「また怪物か?」と呻き、パイプを握り直した。肩の傷は鈍く痛み、顔の血色が悪くなっていた。失血のせいか、それとも疲労からか、彼の息遣いは荒くなっていた。
「まだまだ俺はやれる...」
彼は独り言のように呟いたが、その声には弱々しさが混じっていた。
メアリーは「もう少し休みたかったけど...」と囁き、複雑な心境を呑み込んだ。常に冷静であることを自分に課した彼女だったが、この状況では冷静さを保つことも難しくなりつつあった。
ヴァージニアが「またあの怖いの...来るの?」と震える声を出したが、ジュディの小さな声には不思議な強さがあった。
「レイナ、また助けてね!」
子供らしい素直さと信頼が込められたその言葉に、レイナの硬い表情が和らいだ。
「ああ、約束する」
彼女の声には強い決意があり、家族全員がその言葉に希望を見出した。過去への贖罪と未来への希望が交錯する瞬間だった。
エンジンが再び唸りを上げ、ランドマスターは廃墟の影から動き出した。灰嵐が車体を叩き、遠くの赤い光が徐々に近づいてくるのが見えた。休息はつかの間だったが、全員が少しだけ強く、絆を深めていた。
レイナは最後にもう一度廃墟を振り返った。彼女の表情には疲労と共に、新たな決意が宿っていた。
「セクター7で答えを見つける。必ず」
彼らは黙って前を向いた。表情には疲労と緊張が刻まれていたが、その奥には以前よりも強い決意が宿っていた。生き抜くこと、家族を守ること、過去に戻ること—様々な思いが交錯しながらも、今はただ次の試練に向けて力を蓄えていた。
廃墟はやがて視界から消え、灰色の荒野が再び彼らを包み込んだ。しかし、彼らの心には新たな光が灯り始めていた。