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灰の彼方へ(旧版)  作者: 大西さん
第2章 灰の道を抜けて
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第8話 赤い目の追跡者

時間: 2038年6月26日、朝7時05分

場所: ランドマスターが走る灰の道、荒野の果て


ランドマスターは容赦ない灰嵐の中を疾走していた。タイヤが崩れた文明の残骸を踏み砕く度に、鈍い衝撃が車内を揺らした。窓ガラスに浴びせられる灰は刹那の閃光を放ち、数百の怨霊が車に取り憑こうとしているかのような幻を作り出していた。


メアリー・マクレーンは後部座席で眉を寄せ、窓の外の不吉な景色を観察した。


「これが私たちの未来の風景とはね」


助手席のティムはレイナに眉をひそめた。


「あとどのくらいかかる?」


肩の傷が脈打つ度に顔を歪め、血がかさぶたを作り始めたジャケットが腕の動きで軋んだ。バンガローで家族を守れなかった無力感が胸を苛み続け、深く根づいた自責の念が言葉を荒くしていた。


レイナは無表情に前方を見据えたまま答えた。


「あと2時間くらい。道が酷すぎて飛ばせない」


彼女の瞳孔が一瞬拡がり、バックミラーに映る家族の疲弊した姿を確認した。無線からの呼び掛けが脳裏で反響する—「過去からの特異点」—彼女が絶望の中で辿り着いた微かな光明だった。


「俺も運転はできるぞ、交代しようか?」とティムが申し出たが、レイナは「必要ない」と短く切り、アクセルを踏み込んだ。


アールは窓ガラスに鼻を押し付け、手で覆いをして外の景色をより鮮明に見ようとした。


「あっちに何かあるよ!」


カーキ色のトレーナーの裾をぎゅっと握る手には、目の前の謎への好奇心が同居していた。「奥にある影、建物みたいだけど…タブレットがあれば倍率上げられるのに」と悔しそうに割れた画面を見つめた。


ヴァージニアは腕を抱き、身を縮めていた。


「空が…変だよ」


彼女の緑の瞳が捉えたのは、鉛色の空を横切る異様な赤い筋だった。その色彩感覚は、この灰一色の世界では異質すぎる朱色の動きを即座に察知していた。「まるで血管みたい…空が呼吸してる」という直感的なイメージが頭に浮かび、震えが増した。


ジュディが突然、小さな声で言った。


「あの人たち、助けてあげないの?」


全員の視線が彼女の指差す方向へ向いた。荒野の片隅、半壊した建物の陰に人影らしきものが見えた。数人の人間が灰の中で蠢いているようだった。


ティムが「人間だ!」と身を乗り出した瞬間、レイナの手が彼の胸を押し戻した。


「違う。もう人間じゃない」


彼女の声は静かだが、耳に届く重みを持っていた。「ナノマシンに侵食された人間は、もはや人間じゃない。近づくな」


静寂と轟音が交互に訪れる世界で、次の瞬間が永遠に感じられた。


レイナが鋭く指示を出した。


「気を抜くな。まだ安全な場所じゃない」


彼女の目は遠くの地平線を捉え、崩れた鉄塔のシルエットを見つめていた。セクター7の手前にはまだ多くの危険が潜んでいる—彼女はそれを他の誰よりも痛いほど理解していた。


その瞬間、バックミラーに異変が映った。


灰の中で黒い影が蠢いていた。


まるで時間がスローモーションで流れているかのように、すべての動きが緩やかに感じられた。アールの「あれ!?」という叫び声、レイナの「追跡者だ!」という警告、そしてハンドルが鋭く切られる感覚。


ランドマスターが急カーブを描き、遠心力で家族全員がシートに押しつけられた。子供たちの悲鳴が車内に響き渡る。


「パパ!」 「ママ!」


車体が大きく傾き、砂煙が車を包み込んだ。影が車に並び、その姿を現した—ナノマシンに侵された巨大な鳥だった。


翼幅は3メートルを超え、かつての羽毛は金属質の板へと変貌していた。その変異した体は、自然の原理を捻じ曲げたように非対称で、翼の端から赤いナノマシンが霧のように漏れ出していた。最も恐ろしいのは、その目に宿る意思だった—単なる捕食衝動ではなく、知性を感じさせる冷たい光。


鳥が車体の側面に突進し、金属が軋む音が耳を劈いた。窓ガラスに無数の細かなひびが走り、車内は一瞬静まり返った。


メアリーは反射的に子供たちの頭を押さえつけた。


「伏せて!窓から離れなさい!」


体が自動的に動き、子供たちをシートに押さえつけた。


アールは震えながらも、目を見開いて観察していた。


「翼が…金属化してる!筋肉じゃなくて機械みたい!」


恐怖と好奇心が入り混じる彼の声には、危機の中でも失われない探究心が宿っていた。「生体とナノマシンが統合する仕組みなんだろう…」と呟く彼の科学者の素質が、この極限状態でも輝いていた。


レイナは歯を食いしばって唸った。


「鳥型ナノイド!厄介な奴らだ!」


彼女の手がアクセルを一気に踏み込み、車体が突然の加速に悲鳴を上げた。鳥が屋根に爪を引っかけ、軋む金属音が全員の背筋を凍らせた。厚い装甲でさえ、ナノマシンに強化された爪には紙のように思えた。


ティムが身を乗り出し、


「どうすればいい!?」


と声を荒げた。彼は助手席の下を探り、古い金属パイプを見つけ出した。


「これが頼りか…」


肩の痛みが鋭く走るが、家族を守るという一心がその痛みを押し流した。彼は長い農場生活で培った忍耐力で痛みを受け入れ、武器を握る手に力を込めた。


鳥が窓に嘴を叩きつけ、ガラスが砕け散った。破片が車内に飛び散り、ヴァージニアが悲鳴を上げた。


「もう嫌だ!」


メアリーは即座に娘に覆いかぶさった。


「ヴァージニア、こっちに!」


ジュディが


「ママ!」


と泣き叫び、ウーちゃんを強く抱きしめた。ぬいぐるみの片方の耳が裂け、中からわずかに綿が飛び出していた。彼女の小さな世界でさえ、傷つき始めていた。


「窓から入ってくる!」


アールが叫び、咄嗟に手近なタブレットのケースを鳥に投げつけた。その行動は本能的なものだったが、瞬間的な判断力は危機的状況でこそ磨かれる才能だった。


レイナは一瞬だけ少年に目を向け、認めるように頷いた。彼女はこの少年の機転の良さに感心していた。


「咄嗟の判断、良いぞ」


その言葉に、アールの目が一瞬輝いた。彼の勇気ある行動を認められたことで、恐怖が少しだけ遠のいた。


ティムはパイプを振り上げ、鋭い痛みに顔をゆがめながらも、鳥の頭部を力いっぱい打った。鈍い音が響き、赤い目が一瞬揺らいだ。


「くたばれ!」


彼の声は力強さを取り戻していた。この荒廃した世界でも、家族と共にいる—それが彼の生きる意味だった。


鳥は怒りの咆哮を上げ、力強い翼で車体を叩きつけた。ランドマスターが横に大きく揺れ、家族全員が息を詰まらせた。


レイナが突然叫んだ。


「助手席の下!散弾!」


メアリーは我に返り、素早く手を伸ばした。


「これ!?」


と彼女が散弾銃のカートリッジを見つけ出すと、レイナは即座に


「手渡せ!」


と命じた。


膝にあったショットガンに弾を込めながら、レイナは静かな決意に満ちた声で説明した。


「ナノイドには電子兵器より物理攻撃が効く。組織の再構築を妨げるんだ」


彼女の口元に一瞬浮かんだ笑みは、この荒廃した世界でも戦い続けてきた強さの証だった。


鳥が再び屋根に爪を立て、車体全体が震えるように揺れた。レイナは躊躇なく窓から身を乗り出し、ショットガンを構えた。風が彼女の短い黒髪を激しく揺らし、目には冷静な計算が宿っていた。


引き金を引くと、耳をつんざく轟音と共に散弾が放たれた。鳥の胸に命中し、血と金属の破片が砕け散った。触媒反応のような閃光が一瞬走り、空気中にナノマシン特有の金属臭が漂った。


火薬の強い匂いが車内に広がり、鋭い金属音と共に鳥は一瞬怯んだ。レイナは即座に2発目を放った。


2発目の弾が翼を貫き、骨が砕ける乾いた音が響いた。ナノマシンによって強化された羽も、この古典的な武器の前では脆かった。鳥はバランスを崩し、刹那の悲鳴を上げて灰の大地に墜落していった。


車内が一瞬静まり返り、全員の荒い息遣いだけが響いた。時が止まったかのような瞬間だった。


しかしその安堵は、地面の震えによってかき消された。低い咆哮が荒野に響き渡り、全員の表情が凍りついた。


アールが


「何!? また何か来た!」


と叫び、後部窓から外を覗いた。彼の好奇心は恐怖に打ち勝ち、瞳には観察者としての冷静さが戻っていた。


灰嵐の向こうから巨大な影が猛スピードで突進してきた。ランドマスターの後部に激突し、車体が宙に浮くように跳ね上がった。家族の悲鳴が重なり、一瞬の浮遊感に全員が息を呑んだ。


影が灰の中から姿を現した—ナノマシンによって変異したサイだった。


体高は2メートルを超え、皮膚は青銅のように光り、内部から赤いエネルギーが静脈のように脈打っていた。角は原型の二倍以上に伸び、赤色に輝く結晶質に覆われていた。最も異様だったのは、サイの全身の傷口から漏れ出す黒い液体—それはナノマシンが統合し切れなかった組織を腐食させ、新たな機能を埋め込もうとしている証拠だった。


メアリーは子供たちの頭を両腕で覆い、「祈りなんて意味ないでしょう…」と思いながらも、内心で祈っていた。「どうか、この悪夢が終わりますように」


サイが再び体当たりし、後部バンパーが歪む金属音が響いた。車体の一部が剥がれ落ち、内部構造が露出した。


「ティム!」


メアリーの声には、夫への心配と子供たちへの保護の思いが混じっていた。バンガローで感じた無力感が再び彼女を襲い、喉が乾いた。


レイナが


「装甲サイノイド!最悪のタイミングだ!」


と叫び、ハンドルを切り直した。車が急旋回し、砂煙が舞い上がる。タイヤが一瞬空転し、車体が危うく横転しそうになった。


サイが側面から再び突進し、車体を押しつぶさんばかりの勢いでぶつかってきた。衝撃で窓が震え、ヴァージニアの悲鳴が車内に響いた。彼女の声には恐怖以上のもの—この世界の理不尽さへの怒りが含まれていた。


ティムが


「こっちも来るぞ!」


と叫び、パイプをサイの頭に叩きつけた。角に当たって鈍い音が響いたが、サイは怒りの咆哮を上げて彼を押し返した。彼は助手席に倒れ込み、肩の傷が開いて鮮血が飛び散った。


「くそっ」


その痛みと挫折感に彼の表情がゆがんだ。しかし彼の目に宿る決意は揺るがず、家族を守るという一点において彼の精神は折れなかった。


レイナが


「ティム、ハンドル支えろ!」


と叫び、弾を入れ替え、ショットガンをサイに向けた。彼女の動きは迅速かつ正確で、長年の戦いで培われた反射神経が働いていた。


車窓から撃つと、散弾がサイの肩に命中した。血と金属片が飛び散り、サイは咆哮した。一瞬の隙を見計らい、レイナは2発目を角の付け根に撃ち込んだ。角が砕け、赤い結晶が灰の上に散らばった。


傷口でナノマシンが赤く輝き、サイの肌が鱗状に変形していく様子が見えた。自己修復を始めるナノマシンに、レイナの表情が引き締まった。


「また再生している…新しい系統だ」


彼女は素早く弾を込め直し、最後の一発を準備した。現代の科学とはいえ、彼女の動作には職人技のような美しさがあった。


サイが前脚を踏みしめ、角を低く構えて最後の突進を準備した。


「本当にあれ、動物なの?」


アールの問いには科学的な疑問と恐怖が混ざっていた。彼の直感が、この怪物がもはや自然界の生物ではなく、何か別の存在へと変貌していることを告げていた。


レイナは冷静に答えた。


「もう動物じゃない。機械でもない。その境界だ」


サイが立ち上がり、最後の力を振り絞って突進してきた。車体が大きく跳ね上がり、タイヤが空転する悲鳴のような音が響いた。


「今だ!」


レイナの叫びと共に放たれた最後の散弾は、サイの喉元を直撃した。首筋が大きく裂け、内部の機械と生体組織が混在した構造が露わになった。角が折れて血が噴き出し、巨大な体が地面に崩れ落ちた。


ランドマスターは死骸を乗り越え、揺れながら前進した。車体の下から引きずられる肉塊の鈍い音が響き、後方には瀕死のサイが横たわっていた。死にゆく怪物の眼から、ナノマシンの赤い光が徐々に消えていった。


全ての鎮まった瞬間、車内の緊張が一気に解けていった。メアリーが震える声で尋ねた。


「もう大丈夫なの?」


彼女は子供たちを一人ずつ確認し、怪我がないか点検した。学校での緊急時対応の訓練が、今この瞬間に生きていた。目視確認、声かけ、常に冷静に—彼女の教師としての資質が家族を支えていた。


ヴァージニアがセーターの袖で涙を拭いながら呟いた。


「あんな怪物…今まで見たことない」


彼女の緑の瞳には恐怖だけでなく、異質な美しさへの複雑な感情も宿っていた。


「でも…不思議と綺麗だった。あの赤い光…」


ティムは肩を押さえながら呻いた。


「何匹いるんだ…?」


パイプを握る手には、今感じている無力感が共存していた。彼のような実直な男にとって、無力さほど辛いものはなかった。


メアリーはレイナを見つめ、心からの敬意と感謝を込めて言った。


「レイナ、あなたがいなければ…本当にありがとう…」


その言葉は言い終える前に涙で詰まった。レイナの技術と勇気がなければ、彼らは既に死んでいただろう。


レイナの表情が柔らかくなり、彼女は小さく頷いた。彼女の瞳には「ただ義務だ…それと希望…」という言葉とは裏腹に、何かが芽生えていた。誰かに感謝されるのは、彼女にとって何年ぶりだろうか。


アールは小さく囁いた。


「すげえ…でも怖すぎる」


彼の中では、科学への憧れと恐怖が交錯していた。雑誌で読んだナノテクノロジーの記事が、こんな恐るべき結末を迎えるとは想像もしていなかった。「これが技術の暴走か」という認識が、彼の科学への情熱に新たな警告を刻み込んだ。


ジュディの声は小さいながらも、不思議な強さを持っていた。


「ウーちゃん、みんな、生きてるよ!」


その単純な事実の重みが、この異世界で最も尊いものだった。彼女の小さな手がメアリーの指を握りしめ、ウーちゃんを抱く腕の震えが徐々に収まっていった。


ランドマスターは灰嵐の中を走り続けた。遠くでは新たな赤い光が強く瞬いていたが、今はそれも以前ほど恐ろしくは感じられなかった。彼らは二度の危機を乗り越え、わずかに強くなっていた。


レイナはバックミラーを覗き込み、静かに告げた。


「油断するな、まだ終わらない」


彼女の声には疲労と共に、揺るぎない決意が宿っていた。革ジャンの左肩には新たな血が滲み、その傷こそは彼女がナノマシンとの闘いに捧げた何年もの時間の証だった。


レイナの心の中では、自分が関わった過去への罪悪感と、それを償おうとする思いが交錯していた。この家族を安全な場所へ導くこと—それが今の彼女の使命だった。


灰色の荒野を抜け、セクター7への道のりはまだ続いていた。しかし彼らの心には、ほんの僅かな希望の光が灯り始めていた。

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