第7話 救世主レイナ
時間: 2038年6月26日、朝6時35分
場所: ランドマスター内部、灰色の荒野を疾走
巨大な四輪駆動車ランドマスターが灰色の荒野を突き進んでいた。強化された装甲と分厚いタイヤは、かつての軍用車両の威厳を今も保っていた。エンジンの低い唸りが車内に響き、窓の外では細かい粒子がガラスに叩きつけられる音が、何千もの針が同時に刺さるかのように鋭く耳を劈いていた。
メアリー・マクレーンは後部座席で子供たちを両腕でしっかりと抱きしめていた。
「大丈夫よ、もう安全だから」
メアリーは窓の外の風景を見つめた。地平線まで延々と広がる灰色の荒野は、生命の息吹を感じさせない死の風景だった。たった一日前まで緑あふれる世界から、突然この荒廃した未来へ—理論上は時間の歪みという概念を理解できても、心がついていけなかった。
「一瞬で13年…タイムリープが実際に起きるなんて…」
助手席のティムは肩を押さえ、痛みに顔をしかめていた。血で染まった袖口が、狼型ナノマシンとの戦いの生々しい証だった。
「どうなってるんだ...」
彼の掠れた声には、農場育ちの頑健な体つきからは想像できないほどの疲労が滲んでいた。しかし獣の目のような鋭い視線は、運転席のレイナを観察し続けていた。
レイナはハンドルを両手で力強く握り、常に前方の荒野を見据えていた。摩耗した革ジャンと顔に積もった灰は、この世界での長い孤独な戦いを物語っていた。黒く短い髪の端から垂れる汗が、緊張の度合いを示していた。
「まさか、あのニュースで言ってた実験が原因なのか…?」
ティムは自分に言い聞かせるように呟いた。朝のラジオで聞いた断片的な警告の記憶が鮮明に蘇る。「ナノマシン」「浄化実験」「制御不能」—当時は他人事だった言葉が、今や彼らの運命を握っていた。
後部座席のアールは膝をシートにつき、車体が揺れるたびに体が跳ねた。
「さっきの怪物っていったい何だったんだの!?」
好奇心旺盛な少年の声は恐怖と興奮が混ざり合い、茶色の瞳には燃えるような探求心が宿っていた。割れたタブレット画面をもどかしげに見つめ、失われたデータを惜しむように指先でガラスの亀裂を辿った。
「ジェイクは、信じてくれないだろうな」
と一瞬だけ親友の顔を思い出し、唇が緩んだ。だが次の瞬間、過去の世界に戻れるという不確かな希望と、二度と友人に会えないという恐れが脳裏を駆け巡り、背筋を冷やした。
隣のヴァージニアは泣き声を抑えながら尋ねた。
「あの狼、ほんとに生きてたの?機械みたいだったよ…」
彼女の繊細な目は、この異世界の微妙な色合いをはっきりと捉えていた。灰色一色に覆われた風景には、彼女の感性が飢えるほど、色彩が決定的に欠けていた。「こんな世界じゃ絵を描く気にもなれない」という思いが、心に沈んでいった。
ジュディは小さな声で囁いた。
「ウーちゃん、怖かったね…」
彼女はぬいぐるみを胸に抱き、疲れた顔でメアリーの膝に頬を擦りつけた。母親の存在だけが、この混沌とした状況で唯一の安心感をもたらしていた。
家族全員の疲れた息遣いが車内に漂う中、ティムがレイナに向かって声を上げた。
「お前、誰だ? なんで俺たちを助けた?」
彼の声には感謝と警戒が入り混じり、安全な場所に辿り着くまでは全てを信じられないという農夫の慎重さが表れていた。肩の痛みで我慢の限界に達したような苛立ちを抑えながら、膝を叩いた。
「あの怪物から逃がしてくれたのは分かるが...」
レイナはハンドルを握ったまま、冷静に答えた。
「名前はレイナ。兵士たちの無線を聞いて駆けつけた」
鋭い横顔は道路から目を離さず、唇の端にかすかな緊張を浮かべていた。無駄な言葉を一切省いた彼女の応答は、長年の孤独を思わせた。
「これからセクター7へ向かう。そこなら安全だ」
彼女の言葉には確信があり、長い間続けてきた道のりを示すように、指がハンドルをしっかりと握りしめた。
メアリーは子供たちを抱いたまま、状況を整理するように穏やかに尋ねた。
「さっきの怪物...あれは何なの? ナノマシンの影響?」
アールは身を乗り出し、シートベルトが軋む音を立てた。
「どうしてあんな狼になったの!? ナノマシンってなに!?」
レイナはハンドルを軽く切りながら、落ち着いた声で答えた。
「11年前のナノマシン計画だよ。自己複製型マイクロロボットが初めて出来た年だ」
彼女が一瞬だけ瞳を閉じ、過去の記憶を引き出すように言葉を選んだ。
「普通は目に見えないほど小さい。でも生物と融合すると…」
車体が揺れ、一瞬の沈黙が流れた。
「制御が効かなくなって、動物の体を乗っ取る。神経系に侵入して、生体機能を拡張するんだ」
メアリーも即座に質問を続けた。
「今が2038年ってどういうこと? 私たち、2025年にいたはずよ」
物事を順序立てて理解しようとする習慣が、この非現実的な状況でも彼女の頭を冷静に働かせた。授業で物質と時間の関係を説明したことが思い出され、今まさに自分がその法則の例外の中に存在していることが皮肉に思えた。
レイナは深呼吸すると、説明を始めた。
「2025年6月20日にウェイドの実験が失敗して君たちのバンガロー周辺が隔離フィールドに飲み込まれた」
「詳しく話すのは面倒だけど...その時のウェイドの実験が時間と空間をぶっ壊したんだ」
彼女の言葉は科学的事実を述べるように冷静だったが、声のトーンには言い知れぬ重みがあった。バックミラーで家族を一瞥し、再び灰嵐の向こうを見つめる。
「そして、一気に13年先、2038年の今に飛ばされた。それだけだ」
ティムが拳でダッシュボードを叩いた。
「何!? 時間を跳び越すなんて...馬鹿げてる」
「つまり、これは夢じゃないんだな...」
この状況を受け入れるのに大きな障壁があった。だが目の前で広がる荒廃した風景と、肩を突き抜ける痛みは、紛れもない現実だった。
アールは目を丸くし、驚きと興奮で言葉を詰まらせた。
「えっ? タイムトラベルしたの!? 証明できる?」
科学への情熱を持つ少年にとって、時間跳躍は恐怖よりも驚きを与えた。アインシュタインの相対性理論を読んだ彼は、現象の仕組みを理解したくて仕方がなかった。
ジュディはすぐに泣き出し、メアリーの腕にしがみついた。
「ママ、戻れるの?」
と震える声で尋ねた。幼い子供には、この状況の複雑さが余りにも重すぎた。
メアリーは子供を抱きながらも、レイナに詰め寄るように前のめりになった。
「戻れるわよね? 元に戻る方法、あるんでしょう?」
彼女の声には冷静さと切迫した感情が混ざっていた。彼女は科学の教師として、どんな現象にも解決法があると信じていた。
レイナは「分からない」と短く答え、「でも、セクター7に行けば、とりあえず生きていける」と付け加えた。
車内が一瞬静まり、エンジンの唸りだけが響いた。荒野に舞う灰が窓ガラスを打ち付け、不規則なリズムを刻んでいた。
ティムが静寂を破った。
「ウェイド・インダストリーズ...あの会社が原因なんだな!」
彼の記憶の中では、朝のラジオで断片的に聞いたニュースが鮮明に蘇っていた。
「いったい何の実験をしてたの?あなたは知ってるの?」
メアリーの関心が掻き立てられた。
レイナは一瞬ためらい、視線をわずかに逸らした。
「2025年のドーセットの森の実験は、環境浄化...汚染された水や土壌を修復する計画だった」
彼女の指がハンドルを強く握りしめ、革が軋む音を立てた。
「自己複製して広がるナノマシン...命令に従って環境を再生する予定だった」
彼女の声にはわずかに感情が混ざり始め、「成功したと思っていたし、私たちは制御できるとも思ってた」という言葉を最後に、唇を引き締めた。
ヴァージニアが「怪物、もっと出てくるの?」と恐怖に震え、ジュディは「嫌だ、ママ」とメアリーの膝に顔を埋めた。
メアリーは「大丈夫よ」と抱きしめるが、自分の手の震えが止まらなかった。教壇に立っていた頃、彼女は技術の進歩と責任について熱心に語っていた。目の前で繰り広げられる光景は、その警告が現実となったものだった。
遠くで赤い光がチラつき始め、低いうなり声が断続的に聞こえてきた。アールが窓に顔を近づけ、
「何かいるよ! また怪物かも!?」
と叫んだ。
レイナは「落ち着け。まだ遠い」と言い、アクセルを踏み込んだ。エンジンが大きく唸り、車体が前に跳ねるような感覚が家族全員を襲った。
メアリーはレイナをじっと見つめ、質問した。
「レイナ、あなたどうしてこんな場所に? 兵士の無線を聞いてたって...いったい何者なの?」
その問いかけには純粋な好奇心と警戒心が混ざり合い、この謎の女性の背後に隠された物語を感じ取っていた。
レイナは一瞬黙り込み、「過去から来た人間だと聞いて興味があった」と答えた。その声には単なる好奇心とは違う、何か深い動機が秘められているように感じられた。ウェイド・インダストリーズという名前を口にする時の彼女の表情には、言葉にならない複雑な感情が浮かんでいた。
ティムは「過去から来た人間だから...? 俺たちをどうする気だ? 信用していいのか?」と呻き、傷ついた肩を押さえながら拳を握り直した。
レイナは冷たく言い放った。
「生き延びたいなら他に選択肢はないだろ」
その言葉に車内は再び静寂に包まれた。レイナはバックミラー越しにティムの視線と一瞬交錯し、「信じるか信じないかはお前次第だ」と低く呟いた。だが彼女の目には、かすかな温かさが宿っていた。
灰嵐は容赦なく窓を叩き続け、ランドマスターは荒野を切り裂いて進み続けた。遠くに見える赤い光は徐々に近づき、次の危機がすぐそこまで迫っていた。メアリーは子供たちの頭を優しく撫でながら、窓の外の風景に目を向けた。
風化した道路標識の下を通過する瞬間、彼女は一瞬だけ目を凝らした。「ドーセット」という文字が灰に半ば埋もれ、かつての休暇の目的地が今や悪夢の始まりであったという皮肉に、胸が痛んだ。
「何があっても一緒よ」
彼女は子供たちに囁いた。
それはティムと交わした結婚の誓いでもあった。どんな時代、どんな世界であっても、家族は共にある—その一点だけが、灰色の世界に浮かぶ希望の灯りだった。
ヴァージニアは窓に映る自分の姿を見つめながら、小さく頷いた。
「絵を描く日がまた来るよね」
彼女の言葉には小さな希望が込められ、この灰色の世界にもいつか色を見つけられるという思いが感じられた。
ランドマスターはさらに加速し、家族を乗せて未知の未来へと突き進んでいった。