第6話 迫りくる脅威
時間: 2038年6月26日、朝6時20分
場所: 荒廃した世界、セクター7周辺
バンガローの残骸が灰色の荒野に孤立し、暗灰色の霧が渦を巻いて崩れた壁を絶え間なく叩いていた。風は低く唸り、コンクリートの破片が砂に半ば埋もれ、絶えず擦れ合う音を立てていた。
メアリー・マクレーンは暖炉の残った石枠のそばに膝をつき、子供たちを毛布でしっかりと包み込んだ。
「落ち着いて、みんなここにいるよ」
彼女の声は震えていたが、その中に強さがあった。埃で曇った眼鏡の向こうで、彼女の目は警戒心に満ちていた。
「私がもっと早く行動しておけば...」
と胸の内で繰り返し、背中に冷や汗が滲んだ。ナノマシンの危険性について授業で触れたことはあったが、その知識は断片的だった。目の前で起きていることを理解するには不十分だと感じていた。彼女の視線は崩れた壁の隙間から吹き込む灰の嵐を捉え、母としての決意が胸の奥で静かに燃えていた。
ティムはメアリーの前に立ち、家族を背中で庇うようにして立っていた。
「一体何だこれ!?」
彼の叫びは掠れて聞こえ、汗でじっとりと湿ったオリーブ色のシャツは灰と汗で重くなっていた。
「メアリー、大丈夫か?」
と彼は低く呟き、彼女の肩に手を置いた。その手には強さと同時に、微かな震えがあった。何世代にもわたって農場を守ってきた家系の意地が、彼の背筋を伸ばしていた。
メアリーはティムを見上げ、
「ティム、子供たちを頼むわ」
と囁いた。夫の頼もしさに一瞬の安堵を感じたが、霧の向こうで瞬く赤い光に彼女の視線は再び鋭くなった。
アールは崩れかけた窓枠にしがみつき、外を見ていた。
「外、変だよ!これ、何!?」
彼のカーキ色のトレーナーは灰で汚れ、茶色の瞳は荒野の彼方で瞬く赤い光を追っていた。彼の好奇心は、恐怖さえも一時的に忘れさせるほど強かった。
ヴァージニアは毛布に顔を半分埋め、
「ママ、怖い」
と震える声を漏らした。金髪は湿気で肩に張り付き、緑の瞳は涙で潤んでいた。しかし、その恐怖の中にも、彼女は周囲を鋭く観察していた。彼女の感性は、赤い光のパターンを捉え、その意味を直感的に理解しようとしていた。
ジュディは
「ウーちゃん、どこ!?」
と叫び、灰に埋もれたぬいぐるみを小さな手で必死に探していた。彼女の無邪気な世界の中心が失われ、彼女は家族の輪の中で最も脆くなっていた。
突然、バンガローの残ったドアが勢いよく蹴破られ、木片が床に飛び散った。灰緑色の制服を着た兵士が4人、レーザー銃を手に乱入してきた。
「グリーンカードを出せ!」
怒号が荒野に響き渡り、金属的な反響がバンガローの残骸を震わせた。兵士たちの顔はゴーグルで隠されており、その声は冷たく無機質だった。
メアリーは
「何!?」
と叫び、子供たちを背中に隠すように立ち上がった。
「ティム、何なの!?」
彼女の声が震えた。これまでの常識や知識が通用しない状況に、彼女の頭が混乱していた。
ティムは一歩踏み出し、
「ここは俺の借りたバンガローだ、出て行け!」
と叫び、兵士の一人の胸を両手で突き飛ばした。彼の筋肉が農作業で鍛えられた力を発揮したが、明らかに彼らの装備と訓練は彼を上回っていた。兵士は腕で彼を払いのけ、ティムは暖炉のそばに倒れ込んだ。
「メアリー、子供たちを!」
彼の声には、自分の無力さへの怒りと、家族への心配が混ざっていた。
兵士の一人がティムにレーザー銃を向け、
「グリーンカードだ!早くしろ!」
と怒鳴った。銃口がティムの胸に向けられ、唸りが強まった。
ティムは膝をついたまま立ち上がり、
「何の話だ!?何のことだ!?」
と叫んだ。
「俺たちは何もしていない!」
兵士は無線機を耳に近づけ、
「対象が抵抗。グリーンカード未提示」
と機械的に報告した。無線から冷たい女性の声が漏れ、
「一体どうなっている?」
という機械的な響きが全員の耳に残った。
兵士のリーダーらしき者が一歩進み出た。
「隔離フィールドの残留者か?」
彼は無線に
「生存者確認。グリーンカードなし」
と報告し、倒れたティムを冷たく見下ろした。
「ナノマシンに感染されていない証明がなければ、セクター7には連れていけない。感染者は抹消するしかない。セクター7の命令だ」
メアリーは子供を抱きしめながら、状況を理解しようと必死だった。
「セクター7?2038年...?隔離フィールドって...何かの実験の影響なの?」
と混乱した様子で呟いた。彼女の頭が急速に回転し、断片的な情報から全体像を把握しようとしていた。2038年、13年後の世界—ナノマシンの暴走が文明に与えた影響は想像を超えていた。
ティムは床に膝をつき、
「感染?グリーンカード?何だそれは!俺たちは2025年にいたんだ!」
と叫んだ。彼の率直さは、この状況でも変わらなかった。
兵士がリーダーに無線で
「抹消許可を申請」
と報告し、銃口をティムに向けた。赤い照準光線が彼の胸に合わせられ、唸りが強まった。
メアリーは
「やめて!」
と叫び、子供たちを毛布で覆おうとした。彼女の母親としての本能が全ての思考を押し流していた。
混乱が最高潮に達した瞬間、外から低い唸り声が響き、地面が微かに震え始めた。窓ガラスの残りが砕け散り、無数の破片が床に飛び散った。
怪物と化した狼が飛び込んできた。体は2メートルを超え、灰色の毛は金属のように硬く光っていた。赤い目が暗闇で不気味に輝き、口から滴る唾液が灰に落ちると焦げるような臭いが広がった。
兵士のリーダーが
「何だ!?」
と叫び、レーザー銃を発射した。赤い光線が狼の肩を焼き、肉が焦げる臭いが漂った。しかし傷口はすぐに赤い結晶で覆われ、その結晶が振動して光線のエネルギーを吸収していくようだった。
狼は瞬時に飛びかかり、鋭い爪がリーダーの腹部を抉った。制服が裂け、血が噴き出した。リーダーは絶叫し、ゴーグルが割れて血まみれの顔が露わになった。
混乱の中、革のジャケットを着た女性が飛び込んできた。
「早く乗りな!」
と叫んだ。その声は灰の嵐を切り裂くように鋭かった。
短い黒髪が風に揺れ、鋭い目が怪物たちを冷静に捉えていた。彼女の手には古いショットガンが握られ、朝日に鈍く光っていた。左腕には黒いバンドが巻かれ、その上に小さな装置が固定されていた—通信機か、あるいは何らかの計測器だろうか。顔の右側には古い傷跡が走り、過去の戦いの記憶を刻んでいた。
「ナノマシンは衝撃に弱い」
と彼女は低い声で呟き、素早くショットガンを狼に向けた。その姿勢には長年の経験が表れていた—何度もこの状況に直面してきた者のみが持つ余裕と緊張感。
散弾が狼の首に炸裂し、血と金属片が飛び散った。一瞬の閃光と共に、部屋に金属と焦げた肉の臭いが満ちた。狼は咆哮し、後ずさったが、傷口からは赤い結晶が溢れ出し、ナノマシンが蠢いていた。
「これが2025年からの訪問者か」
レイナはメアリーを一瞬見つめ、すぐに視線を戻した。
「動くな、まだだ」
彼女の声には不思議な親近感が混じっていた。
狼は傷ついた首を振り、赤い目がレイナを捉えた。唸り声が低くなり、後脚に力が入る—跳躍の準備だ。レイナはそれを読み取り、ショットガンを構え直した。
「来るぞ」
狼が空中に躍り、鋭い牙が月光に輝いた。その動きは自然の狼より速く、より予測不能だった。レイナは一歩も動かず、冷静に2発目を発射した。散弾が狼の胸部を貫き、後方に吹き飛ばした。
「一匹だけじゃない!」
ティムが叫び、壊れた窓から覗く二つ目の赤い目を指差した。
レイナは冷静にショットガンに新しい弾を装填し、
「二階に上がれ」
と命じた。
「階段だ、急げ!」
家族が動揺している間に、最初の狼が再び立ち上がった。傷口からは赤い結晶が急速に成長し、体の形を歪めていた。まるで機械が自己修復するように、ナノマシンが狼の体を再構築していた。
「修復が早い…12系か」
レイナは呟き、後退しながら3発目を放った。弾丸が狼の右前脚を吹き飛ばし、怪物は一瞬バランスを崩した。
二匹目の狼が窓から飛び込み、兵士の一人に襲いかかった。悲鳴と血が部屋に満ちる中、レイナは階段を指して家族に急ぐよう促した。
「メアリー、子供たちを連れて!」
ティムが叫び、倒れていた兵士の一人からレーザー銃を奪った。彼は銃を構え、
「俺が時間を稼ぐ」
と決意を込めて言った。
ティムの手は農作業で鍛えられて強かったが、レーザー銃を構えるには震えすぎていた。それでも、彼は狼に向けて引き金を引いた。赤い光線が狼の脇腹を焼き、焦げた毛の匂いが広がった。
「だめだ!」
レイナが叫んだ。
「エネルギー武器は効かない—ナノマシンが吸収する!」
彼女の警告通り、傷口の赤い結晶が明るく輝き、エネルギーを吸収して狼の体を強化しているように見えた。狼は低く唸り、その赤い目がより鮮やかに輝いた。
レイナは素早く動き、
「物理的衝撃だけだ!」
と叫びながら、バンガローの壁から折れた木の棒を投げた。ティムはそれを受け取り、農場で牛を追っていたときのように構えた。
最初の狼が再び襲いかかり、メアリーが
「ティム!」
と悲鳴を上げた。彼女は子供たちを守るために身を翻し、自分の体で彼らを覆った。
ティムは木の棒を振り上げ、全力で狼の頭部を打った。鈍い音と共に狼が横に倒れ、床板が軋んだ。
「行け、メアリー!」
兵士たちは次々と倒れ、残ったのは唯一のリーダーだけだった。彼はレーザー銃を捨て、ベルトから鋭い金属製のナイフを抜いた。
「くそっ、やっぱり12系だ。本部に報告を」
彼は無線機に向かって叫んだが、応答はなかった。
レイナは素早く部屋を見回し、状況を把握していた。彼女は二階への階段を駆け上がりながら、
「ランドマスター…いや、車が外にある!屋根から飛び降りる!」
と指示した。
アールは恐怖に震えながらも、冷静に状況を観察していた。
「あれが自己修復能力があるナノマシンか…」
彼は階段を上りながら呟いた。彼の好奇心は恐怖と競い合っていた。
ヴァージニアはスケッチブックを強く握り、恐怖で足が動かなくなっていた。
「…」
彼女の眼には狼の動きが焼き付き、その光のパターンが理解できそうで理解できない不思議な形で頭の中を回っていた。
メアリーは娘の手を強く引き、
「ヴァージニア、行くよ!」
と叫んだ。彼女は階段の方へ子供たちを導きながら、肩越しにティムを見た。夫の勇敢さに胸が締め付けられる思いだった。
二階へ続く階段は急で狭く、木の板が腐食して所々抜けていた。レイナは先頭で道を示し、メアリーが子供たちを促し、最後にティムが木の棒を構えて後ろを守っていた。
「ママ、ウーちゃん!」
ジュディが突然叫び、階段を降りようとした。
「ウーちゃん置いてきちゃった!」
メアリーが娘を引き止めるが、ジュディの目には大粒の涙が浮かんでいた。
「ウーちゃんがいないと…やだよぉ!」
レイナは一瞬立ち止まり、階下を見下ろした。狼たちが兵士の残りを襲っている隙に、彼女は素早く階段を降り始めた。
「位置を確保しろ、戻る」
彼女の声は冷静だったが、その背中には緊張が走っていた。
メアリーは驚き、
「危ないわ!」
と叫んだが、レイナは既に階下の混乱の中に消えていた。
二階は半分崩れており、屋根の一部が落ちて霧の向こうに灰色の空が見えていた。レイナの言うとおり、外には車らしき影が見えた—大きな装甲車のような乗り物だった。
階下では、レイナが素早く部屋を見回していた。戦いの音、唸り声、血の臭いで混乱の極みだったが、彼女の目はピンクのぬいぐるみを探していた。赤い影が彼女の周りを動き回り、彼女の足元でナノマシンの粒子が踊っていた。
「そこか」
彼女は暖炉の近くに埋もれた小さなピンクのウサギを見つけた。床に伏せて這うように進み、狼の注意を引かないよう慎重に動く。彼女の手がぬいぐるみに触れた瞬間、一つ目の狼が振り向いた。
「くそっ」
レイナは咄嗟にウーちゃんを掴み、反対側の拳でショットガンのストックを振るった。狼の顎を強打し、一瞬の隙を作る。彼女は階段へと飛びつき、素早く上りながら叫んだ。
「今だ、飛べ!」
ティムは二階の窓から外を見下ろし、
「車か?」
と呟いた。5メートルほど下には装甲車のような巨大な四輪駆動車が砂の地面上に待機していた。
「メアリー、子供たちを先に」
メアリーは冷静さを取り戻し、
「アール、行くわよ」
と言って息子を窓の縁に導いた。
「飛び降りるのよ、屋根を伝って」
アールは震える手で窓枠をつかみ、
「うん、わかった」
と答えた。恐怖と好奇心が入り混じった表情で、彼は慎重に屋根に這い出た。
ヴァージニアも続いた。彼女のスケッチブックは服の中にしっかりと隠され、金髪が風に揺れていた。彼女は一瞬振り返り、メアリーを見た。
「大丈夫だよ、ママ」
彼女の声は小さかったが、決意に満ちていた。
最後のジュディは泣きじゃくりながら
「ウーちゃんがいない」
と繰り返していた。
その時、階段から足音が聞こえ、レイナが姿を現した。彼女の服は裂け、顔には小さな傷があったが、手にはピンクのウサギのぬいぐるみが握られていた。
「これを探してたか」
レイナは小さな声で言い、ウーちゃんをジュディに差し出した。
ジュディの顔が輝き、
「ウーちゃん!」
と叫んで飛びついた。彼女はぬいぐるみを強く抱きしめ、泣き顔に笑顔が混ざった。
「今度は落とすなよ」
レイナは微笑み、
「さぁ、行くぞ」
と促した。
階下からの唸り声が激しくなり、階段を登ってくる足音が聞こえ始めた。
「時間がない!」
レイナは叫び、ジュディを抱き上げた。
「俺が最後だ、行け!」
ティムが木の棒を構えて言った。
レイナはジュディを抱えたまま、窓から屋根へと出た。彼女の動きには無駄がなく、何度も同じことをやってきたかのような確かさがあった。
「ランドマスターに乗り込め、エンジンはかかってる」
メアリーも続き、家族全員が屋根の上に出た。階下の音が間近に迫る中、レイナは
「飛び降りるぞ、落下時に膝を曲げろ!」
と指示した。
アールが最初に跳び、巨大な四輪駆動車ランドマスターのトランクの上に着地した。次いでヴァージニア、そしてレイナがジュディを抱いたまま飛んだ。
メアリーは夫を見つめ、
「一緒に」
と言った。最初の狼が二階に姿を現した瞬間、二人は手を取り合って飛び降りた。
ランドマスターに乗り込むと、レイナは
「シートベルト」
と簡潔に言い、すぐにエンジンをふかした。タイヤが砂利を巻き上げ、車は猛スピードで発進した。バックミラーには、二匹の狼が屋根の上から彼らを見つめている姿が映っていた。
ジュディはウーちゃんを強く抱きしめ、車の振動の中で小さく呟いた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
レイナは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに前を向き直した。
「安全な場所へ連れていく」
彼女の声は冷静だったが、その奥に何か感情が揺れているように見えた。
メアリーは振り返り、崩れた建物が遠ざかるのを見つめた。13年の時を超え、彼らの冒険は始まったばかりだった。彼女はティムの手を握り、不確かな未来への覚悟を胸に秘めた。
「みんな、大丈夫?」
彼女は子供たちに声をかけた。アールは無言で頷き、ヴァージニアはスケッチブックを取り出して何かを描き始めていた。ジュディはウーちゃんに何かを囁きながら、少し安心した様子で座っていた。
振動するランドマスターの車内で、メアリーは改めて状況を理解しようとした。2038年—世界はナノマシンによって一変し、彼らの知っていた現実は遠い過去となっていた。しかし、家族の絆だけは変わらない。彼女は決意を固め、窓の外の荒廃した風景に目を向けた。