表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰の彼方へ(旧版)  作者: 大西さん
第1章 平穏の終わり
5/31

第5話 灰色の霧

時間: 2025年6月21日、朝6時12分

場所: ドーセットのバンガロー


バンガローの室内は暖炉の残り火でほのかに温かく、朝の静寂に包まれていた。薪は燃え尽き、灰となって炉の底に積もり、その表面が空気の微かな流れに合わせてかすかに揺れていた。夜に燃え盛っていた炎の名残りだけが、わずかな赤みを放っている。焦げた木の香りが室内に漂い、壁の古い木目が薄明かりの中でより深い陰影を見せていた。


窓の外では、見慣れぬ灰黒の霧に覆われ、ガラスにべったりと張り付いた水滴が筋を作って流れ落ちていた。先ほどまでの赤い光はさらに強く、霧そのものが灰色から赤黒い色調へと変化しているように見えた。霧の向こうから低く唸るような風の音が断続的に響き、耳を澄ますほどに不自然さが際立った。


メアリーは目を覚まし、膝の上の毛布を引き寄せた。栗色の髪は一晩の間に乱れ、薄手のグレーのカーディガンは肩にねじれるように絡まっていた。彼女は喉の渇きを感じながら、窓の外の異様な光景に目を凝らした。眼鏡をかけ直し、混乱する頭を整理しようとした。


「やっぱりこの霧...気持ち悪い...」


彼女の声は震え、眼鏡を直しながら、暖炉のそばに置いておいたメモ帳を手探りで探した。何かを観察するとき、彼女はいつも記録をとる習慣があった。データを収集し解析することが彼女の安心材料だった。その手は空を切り、彼女の視線は再び窓の外の霧に引き寄せられた。


「この動きは自然のものじゃない」


彼女は小さく呟き、昨日の小川で見た赤い影の記憶が鮮明によみがえった。水面で静かに脈打っていた赤い粒子が、今や霧全体に広がっているように見えた。彼女の頭は急速に科学的説明を求め始めた。「ナノマシンの誤作動」とラジオが言っていた言葉が彼女の頭に浮かぶ。微小機械が増殖し、環境を変化させている—そんな仮説が彼女の中で形になろうとしていた。


メアリーは隣で眠るティムを見つめ、「子供たちを守らなきゃ」という決意を新たにした。彼女の内なる声が全てに優先して告げていた。彼女は優しくティムの肩に触れ、


「ティム、起きて」


と囁いた。その声は落ち着いていたが、底に潜む緊張は隠せなかった。


ティムは目を覚まし、肩の毛布を掴んで体を起こして窓の外を見た。


「何だこの霧は...」


彼の声は低く、掠れていた。短い黒髪の中に混じる白髪が朝の薄明かりに光り、無精ひげの伸びた顎を擦る音が静寂の中で微かに響いた。彼は窓に近づき、冷たいガラスに手を当てた。指先に伝わる冷たさと同時に、鼻をつく焦げた臭気が彼の警戒心を呼び覚ました。


窓に付着した灰色の粒子が、まるで意思を持つかのように脈動していた。それは単なる物質というより、微細な生命体の集合のように見えた。粒子は窓ガラスを這うように動き、時には複雑なパターンを形成しては消えていく。


「昨日より近い」


とティムは呟き、胸に広がる不安を抑えられなかった。彼の農場での経験は、危険が迫る前の動物たちの不穏な動きを読み取る術を教えてくれた。今、彼の本能が危険を感じ取り、体が自然と身構えていた。森の奥からの唸り声は強まり、バンガローの壁が微かに震え始めた。


「メアリー、外に出る前に確かめるよ」


と彼は低い声で言い、靴を履こうとしたが、メアリーが彼の腕を掴んだ。


「待って、ティム。一緒に行きましょう」


彼女の手は冷たかったが、握る力には決意が込められていた。二つの目で見れば、より多くのことが分かる—彼女がいつも生徒に教えていた言葉だ。彼女の教師としての分析力と、ティムの自然への直感が合わさればより正確な判断ができる。同時に、彼女は夫を一人で行かせることはできなかった—家族は一緒にいるべきだという強い思いが彼女を動かしていた。


アールが寝袋からむくりと上半身を起こし、


「なんか黒っぽい...でも赤い影が混じってる」


と声を上げた。彼は窓に駆け寄り、冷たいガラスに触れた瞬間、バンガロー全体に微かな振動が走った。地面からの振動なのか、空気中の圧力変化なのか、それとも窓を叩く霧の力なのか、アールの科学的好奇心が原因を探り始めた。


「この様子を記録しなきゃ」


と彼は呟き、タブレットを手に取って霧の様子を撮影し始めた。スクリーンには「不明なエラー」という警告が次々と表示されていく。彼の目は観察者の鋭さで霧を捉えていた。


「これはナノマシンの暴走だよ、絶対そうだ」


と彼は声を震わせたが、その瞳には恐怖と同時に科学的好奇心が宿っていた。これは彼がタブレットの科学雑誌で読んだ内容が現実になったものだ。微小ロボットが制御不能になり、増殖して環境を変化させる—SF小説のようなシナリオが目の前で展開していた。


ヴァージニアは毛布を肩に引き上げ、窓の外を恐る恐る見つめた。


「昨日より全然光ってる!」


ジュディは目をこすりながら起き上がり、


「怖いよ...」


と泣きそうな声で言った。彼女は「ウーちゃん」を探し、


「ママ、霧がお化けみたい」


と震える声で言った。彼女の無邪気な世界が崩れ始め、恐怖が幼い心に広がっていた。彼女の直感は、この赤い霧が単なる天候現象ではないことを感じ取っていた。


「ウーちゃん、隠して」


と彼女は小さな声で囁き、ぬいぐるみを毛布の下に押し込んだ。彼女の行動には子供特有の思考が表れていた—大切なものを隠せば、悪いものから守れるという単純な論理。しかし、その単純さにこそ真実があった。家族全員が何かから身を隠したいと感じていたのだから。


霧がドアの隙間から滲み出すように入り込み、室内の空気が重くなっていくのを全員が感じていた。寒さよりも、空気そのものが変質したような感覚だった。塵の匂いに混じって、金属的な臭気が強まり、喉が乾く感覚が全員を襲った。家族の声が重なり、不安と混乱が渦巻いた。


メアリーは子供たちを抱き寄せ、


「大丈夫、大丈夫よ」


と囁いたが、その声には自信がなかった。彼女の頭は目の前の現象の説明を求めていた。少しでも未知の現象を理解したいという欲求に駆られていた。母親として、彼女は説明よりも安全も求めていた。この矛盾する二つの思いが彼女の心を引き裂いていた。


「ティム、どうする?」


と彼女は夫を見つめ、その声には決意と恐怖が入り混じっていた。


ティムがドアに手をかけた瞬間、


「下がれ、メアリー!」


と彼が叫んだ。彼の直感が、差し迫った危険を感じ取っていた。しかしその警告と同時に、状況は一気に変化し始めた。


■タイムリープ


森の奥からの唸り声が急激に高まり、耳をつんざく轟音へと変わった。その音は通常の音波のように空気を伝わるのではなく、皮膚から直接体内に侵入するような感覚があった。バンガローの壁が激しく震え、トタン屋根が軋むような音を上げる。壁の板が剥がれ落ち、窓ガラスがひび割れ始めた。


赤い粒子が霧の中で渦を巻き始め、急速に膨張していった。無数の小さな点が統合されて、より大きなパターンを形成していく。まるで無数の細胞が一つの組織へと成長するかのようだった。


まるで無数の機械が一斉に起動したかのような振動音が連なり、空気そのものが震えているようだった。メアリーの思考は急速に状況を分析しようとしたが、現象の速度が彼女の理解を超えていた。「電磁波?放射線?ナノマシンのネットワーク形成?」科学的仮説が次々と浮かんでは消えた。


「下がれ!」


とティムが再び叫んだが、その声は轟音に飲み込まれた。窓ガラスが砕け散り、鋭い破片が室内に飛び込み、灰を舞い上げた。無数の細かな粒子が空気中に舞い、光を屈折させて奇妙な虹のような模様を作り出した。


ヴァージニアは本能的にスケッチブックを胸に抱きしめた。彼女の直感が、この瞬間を記録しなければならないと彼女に告げていた。しかし恐怖が彼女の体を凍りつかせ、鉛筆を握る指が震えていた。


アールはタブレットを強く握りしめ、画面に映る現象を記録しようとしたが、画面は既に赤い警告サインで埋め尽くされていた。「センサー過負荷」「システム異常」「データ破損」という警告が次々と表示され、彼の理性と子供としての恐怖が激しく衝突していた。


突如として白い光が室内を包み込み、全ての視界を焼き尽くした。それは太陽のように眩しく、しかし熱を感じさせない不思議な光だった。高周波のノイズが頭蓋を貫き、家族の叫び声が断片的に響き渡る。言葉にならない音、感情そのものが声になったような叫び。


「ティム!」


というメアリーの叫び。妻としての彼女の声だった—夫を失う恐怖に満ちた叫び。その声には彼女の科学者としての冷静さは微塵もなく、純粋な感情だけがあった。


「何だこれ!?」


というアールの混乱した声。科学的好奇心と恐怖が混ざり合った叫び。彼の論理的思考が完全に崩壊し、残ったのは原始的な恐怖だけだった。


「やめて!」


というヴァージニアの悲鳴。彼女の繊細な感性が、この現象の異常さを全身で感じ取っていた。彼女の目は、色と形の乱れを通常の人間より鋭く感じ取っていた。


「パパ、ママ!」


というジュディの泣き声。彼女の無邪気な世界が完全に崩れ落ちた瞬間の叫び。子供の純粋さが、この異常を受け入れられないと拒絶していた。


全ての声が重なり、混沌が極限に達した。個々の存在が光の中で溶け合い、家族の絆だけが薄い糸のようにつながりを保っていた。


メアリーは子供たちに向かって手を伸ばし、


「こっちよ!」


と叫んだが、光の奔流に弾かれるように体が浮き上がった。重力が消失したかのような感覚。彼女の理性は完全に麻痺し、母親としての本能だけが彼女を動かしていた。


「みんなを!」


とティムが喉を裂くような声で叫び、指先がメアリーの腕に触れそうになるが、その瞬間、光が全てを覆い尽くした。二つの手が宇宙の中で擦れ違うように、一瞬の接触の後に引き離された。彼の農夫としての強さも、父親としての決意も、この現象の前では無力だった。


重力が消え、暖炉の火が一瞬で消えた。灰が渦を巻き、アールはタブレットを握りしめながら


「記録が...!」


と叫んだが、画面は既に暗転していた。データを失うことが、彼にとっては現象そのものに飲み込まれることと同じほどの恐怖だった。


ジュディは


「ウーちゃん!」


と泣き叫び、大切なぬいぐるみが光に吸い込まれていくのを見た。彼女の小さな世界の中心が、目の前で消えていく恐怖。


家族全員が霧と光の渦に呑み込まれ、互いの距離が広がっていく。メアリーの胸には子供たちを守る決意が燃え続けていたが、彼女の手は虚空を掴むだけだった。彼女の理性も本能も、どちらも無力感に打ちひしがれていた。科学者としてのメアリーは、自分たちが宇宙の法則に対して何も抵抗できないことを知っていた。


光の中で時間が歪み、メアリーの視界に家族のシルエットが浮かんでは消えた。ティムの背中、アールの宙に舞うタブレット、ヴァージニアのばらまかれたスケッチブックの紙片、そしてジュディの


「ウーちゃん、どこ...」


という弱々しい声。


光が最高潮に達し、突然全てが暗転した。騒音が消え去り、深い静寂が耳を圧迫する。重さも軽さもない虚無の感覚。メアリーの意識が闇に沈み、家族の声が遠ざかっていく。彼女の体は急に重くなり、冷たい地面に叩きつけられる感覚が一瞬走った。


■2038年へ


メアリーが目を開けると、窓の向こうは見知らぬ荒野だった。


コンクリートの残骸が風に削られ、灰色の塵が舞い上がっている。バンガローの壁は崩れ落ち、暖炉の石枠だけが無言の証人のように残されていた。風が壁の隙間を吹き抜け、甲高い音を立てている。天井は完全に消失し、代わりに鉛色の空が広がっていた。


メアリーは言葉を失い、ただ崩れた壁の冷たさに手を当てた。昨晩、家族が集まって暖を取った暖炉は砕け、すべてが灰と埃に覆われていた。彼女の観察眼が、この光景を夢ではなく現実だと告げていた。教室で教えていた物理法則が頭を駆け巡る—エネルギー保存則、熱力学第二法則、時空の相対性理論。しかし、どの法則もこの状況を説明できなかった。


空は鉛色に染まり、遠くでは雷鳴が低く唸っていた。しかし、それは自然の雷ではなく、何か巨大な機械が作動する音のようにも聞こえた。


ティムが地面から立ち上がり、


「何だここは...」


と呻いた。彼のジャケットは所々破れ、土と灰にまみれていた。彼の直感は、この風景が示す時間の経過を感じ取っていた。農場で春から秋への移り変わりを見てきたように、彼は周囲の風景から多くの時間が流れたことを本能的に理解していた。


「メアリー! アール!」


と彼は叫んだが、その声は荒野の広がりに呑み込まれた。彼の声には父親としての焦りと、夫としての心配が混ざり合っていた。


突然、床に転がっていたラジオが唸りを上げ、雑音の中から掠れた声が漏れ出した。機械式のラジオは、13年前のものと同じデザインだったが、ひどく錆びつき、端子が露出していた。


「今は2038年6月26日だ。お前たちは隔離フィールドにいた」


機械的な声がラジオから響き、メアリーの目が驚愕で見開かれた。時間についての彼女の知識と現実が激しく衝突した。相対性理論の本の一節が脳裏に浮かぶ—「質量とエネルギーの極端な集中は、時空を歪める可能性がある」


「13年後!?」


と彼女は震える声で囁き、ティムを見つめた。彼女の脳は急速に可能性を計算していた—タイムワープ、時間の歪み、相対性理論の極端な応用。しかし、どの理論も満足のいく説明を与えてくれなかった。


ティムはラジオを拾い上げ、


「メアリー、落ち着け。とにかく落ち着け!」


と低い声で言い、彼女の手を強く握った。彼の実践的思考が、状況の分析よりも行動を優先させていた。農場での危機対応と同じように、彼は具体的な次の一歩を探していた。


アールが起き上がり、


「未来!?」


と叫んだ。彼は割れたタブレットを灰の中から掘り起こし、


「データ...全部消えちゃった…」


と呟いた。科学少年としての彼の記録への執着が、この驚異的な現象の記録を失ったことに深い喪失感を覚えていた。彼の理論的思考は、このタイムジャンプを量子の不確定性や時空の歪みで説明しようとしていたが、12歳の知識ではその現象を完全に把握することはできなかった。


ヴァージニアは


「どこなの、ここ」


と小さく囁き、スケッチブックを胸に抱えた。しかし紙は風にあおられ、擦れる音を立てていた。彼女の感性が、目の前の荒廃した風景を受け入れられずにいた。彼女が描いてきた色鮮やかな世界とはあまりにも異なる、灰色と黒だけの光景。「色が消えた世界」と彼女の感性が理解した。


ジュディは


「ウーちゃん、どこ?」


と泣きながら、灰の中を小さな手で探り始めた。彼女の世界の中心であるぬいぐるみの喪失は、彼女にとって最大の恐怖だった。その手には子供特有の希望があった—必死に探せば見つかるという純粋な信念。


メアリーは子供たちを抱き寄せ、


「ティム、どうするの?」


と囁いた。彼女の声は震え、カーディガンの袖を強く握りしめた。彼女の頭は理論的説明を、母親の心は安全と確信を求めていた。科学教師としての論理的思考と、母親としての直感的判断が交錯し、どちらも明確な答えを示せなかった。


ティムは家族を一箇所に集め、


「みんな、くそっ...落ち着け! 落ち着け!」


と叫んだ。彼の声は荒野に響き渡り、家族の手を力強く握ったが、その掌には冷や汗が滲んでいた。彼の力強さと、家族への愛が彼を支えていた。


遠くには赤い影が群れをなして蠢き、振動音が次第に近づいてくるのが感じられた。霧とは異なる何か—より集中し、より明確な意図を持つ存在が彼らに迫っていた。荒野の風が唸りを上げ、ティムは


「メアリー、アール、こっちへ来い!」


と家族を暖炉の残骸に引き寄せた。砕けた石の枠だけが残った暖炉は、かつての安全と安らぎの象徴が崩壊した姿だった。


彼は崩れた壁に背を預け、


「俺が守るからな」


と呻き、メアリーの顔を見つめた。彼の決意は揺らいでいなかった—どんな未来であろうと、家族を守るという使命だけは変わらなかった。


メアリーは


「ティム、私もみんなを守るからね」


と静かに答え、母親としての強さが彼女の声に宿った。科学を教えることと子供たちを守ることの境界が曖昧になり、彼女の中で一つの強さとなっていた。


家族は暖炉の残骸に寄り添い、荒野の風がコンクリートの隙間を抜けて唸りを上げる中、互いの温もりを感じていた。メアリーの目には強い決意が宿り、彼女の視線は遠くに見える赤い影へと鋭く注がれていた。そして異界の闇の中、家族の絆だけが希望の灯として微かに輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ