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灰の彼方へ(旧版)  作者: 大西さん
第1章 平穏の終わり
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第4話 温もりと迫る唸り

時間: 2025年6月20日、午後8時15分

場所: ドーセットの森の中、バンガロー


バンガローの室内は暖炉の火に照らされ、夜の穏やかな時間が流れていた。暖炉の中で薪が燃え、オレンジ色の炎が壁に柔らかな影を投げかけていた。乾いた木材が弾ける音と、灰が舞い落ちる微かな音だけが夜の静寂を満たしていた。


窓の外では、霧の隙間からさそり座が低く輝き、その赤い主星アンタレスが森の奥に広がる闇に小さな希望を灯していた。しかし、その静寂を切り裂くように、森の深部から低い唸りが断続的に響き、窓ガラスが微かに震えた。風が強まり、松の枝が擦れ合う不規則な音が耳に届き、バンガローの錆びたトタン屋根が軋みを上げる。窓枠に映る赤い影が月光に照らされ、かすかに脈動するようにも見えた。


メアリーは暖炉のそばに座り、子供たちを冷えた空気から守るように毛布を掛けていた。


「暖かくしてね」


と優しく声をかけ、各々に毛布を細かく調整する。彼女は窓の外に目をやり、唸りに耳を澄ませる。


「風じゃないよね、この音」


その言葉は質問というより確認だった。自分の観察を声に出すことで、頭の中を整理しようとする—いつもの科学者の癖だ。彼女の眼鏡に火が反射し、その光が彼女の不安を隠すようだった。ティムは暖炉のそばに立ち、家族の緊張を解くように明るく声を上げた。


「マシュマロ焼くぞ!」


彼は破れかけたオリーブ色のジャケットの袖をまくり、焚き火用の薪を手に持った。その所作には、子供の頃から培われた自然との親和性が表れていた。農場での生活が彼の体に染み付いた動き—薪をなるべく煙が出ないように組む技術、炎の具合を見て火力を調整する知識。しかし、その笑顔の裏に潜む警戒心をメアリーは見逃さなかった。


「この音…何だ?」


ティムの低い声には不安が混じり、瞳の奥に緊張が宿っていた。彼は暖炉の火を見つめ、薪をくべると火花が高く舞い上がり、温かさが家族全体を包み込んだ。彼は自分自身に言い聞かせるように言った。


「せっかくの夜なんだ、楽しもうぜ」


その言葉は明るかったが、彼の視線は窓の外の赤い影に引き寄せられていた。かつて農場で害獣が入り込んだとき、同じような違和感を覚えたことがある。「動物は人間より先に危険を察知する」と父が言っていた言葉が脳裏に蘇った。


アールは暖炉の前に膝をついて、実験でデータを取るときのような真剣さでマシュマロを串に刺していた。


「熱で糖が溶けるんだよね」


膝に置いたタブレットPCの画面は小川のデータを表示していた。彼は数値とグラフを交互に見ながら、小さく呟いた。


「小川のデータが取れたよ」


彼のタブレットには、水質の示すグラフが表示されていた。通常の水と同じように溶存酸素、pH値、濁度の数値は一定範囲内に収まっていた。


「数値的にはちゃんと浄化されていたみたい」


彼の声には興奮が混じっていたが、突然響いた唸り声に表情が曇った。


「またあの音!今度は近いよ!」


彼の子供としての不安が交錯し、彼の表情に複雑な感情が浮かんだ。


アールは窓に近づき、霧の向こうを見ようとするが、闇と赤い光だけが視界に広がっていた。


「外、見てきていい?」


とティムに尋ねたが、メアリーの鋭い声が即座に彼を止めた。


「だめよ」


子供の安全を第一に考える母親の本能がはっきりと現れた瞬間だった。メアリーの声には、議論の余地を与えない強さがあった。


アールはその言葉に従い、マシュマロを暖炉に近づけた。甘い香りが立ち込める中、少年は脳裏に友人ジェイクの姿を思い浮かべた。


「ジェイクなら、この音をゲームの効果音に使えって言うかな」


彼は日常の記憶に安らぎを見出そうとした。科学部の部室で二人でプログラミングをしていた時間、タブレットでゲームのサウンドエフェクトを作っていた日々が彼の心を温めた。


ヴァージニアはスケッチブックを膝に置き、炎の光に映える様子をじっと見ていた。


「美味しそう!このマシュマロの絵、描くわ!」


彼女の白いセーターは火の光で温かみを帯び、金色の髪が肩に落ちていた。彼女は今この瞬間を大切に思った—家族の温もり、炎の揺らめく形、安心できる場所。この光景を忘れないように、心の中で色や形を記憶していた。一年前のクリスマス、メアリーから贈られたスケッチブックの最初のページには、家族全員の笑顔が描かれていた。今夜もそんな平和な一枚を加えたいと思った。


しかし、窓の外の動きが彼女の目を引いた。


「木が動いてるみたい…」


彼女の声は震え、窓の外の暗闇を見つめる眼差しには恐怖が宿っていた。昼間の小川で見た異様な光景が脳裏によみがえり、彼女はスケッチブックを胸に抱きしめた。スケッチブックのページには、赤い光のパターンが細密に描かれていた—彼女の直感が捉えた異常のリズム。幾何学的な形状、規則的な振動パターン、それは明らかに自然界のものではなかった。


彼女は新しいページを開き、今見ている光の動きを描き始めた。線が交差し、渦を巻き、赤い光の動きが紙の上に形になっていく。


「やっぱり描いておかなきゃ」


彼女は小さく呟いた。誰かに見せなきゃいけないという気持ちが、恐怖より強くなっていた。


ジュディは暖炉のそばで元気に笑っていた。


「マシュマロ大好き!」


金髪のツインテールが火の光に揺れ、小さな手で串を握り、得意げな表情でマシュマロを火に近づける。彼女の無邪気さは、この緊迫した状況の中で唯一の純粋な光だった。


「ウーちゃんも食べる?」


彼女はぬいぐるみに話しかけ、その耳を優しく握った。彼女の世界では、まだすべてが安全で、温かく、愛に満ちていた。しかし窓の外からの唸り声が激しくなり、彼女の表情が一変する。


「外の音…怖い」


彼女の無邪気な世界に、初めて恐怖が忍び込んだ瞬間だった。ウーちゃんに語りかけていた声が急に途切れ、小さな唇が震えた。


ジュディは毛布に身を包み、震える声で訴えた。


「ママ、音やめてほしい」


彼女の小さな手がメアリーの腕を探り、母親の温もりに安心を求めた。


「大丈夫よ、ただの風だから」


メアリーは安心させるように笑顔を作り、娘の頭を撫でた。その言葉が嘘であることは、彼女自身が一番よく知っていた。しかし、この状況で娘を守れるのは真実ではなく、安心感だと彼女は判断していた。


彼女の胸の内では「この音、自然じゃないわ」という確信が渦巻いていた。化学反応、電磁気現象、分子の共振—様々な可能性が彼女の頭の中で次々と検証され、却下されていった。水中で見た赤い光、森の中で聞こえる唸り声、そして窓枠に映る赤い影。これらは関連している、彼女はそう確信していた。授業で説明したどの原理も目の前の現象を説明するには不十分だった。


ティムは家族の不安を和らげようと努めながらも、警戒心を解くことはできなかった。


「気にしないで楽しもう」


彼は暖炉に戻って薪を追加し、炎が高く燃え上がるのを見つめた。火の温もりが家族を守る砦のように感じられた。しかし、窓の外の状況が気になって仕方がなかった。赤い影が増え、まるで群れをなして林の周りを漂っているようだった。


「木が動いてるのか?」


彼は眉をひそめ、背筋が冷えるのを感じた。農場で育った彼は、自然の動きを読むことに長けていた。しかし、これは自然の動きではなかった。木々が風もないのに揺れ、その間から赤い光が零れ落ちる。これは彼がこれまで見たどの現象とも違った。


「メアリー、ちょっと外見てくる」


と低く告げたが、メアリーの声が彼を止めた。


「待って、ティム。一緒に考えましょう」


彼女は夫の手を握り、共に状況を判断しようとした。二つの異なる視点から問題を見る—彼女が生徒たちに教えてきた問題解決の基本だった。ティムは汗ばんだ指で妻の手を握り返し、彼女の決意に応えるように頷いた。


メアリーは家族の気を紛らわせようと空を指差した。


「星がきれいだね」


さそり座は相変わらず低く輝き、赤いアンタレスが異様な赤い霧と呼応するかのようだった。しかし、メアリーの視線はすぐに窓枠の異変に戻った。


「赤い影、増えてる」


彼女の声は震え、暖炉のそばで毛布を強く握りしめた。


「朝に周りを確認しよう」


と提案するが、その声には確信がなかった。彼女は常に証拠に基づいて判断するよう心がけていた。しかし今、彼女の直感は警告を発していた—朝まで待つことができないかもしれないと。


唸りが近づき、バンガローの床が微かに震え始めた。ティムは身を乗り出し、


「動物じゃない」


と呻き、窓に近づいて霧の奥を見つめた。赤い影が月光に浮かび上がり、不気味に脈打っていた。それは点滅するリズムを持ち、まるでコードでも伝えているかのようだった。


「この霧、生きてるみたいだ」


窓の外では、霧が濃くなり、赤い影がより鮮明に見え始めていた。唸り声は強まり、バンガローの壁が微かに震えた。暖炉の炎が風で揺れ、壁に不安定な影を投げかけた。


暗闇の中で、ティム一家は互いに寄り添い、未知の恐怖に対して家族の絆だけを頼りにしていた。暖炉の火が家族を照らす一方で、窓の外では赤い光が次第に彼らを取り囲んでいた。

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