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灰の彼方へ(旧版)  作者: 大西さん
第1章 平穏の終わり
3/31

第3話 残響する小川

時間: 2025年6月20日、午前10時30分

場所: ドーセットの森の中、バンガローおよび近くの小川


シルバーのミニバンが霧の帳を抜け、ドーセットの森の奥深くにたどり着いた。タイヤが砂利道を噛み、車が止まると空気中に細かな塵が舞い上がった。白い靄が松の木の間を漂い、視界の端で薄く揺らめいている。


目の前に現れたバンガローは古びていたが、どこか落ち着いた佇まいだった。屋根のトタンは錆びて赤茶色に変色し、玄関前のポーチには木製の椅子が傾いて置かれていた。壁の木材はところどころ風雨で傷み、窓ガラスは埃で曇っていた。


メアリーが助手席から降り、深呼吸した。


「いい場所だね」


と彼女は囁きながら荷物を降ろす。空気を肺いっぱいに吸い込み、少しだけ緊張が解けるのを感じた。周囲を見渡し、何かを思い出したように眉をひそめた。


「思い出したけど、この辺は昔、ウェイド・インダストリーズの公害で問題になった場所だったわね。10年くらい前、環境汚染について授業で取り上げたことがあるわ」


彼女の記憶が鮮明によみがえる。教室の黒板に「企業責任と環境倫理」と書いた日、生徒たちにこの森の浄化プロジェクトについて説明していた。プロジェクターに映し出された汚染された小川の写真が、今彼女の脳裏にあった。


「湿気はあるけど、休暇にはぴったり。浄化処理も終わったみたいだし…」


彼女の声には、道中の恐怖が嘘だったと思いたい願望が混じっていた。眼鏡のフレームを直しながら、彼女は科学者として状況を分析しようとした—湿度、温度、気圧。この場所には異常な要素はないのかもしれない。


ティムも車から出て、伸びをした。農場で育った彼の体は、本能的に自然の状態を感じ取ろうとしていた。


「そうだな、いい場所だ」


と言いながら、彼は周囲を見回した。しかし、彼の目は霧が木々の間を漂う様子に不安げに留まっていた。耳をすませば、遠くから聞こえる鳥の鳴き声は不自然に少ない。父から教わった森の法則—鳥が鳴かない森には何か潜んでいる。


「この霧、さっきより薄くなったかしら」


メアリーが呟いた。彼女は少し安心したような表情を見せるが、何か見落としている気がしてならなかった。理科教師としての分析的思考が、「ナノマシン」という言葉を脳内で反芻させていた。授業で見せた微小技術のビデオが蘇る—血管の中を移動する微小ロボット、細胞を修復する分子機械。自然界に解き放たれた微小機械—その影響は?その危険性は?彼女の知識はそこで途切れていた。


アールが車から飛び出し、バンガローに向かって走った。


「やっと着いた!」


と叫んだ。彼の声は森の静寂を破り、木々の間に反響した。タブレットを片手に持ち、画面には地図アプリが表示されていた。


「水質調べたいな、タブレットでデータ取れるかな?」


彼の科学的好奇心は、恐怖さえも冒険に変えてしまうようだった。学校の理科クラブで行った水質検査の記憶が彼の目を輝かせる。彼は微細な実験データをタブレットに記録し、放課後何時間も分析していた少年だった。


ヴァージニアがドアを開け、紫色のバックパックを肩にかけて車から降りた。


「やっと森を描けそう」


と彼女は小さく呟いた。周囲の空気を吸い込み、その中に含まれるものを感じ取ろうとするかのように、彼女は目を細めた。


「木がいっぱいで嬉しい」


と笑顔を見せるが、霧の奥に目をやると一瞬表情が曇った。彼女の感性は、風景の美しさと同時に、その中に潜む異質なものも感じ取っていた。眠そうに垂れた松の枝、風もないのに揺れる灌木、そして赤い影が見え隠れする林床。


彼女はバックパックからスケッチブックを取り出し、手早く線を引き始めた。松の木の形、バンガローの佇まい、そして…彼女は鉛筆を止め、不思議そうな表情を浮かべた。視界の端で見える赤い光。描くべきか、無視すべきか。彼女の指が紙の上で微かに震えた。


ジュディは最後に車から降り、ウーちゃんを高く掲げた。


「ウーちゃん、バンガロー好き?」


とぬいぐるみを抱きながら言った。彼女の無邪気な笑顔は、家族全員の心を少しだけ和ませた。


家族がバンガローに入ると、室内は薄暗いが穏やかな雰囲気に包まれていた。天井の梁には埃が積もり、床板が足音に合わせて軋んだ。暖炉の石枠が静かに佇み、壁にはまだ異変の兆候は見られなかった。部屋の中央にはオーク材のテーブルがあり、窓からは斑模様の日光が床に落ちていた。


メアリーがクーラーボックスを開け、中から食べ物を取り出した。


「チキンナゲットもあるよ」


と笑った。彼女は普段通りの声で話そうと努め、子供たちに安心感を与えようとした。サンドイッチをアルミホイルから取り出し、水筒の蓋を開けるとレモンの爽やかな香りが広がる。親子遠足の準備をするときのように、彼女は効率的に食事の準備を進めた。


「ティム、暖炉お願い」


と彼女は夫に目をやった。平凡な日常の行為に、彼女は僅かな安心を見出していた。


ティムが暖炉に近づき、腰をかがめた。


「火を起こそう」


と薪を手に取った。薪は湿っていて、表面に苔が薄く付き、指に冷たい感触が残る。マッチを擦るとオレンジの炎が揺れ、木の焦げる匂いが室内に漂った。火が壁に柔らかな影を投げ、家族の顔を温かな光で照らす。


炎を見つめながら、ティムは農場にいた幼い頃を思い出していた—父が薪を割り、母が暖炉で料理を作る光景。彼は深く息を吸い込み、その記憶の中に安らぎを見出そうとした。しかし、窓の外の霧が彼の思考を現在に引き戻した。


アールが地図アプリを開き、タブレットの画面を家族に見せた。


「地図に小川あったよ!」


と彼は興奮した声で言った。


「ここから歩いて5分くらいだって。地形データによると、標高差も少ないし、行きやすいはずだよ」


彼の声には興奮が混じり、必要以上の情報を伝えようとしていた。ピクセルごとの地形差、水流の方向、森の密度まで彼は分析していた。


メアリーはアールの知識欲を微笑ましく思いながら頷いた。


「腹ごしらえしたら行ってみようか」


家族が暖炉のそばで軽く食べる。チキンナゲットの油っぽい香りが漂い、ジュディが両手を叩いた。


「美味しい!」


メアリーは子供たちの笑顔を見て、一瞬だけ車中の不安を忘れた。こんな風に、教室で生徒たちの理解の表情を見たときのような満足感。家族の日常の風景が、彼女の心を穏やかにした。


バンガローから数分歩くと、森の奥に小川が現れた。幅2メートルほどの流れで、水は意外なほど澄んでいた。岸辺の葦が風に揺れ、松の木が水面に長い影を落としていた。水面には微かな泡が浮かび、不規則に形を変えながら流れていった。


木製の看板が立っており、「2025年6月10日浄化済み - ウェイド・インダストリーズ」と刻まれていた。文字は新しく、塗料の匂いがかすかに残っていた。


メアリーはその看板を見て眉をひそめた。環境科学の授業で使ったスライドが頭に浮かぶ—工場排水の処理方法と浄化技術の発展。水質汚染の指標となる化学物質の表、閾値を超えると危険となる濃度、そして最新の浄化技術の図。


「最近浄化したのね」


と彼女は呟き、頭の中で情報が自然と整理されていくのを感じた。授業準備のときのように、関連事項が次々と浮かんでくる。


「ニュースで不完全だって言ってたけど」


ナノマシンによる環境浄化—新しい技術、未知の影響。思い出すのは、生徒たちに語った警告だった。「技術の進歩は両刃の剣です。私たちは利益だけでなく、予測不能のリスクも引き受けなければなりません」


メアリーは子供たちを注意深く見守りながら、できるだけ小川に近づけないようにしていた。いつの間にか、彼女は子供たちと小川の間に立ち、保護者の壁となっていた—教室での本能的な立ち位置だった。


ティムが看板の文字を読み、眉をひそめた。


「そうだな、でも妙だ」


と彼は呻き、Tシャツの袖をまくって水に手を浸した。水面に赤い結晶が浮かび、指に触れると微かな熱を感じた。その熱は自然なものではなかった—電気的な、あるいは化学的な熱。金属が低温で燃えるような感触。機械油のような匂いが微かに鼻をつく。


「浄化済みなのに…金属の気配がする」


農場での経験から、彼は自然の水と人工的に処理された水の違いを知っていた。雨水には独特の清涼感があり、川には生命の鼓動がある。しかしこの水は…無機質で、どこか不自然だった。


メアリーはティムの表情の変化に気づき、声を低くして言った。


「ナノマシンの残りかしら。ティム、子供たちを離して」


母としての警戒心が声を鋭くする。彼女の指が首元のペンダントに触れ、その冷たさが彼女を落ち着かせた。


アールは好奇心に負け、両親の様子も構わず小川に駆け寄った。


「冷たい!」


と手を水に浸した。


「水質調べたいな」


と呟きながら、タブレットのカメラで水面を撮影し始めた。しかし、水面に赤い影が浮かび、かすかに振動するのに気づく。光が水中から発せられているようだった。


「何だこれ?」


彼の科学的思考が活性化し、タブレットを水面に近づけて撮影しようとした。画面には「異常な光学パターンを検出」という警告が表示される。彼が学校で見た実験では現れなかった現象だった。


ヴァージニアは岸辺にしゃがみ、スケッチブックを開いた。バックパックから色鉛筆を取り出し、水面の様子を描き始めた。


「キラキラしてるけど…変だよ」


と囁き、スケッチブックを握る手が震えた。岸辺にしゃがみ、水を覗くと、赤い影が揺れて不思議な光を放つのが見えた。通常の水面反射とは全く異なる光の動きだった。彼女はこの光を見て、なぜか恐怖ではなく優しさを感じた。今までみた赤い光とは何かが違う。


「光が...話してる気がする」


彼女はほとんど聞こえないほど小さな声で言った。


彼女のスケッチブックには、水面の様子と共に、光のパターンが細かく描かれていた。線が交差し、波紋のように広がり、彼女の鋭い目が見つけた細かな動きや形が紙の上に残っていた。ヴァージニアは自分でも気づかないうちに、誰も気づいていないものを記録していた。


ジュディは純粋な子供らしさで、ウーちゃんを片手に持って小川の浅い部分に近づいた。


「ウーちゃん、水遊び!」


と笑い、水をかき回した。赤い影が波紋に混じり、水面が一瞬黒く濁った。光のパターンが変化し、より激しく点滅し始めた。


「ウーちゃん、汚れちゃう!」


と彼女は慌てたが、メアリーがすかさず駆け寄った。


「ジュディ、もうやめましょう!」


と声を上げ、娘の手を引いた。


最年少の子供の無邪気な行動が、メアリーの心に緊張を走らせた。彼女はジュディの手を強く握り、無意識に体を少し前に傾け、娘を守る姿勢を取った。実験中に生徒が危険な試薬に近づいたときと同じ反射的な動きだった。ただ今回は、娘の安全が何より優先だった。


ティムも同じ危機感を抱いていた。水中の異変を感じ取った彼は、すぐに立ち上がった。


「メアリー、戻ろう」


彼は家族を先導するメアリーの後ろを歩きながら、何度も肩越しに小川を振り返った。水面の赤い模様は、彼の農場での経験では説明できない現象だった。光が水中ではなく水の外からも見えるとは思えなかった。光は水に浮かぶのではなく、水そのものが発光しているようだった。


メアリーは子供たちを先導し、バンガローへと急いだ。夫の力強い存在が背後にあることで、彼女は少し安心できた。彼女の手はまだジュディの小さな手をしっかりと握り、アールとヴァージニアを急かす声にも優しさを忘れなかった。


「急ぎましょう、でも走らないで」


彼女は子供たちに言った。実験中の事故の際に生徒たちに言うのと同じ言葉で。「パニックはさらなる事故を招きます」という授業での教えが、今彼女自身の行動指針となっていた。


バンガローに戻ると、室内はまだ暖炉の温もりで包まれていた。アールが暖炉のそばに座り、タブレットを手に取った。


「小川、何か変だったね」


と言いながら、撮影した映像を再生し始めた。彼は科学者のように分析を始めた。


「光の動き、規則的だよ。ランダムじゃない」


彼は眉を寄せ、データの中に答えを見つけようとしていた。理科クラブで学んだパターン認識を思い出し、映像をフレームごとに分析する。「これはプログラムされた動きじゃないかな…」と彼は気づいていた。


ヴァージニアは暖炉の横の椅子に腰掛け、スケッチブックを膝に置いた。


「水のキラキラ…怖かったけど、あのキラキラだけは違ってたかも」


と囁き、描いた絵を見つめた。窓をちらりと見ると、松の枝が揺れるだけだが、


「でも…何か見てる気がする」


と彼女は感じていた。彼女のスケッチから、赤い影の正体が浮かび上がるような気がした—規則的なパターン、幾何学的な形状、意図的な動き。彼女の指が無意識に新しいページを開き、感じたことを形にしようとしていた。


ジュディはメアリーの膝に座り、ウーちゃんを抱きしめていた。


「ウーちゃん、水遊び楽しかったね」


と笑い、メアリーの腕に寄り添った。暖炉の火を見つめ、


「あったかい!」


と囁く。彼女の無邪気さだけが、バンガローの中に日常の安らぎを保っていた。


メアリーがティムに視線を送り、小さな声で尋ねた。


「ティム、昼過ぎに晴れるかしら」


彼女の声には普段の冷静さと、今感じている不安が混ざり合っていた。子供たちに聞こえないよう、声を低くして続けた。


「あの赤い光、どうみても自然現象とは思えないわ」


水面に見えた光の幾何学的パターンが、彼女には理解できなかった。授業で見せたナノマシンのビデオで、微小ロボットが集合して形を作る様子に似ていた。「もし本当にナノマシンなら…」という思いが彼女の心に重くのしかかった。


ティムはポーチに出て、空を見上げた。


「明日は晴れるといいな」


と彼は言ったが、その声には確信がなかった。彼は深呼吸し、森の香りを感じようとした。松の香り、湿った土の匂い、そして…かすかな金属臭。父から教わった自然の匂いとは違う。彼の農夫としての直感が、再び警告を発していた。遠くの雲が低く垂れ込み、小川で感じた不安が胸に広がっていた。


窓の外では、赤い影が水面に映る月のように静かに揺らめいていた。メアリーはそれに気づいたが、子供たちには見せないよう、さりげなく窓から離れた。彼女は子供たちの方を向き、普段通りの声で言った。


「夜はゲームでもしようね!」


彼女は家族を見回し、その存在に力をもらった。どんな危険があっても、彼らを守る—それがメアリーの唯一の確信だった。彼女の指が首元のペンダントに触れ、ティムとの約束を思い出す。どんな嵐が来ても、二人で乗り越える。

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