第2話 霧に潜む赤い影
時間: 2025年6月20日、午前9時45分
場所: A31号線、ドーセットへ向かう途中
シルバーのミニバンがA31号線を南西に進み、ロンドンの喧騒を遠くに置き去りにしていく。窓の外には丘陵地帯の牧草地が広がり、野草が風にそよいでいた。遠くの丘には苔に覆われた古い石垣が連なり、小さな村の赤い屋根が緑の中に点在していた。
メアリーは助手席で膝に広げた地図を手に持ち、指で道筋をなぞった。
「天気予報じゃ晴れのはずなのに…」
彼女は窓の外を見て呟いた。雲の端が次第に灰色に染まり、地平線の向こうでは赤みを帯びた光が不規則に明滅していた。朝に見たカラスの飛翔が脳裏によみがえる—何が彼らを怯えさせていたのだろう? 天候パターンについて教えた授業が鮮明に蘇る。霧は自然現象だ、通常は。でも今日の霧は...どこか異質だった。
彼女は地図を広げ直し、ドーセットの森を指でなぞった。
「あと2時間くらいみたいね」
言葉が途切れ、眉が寄る。子供の頃から、メアリーは嫌な予感がするとき左側の頭が微かにズキズキした。今、その痛みが徐々に広がっていた。窓の外を見ると、白い霧が道路脇の木々を包み込み始めていた。
「霧が出てきたな」
ティムがワイパーを動かし、フロントガラスについた水滴を払った。農場で過ごした少年時代、嵐の前触れを感じた夏の日を思い出す。あの時もこんな静けさだった。空気がじっと息を潜めているような瞬間。
「そうね、ゆっくり、慌てないでね」
メアリーが囁き、後部座席の子供たちに目をやった。三人の安全を願う気持ちが胸を満たす。
後部座席のアールは膝にタブレットPCを置き、科学雑誌のページをスクロールしていた。
「霧って水蒸気が冷えてできるんだよね」
彼は画面から目を離さずに言った。短い黒髪が額に貼りつき、彼は窓に顔を近づけた。少年科学者のように現象を分析しようと、霧の動きを観察していた。
「でも、この霧、変だよ」
彼がニュースアプリを開こうとするが、「圏外」の表示が出て、彼は小さく舌打ちした。
ヴァージニアも霧の異常に気づいていた。彼女は紫色のバックパックからスケッチブックを取り出し、窓際に移動した。
「この霧…なんか気持ち悪い~」
と彼女は呟き、吐息がガラスを曇らせた。彼女の鋭い目は、この霧が普通の気象現象ではないことを直感的に感じ取っていた。
彼女は霧の中に形を見ていた—動く影、流れる形、息をするような動き。描きたいという衝動と、見ないフリをしたい恐怖が心の中で葛藤した。彼女は小さく息を吸い込み、目を閉じた。暗闇の中で、霧の形がさらにはっきり見えた。これは想像ではない、確かに存在するものだと彼女は確信した。彼女は目を開け、決意を持ってスケッチブックを開いた。
「変なもの…でも描かなきゃ」
彼女の指が鉛筆を握り、震えながらも線を引き始めた。もしこれが本物なら、誰かに見せなければ。色鉛筆の中から灰色と赤を選び、紙の上で交差させる動きは、霧そのものの動きに似ていた。
ジュディはウーちゃんを抱きしめ、不安そうに窓の外を眺めた。
「霧の中ってお化け…いるかな?」
と小さな声で尋ねた。ぬいぐるみの耳を握る小さな手に力が入る。
「大丈夫、いないよ」
メアリーが振り返り、笑顔を見せるが、その目には懸念が滲んでいた。彼女はヴァージニアのスケッチブックを見て、一瞬息を呑んだ。娘が描き始めていたのは、彼女自身も霧の中に感じていた形—渦巻く粒子の群れ、中心に赤い核を持つ雲のような存在。教科書でも、メアリーの知識でも、目の前の現象を説明するには不十分だった。
車が進むにつれ、霧は濃くなっていった。メアリーは窓ガラスについた水滴の向こうに、小さな赤い点が漂っているのに気づいた。その点は微かに脈打つように瞬き、霧の中で揺れていた。生命体のように。
「あれ…赤い点が浮いてる」
彼女は窓を少し開けた。湿った空気が頬を撫で、冷たさが肌に残る。しかし、それだけではなかった。空気に焦げたような金属臭が混じり、鼻を刺す鋭さが喉の奥まで染み込んだ。中学校の実験室で化学物質が反応したときの匂い—実験の危険信号。
「土の香りじゃない…焦げた金属の臭いだわ」
指先が震え、窓を慌てて閉めた。
ティムも同じ匂いを察知していた。彼の農場での経験は、自然の匂いと人工物質の違いを敏感に区別できた。
彼は眉をひそめた。幼いころ、父から聞いた異常気象の話を思い出す。草原の向こうから黒い雲が迫ってきたとき、「自然は時に警告を発するものだ」と父は言った。しかし、これは自然なものではないという確信が彼の中で強まっていた。
アールが窓に顔を押し付け、急に身を乗り出した。
「霧の中に何かある!赤い光、見える?」
彼の科学への好奇心は恐怖よりも強く、タブレットを手に霧の動きを録画し始めた。理科クラブで習ったように、観察データを記録する—彼はそう自分に言い聞かせた。しかし、指がタブレット上で滑り、何度も撮影ボタンを押し損ねてしまう。
ヴァージニアは身を縮め、スケッチブックをきつく握りしめた。
「見えるよ…赤い何か」
彼女の鉛筆が紙の上で立ち止まり、手が小刻みに震えた。目に見えるものを描くことはできても、この恐怖の感覚を表現できないもどかしさに苦しんでいた。彼女は目を閉じて深呼吸し、再び鉛筆を動かし始めた。線が交差し、渦を描き、彼女の内なる恐怖が紙の上に形を取り始めた。
ジュディがウーちゃんを強く抱きしめ、顔を埋めた。
「怖いよぅ…」
と泣きそうな声で言った。彼女の小さな手がぬいぐるみの耳をぎゅっと握り、安心を求めていた。
突然、ラジオから雑音混じりの声が流れてきた。
「先日の…ウェイド・インダストリーズの浄化実験に関連し、本日未明に南部地域で異常な霧が…」
メアリーとティムは驚いて顔を見合わせた。
「浄化実験?」
メアリーの頭に疑問符が浮かんだ。彼女は環境問題についての授業を思い出した。人間の技術が自然を「浄化」しようとして、さらなる問題を生み出すことはよくある。テクノロジーへの過信が危険を招く—彼女はそう生徒たちに教えてきた。今、その危険が目の前に迫っているのではないか?
「…ナノマシンの誤作動が疑われ…近くの…屋内待機を…」
ティムがダイヤルを叩く。
「また電波が…」
彼は苛立ちと不安で呻いた。情報が途切れることが、さらなる不安を掻き立てた。
アールが身を乗り出し、興奮と恐怖が入り混じった表情で叫んだ。
「誤作動って何!?」
メアリーが息子を落ち着かせようと振り返り、教師のような冷静さを取り戻そうとした。
「小さな機械が制御できなくなったの」
と説明したが、彼女自身の声が震えるのを感じた。いつもは複雑な科学現象も簡潔に説明できたのに、今は言葉が詰まる。自分でも完全には理解できていないものを、どう子供たちに伝えればいいのか。
霧が濃くなり、ヘッドライトの光が白い壁に跳ね返る。赤い点が増え、群れをなして微かな音を立てていた。その音は、無数の小さな歯車が回るような、あるいは微細な針が金属を擦るような不気味な音だった。
ヴァージニアが膝の上のスケッチブックに顔を近づけ、鉛筆を走らせながら声を震わせた。
「見たことない赤い光…何か怖い光…」
彼女のスケッチブックには、いくつもの小さな赤い点が描かれていた—細部まで正確に捉えられた粒子の動き。彼女は自分でも気づかないうちに、観察者となり、恐怖の中でも現実を記録していた。
ティムが深くため息をつき、両手でハンドルをきつく握った。
「ただの光だろ」
と彼は言い直すが、掌が汗で湿っていた。彼の農業の知識も、自然との共生の経験も、今目の前で起きていることを説明するには全く役立たなかった。
メアリーは夫の不安を感じ取り、子供たちに動揺を見せないよう努めた。息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「深呼吸して」
彼女は自分自身に言い聞かせるように囁いた。いつも生徒たちに言っていた言葉だ。「まず呼吸を整えて、それから考えよう」と。今も同じように、家族を守るために冷静さを失ってはならない。
アクセルを踏むとエンジンが唸り、タイヤが濡れた路面を擦った。遠くでカエルの鳴き声が一瞬聞こえては消え、アールが顔を上げた。
「カエルだ」
と呟くが、その声は霧に呑み込まれた。
代わりに、低い震動が地面から伝わり、全員の体を震わせた。その揺れは軽い地震のようでもあり、同時に何か大きなものが進む足音のようでもあった。
メアリーの脳裏には、この振動は地震なのか、それとも別の何かなのか。彼女の手が無意識に助手席のドアの取っ手を握りしめていた。
「ティム、もっとゆっくり!」
と彼女は声を上げ、子供たちに目をやる。
と囁き、ティムの肩に手を置いた。ティムはメアリーの手の温もりを感じ、速度を落とした。
「分かった。ゆっくり走るよ」
と低く答えた。彼の声に震えはなかった—恐怖を押し殺し、家族を守るという一点に集中していた。
彼はハンドルをしっかりと握り、徐々にスピードを落としながら霧の中を慎重に進んだ。メアリーは後ろを振り返り、子供たちに微笑みかけた。
「大丈夫よ、みんな。お父さんがいるから」
彼女の言葉に、ヴァージニアとジュディは少し安心した様子で頷いた。しかし、アールの目は霧の中の赤い光を捉えたまま離れなかった。彼の理性的思考は、この現象を理解しようともがいていた。
「ママ…あれ、ナノマシン?雑誌に書いてあったけど、こんなの想像してなかった」
アールの問いには科学への渇望と恐怖が混ざっていた。
メアリーは答えを持っていなかった。大学で学んだことも、授業で教えたことも、今目の前で起きていることの説明にはならない。
「何があっても、家族は一緒よ」
彼女は強く言った。その言葉は子供たちのためであると同時に、彼女自身を支えるためのものでもあった。彼女は静かに、首元のペンダントに触れた—ティムとの約束の象徴。どんな嵐が来ても、二人で乗り越えられる。
ティムは前方の霧に目を凝らし、何かの形が見え隠れするような気がした。霧の向こうで揺らめく赤い光に、すべての家族が不安の目を向けていた。しかし、その恐怖の中にも、彼らは互いの存在から力を得ていた。