第1話 ドライブの始まり
時間: 2025年6月20日、土曜日の朝8時17分
場所: ロンドン市内、タワーハムレット地区、マクレーン家の車庫
錆び付いた車庫のシャッターが、抗議するような軋み音を立てて持ち上がると、隙間から差し込んだ朝の光が埃っぽい暗がりを鋭く切り裂いた。シャッターを押し上げたティム・マクレーンは、手のひらに残る金属のひんやりとした感触を確かめるように指を擦り合わせた。ガレージの奥で鈍く光るシルバーのミニバンは、数ヶ月前に次男のアールが自転車で突っ込んだ時の凹みをドアにくっきりと宿していた――それは、この家族のささやかな日常の記憶が刻んだ痕跡だ。
「よし、これで出発できる。今日は天気も良さそうだ。ドーセットでのんびりできるぞ」
ティムの声には、農家育ちの彼らしい頑健さとは裏腹に、どこか努めて明るく振る舞うような響きがあった。白髪が混じり始めた短い黒髪の下で、彼の目は一瞬、何かを探るように灰色の空を眇め、すぐに家族へと向けられた。
助手席の窓から、メアリー・マクレーンは突然周囲の風景に気づいた。歩道を歩く老人の連れたコーギーの首輪の鈴が、チリン、と乾いた音を立てて朝の静寂を引っ掻いた。その音に弾かれたように、すぐそばの街路樹からカラスの群れが一斉に飛び立った。数は異常に多く、羽ばたきの音が空気を不快に掻き乱す。黒い羽が灰色の靄の中で渦を巻き、まるで不吉な前兆のように乱舞するのを、メアリーは息を詰めて見つめた。
心臓が不意に掴まれたような、嫌な感覚が胸に広がった。ロンドン東部の中学校で理科を10年近く教えてきた彼女は、自身の直感を無視できなかった。実験器具の僅かなひび割れが致命的な失敗に繋がるように、日常の風景に混じる些細な歪みが、警鐘のように感じられる。カラスの異様な動き、ティムの不自然な明るさ、そして空気そのものに漂う、言葉にならない重さ――。彼女は無意識に眉を寄せ、強張った自分の顔がサイドミラーに映っているのに気づいた。首筋のあたりが粟立つような感覚が消えない。
「落ち着いて、メアリー。あなたは教師だったのよ」
彼女は小さく息を吸い込み、震えそうになる指先を隠すように膝の上で握りしめた。根拠のない不安を、いつものように論理でねじ伏せようとしたが、心の片隅で警報が鳴り続けているようだった。
「何かおかしい」
彼女は声に出した。栗色のポニーテールが肩で跳ね、首元の銀のペンダントが朝日に輝く。結婚10周年の記念日、ティムが「どんな嵐も二人で乗り越えよう」と囁きながら贈ってくれたもの。メアリーの指がふと冷たい金属に触れ、その感触が彼女を現実に引き戻した。
「ママ、まだ?」後部座席から長男アール(12歳)の声がした。タブレットの画面に夢中で、指が目まぐるしく動いている。その隣では、長女ヴァージニア(10歳)がスケッチブックに何かを描き込んでいた。彼女の繊細な指先が、窓の外の異様な光景を捉えているのかもしれない。一番下のジュディ(5歳)は、ピンクのウサギのぬいぐるみ「ウーちゃん」を抱きしめ、退屈そうに窓の外を見ていた。
「もうすぐよ」メアリーは努めて穏やかな声で答えた。「パパが荷物の最終チェックをしてるから」
ティムが最後の荷物――古びたクーラーボックス――をトランクに押し込み、力強くドアを閉めた。その音で、メアリーは思考の淵から現実に引き戻された。
「さあ、出発だ!」ティムは運転席に乗り込み、エンジンをかけた。ミニバンは唸り声を上げ、ゆっくりと車庫から路上へと滑り出した。ロンドンの喧騒の中へ。しかしメアリーの胸の中のざわめきは、まだ消えてはいなかった。
エンジンが低く唸り、車体が震える。白い排気ガスが朝霧に溶け込み、バックミラーに映る家族の姿をティムは一瞬見つめた。
「良い時間を過ごそう」
しかし、再び遠くでカラスの鳴き声が聞こえ、ハンドルを握る手に力がこもる。
「何か変な感じしないか?」
と彼は低く問いかけた。
後部座席のヴァージニアはスケッチブックを胸に抱き、金髪が朝日に輝いていた。十歳の彼女は、学校では「夢見がちな子」と呼ばれることが多かった。メアリーは昨年のクリスマスに、特別な厚手のスケッチブックと色鉛筆を娘にプレゼントした。それ以来、ヴァージニアはその画材セットを小さな紫色のバックパックに入れて常に持ち歩いていた。絵を描くとき、彼女は周りの音が聞こえなくなるほど集中し、指先で見たものを紙に描き出していく—そこは誰も傷つけない、安全な場所。
「森で絵をいっぱい描きたいな」
彼女の声は柔らかく、彼女の頭の中では既にキャンバスに松の木々、小川のせせらぎが広がっていた。指が窓に触れ、曇ったガラスにハートを描く。
窓の外では、カラスたちが上空で奇妙な円を描いていた。動物はいつも何かを感じ取る—ヴァージニアはそう信じていた。彼女の先生が「動物には人間より鋭い感覚がある」と教えてくれたことを思い出す。
「あのカラス、何かを見たのかな?」
彼女は声に出した。心の中では別の疑問が渦巻いていた。なぜ胸がこんなに締め付けられるのだろう?なぜ空気がこんなに重く感じるのだろう?スケッチブックの上で指が震え、彼女はそれを隠すように鉛筆を握りしめた。
「ただの風よ」
メアリーは答えたが、彼女自身の言葉に確信はなかった。説明の途中で自分でも納得できないとき特有の違和感があった。彼女は後ろを振り返り、娘の不安げな表情を見た。ヴァージニアはいつも敏感だった—他の子供たちが気づかないことに気づく子。メアリーは微笑みを浮かべ、
「森に着いたら、あなたの好きな場所を見つけようね」
と言った。その言葉には、これから何が起きても、娘の心の世界を守りたいという思いが込められていた。
アールは隣でタブレットPCの科学雑誌に没頭していた。画面には「特集:ナノマシン革命—微小ロボットが世界を変える」という見出しが大きく表示されていた。12歳ながらデジタル機器の扱いに長けた彼は、指先ひとつでページをスクロールし、科学者の笑顔が輝く写真を拡大した。学校の理科クラブでプログラミングを学んでいる彼にとって、タブレットは教科書よりも使いやすい道具だった。
「ナノマシンって何だろ? すごい小さなロボットなんだよね」
と窓の外を見上げながら呟いた。好奇心に満ちた茶色の瞳は、朝の景色よりも画面のグラフに釘付けになっていた。メアリーは息子の知識欲と技術的センスを誇らしく思った。授業で最前列に座る生徒たちと同じ輝きがアールの目にはあった。
一番後ろのシートでは、ジュディがぬいぐるみのウサギと会話していた。金髪のツインテールが揺れ、ピンクのリボンが朝日に光る。
「ピクニック楽しみ!ピクニック楽しみ!」
と口ずさみ、
「ドーセットに行くんだよ、ウーちゃん!」
市内を移動中、ティムがラジオのダイヤルを回すと、掠れた声が断片的に聞こえた。
「ウェイド・インダストリーズのナノマシン実験が…」
と途切れ、雑音に混じって
「ナノマシンが…異常…隔離…」
という言葉が断片的に響いた。
アールは興味を持った様子で顔を上げた。タブレットの画面をすばやくタップして、ニュースアプリを立ち上げる。
「ほら、さっきの特集と同じだ!検索してみよう」
彼の指が画面上を踊るように動き、「ウェイド・インダストリーズ」「ナノマシン」「実験」のキーワードを入力したが、電波状況が悪く、読み込みが進まない。彼は少し苛立った表情で画面をタップし続けた。
「電波が悪いな」
とティムは眉を寄せてダイヤルを軽く叩いた。農場で機械を扱ってきた経験から、何かが正常ではないと感じ取っていた。
メアリーは身を乗り出し、
「もう少し聞こえるように」
と言ったが、雑音に飲み込まれるだけだった。「ナノマシン」という言葉に彼女の科学者としての直感が反応した。微細な機械—授業でよく例に出した話題だ。制御できなくなったら何が起こるのか…彼女の脳は急速に複数のシナリオを描き始めた。胸が締め付けられる思いがした。「子供たちに何かあったら…」そんな考えが頭をよぎると、喉が乾いた。
ミニバンがA31号線へと進み、ロンドンの喧騒が遠ざかっていく。風に混じる異質な匂い—草や土の自然な香りではなく、どこか金属のような微かな臭気—がティムの鼻孔をつついた。
「なんか妙な匂いだ」
彼の指がハンドルを強く握りしめ、白くなった。
ヴァージニアも同じ匂いを感じていた。彼女の鼻は敏感で、匂いを嗅ぐと頭の中に色が浮かぶことがあった。今日の空気は灰色と赤の混ざった色に見えた—見慣れない、警告のような色調。彼女はバックパックからスケッチブックを取り出し、色鉛筆を広げて、その奇妙な色を紙に描こうとした。赤と灰色を重ねてみたが、空気に漂う不穏な色合いをうまく描けない。
「おかしな色、これ描けないよ…」
と彼女は小さく呟いた。
ティムはバックミラーに映る家族の表情を一人ずつ確認した。何があっても守る、それが彼の使命だった。メアリーもまた、子供たちの安全のみを考えていた。
「気をつけて運転して」
彼女の囁きには、これから起こる何かへの予感が宿っていた。彼女は自分の不安がヴァージニアに伝わっていることを感じ、意識的に呼吸を整えた。子供の頃、父が「心配事があるなら3回深呼吸」と言っていたことを思い出す。朝の教室で、テスト前に落ち着かない生徒たちにも同じことを教えていた。今は自分が深呼吸をする番だ。「子供たちには不安な顔を見せないで」と自分に言い聞かせた。
外を見やると、水平線上に血のような赤い光が断続的に点滅していた。その光はまるで警告のように、家族の穏やかな時間を静かに侵食していくようだった。
ティムとメアリーは一瞬視線を交わしたが、言葉にはしなかった。二人の間で共有されたのは、異常な何かが始まっているという確信だけだった。メアリーは深く息を吸い込み、心の中で家族への祈りを唱えた。