第二十八話 わたしのかわいい坊や
カモメたちは船員に向かって空中で止まっているかのように飛んでいる。船員が何かを投げた。それを一匹のカモメがくちばしでキャッチする。また、何かを投げる。おそらくはパンの耳だろう。カモメが宙でくわえる。
パンの耳が無くなると船員はなにくわぬ顔で去って行った。いつもそうしているんだろう。カモメたちも分かってる。エミーリアは僕にニコッと笑う。
「私たちもやってみない?」
そう言うと長方形のサンドイッチを僕に手渡す。自分の手にあるサンドイッチのパンが引き剝がされる。エミーリアはハムと野菜が残った方を半分に折って二口三口で平らげる。
ピクニックバスケットを閉じ、パンを片手に船員がいたハンドレールへ向かった。カモメは逃げようとしない。背よりちょっと高い所を行ったり来たりしている。エミーリアはハンドレールに立つとパンをちぎり、つまんで高々と掲げる。一匹のカモメがそれに答えた。
エミーリアの指先に羽ばたきながら近づくとパンをくちばしでついばみ、離れて行く。エミーリアの満面な笑み。
「見た? カケラ!」
僕は、うん、とうなずいた。船員はパンの耳を投げていたけどエミーリアは手渡しであげた。
「カケラもおいで。楽しいよ」
ハンドレールへと向かう。普段僕は魔物と戦ったり、逃げたりしていた。ヘルトラウザ以外で他の種族と触れ合うなんて考えられない。僕はハンドレールに立つとエミーリアを見上げた。エミーリアは、さぁって顔をしている。
僕はサンドイッチからパンを剥がすと残った一方を口の中に詰め込んだ。むしゃむしゃ多気ながら手にあるパンを小さくちぎる。指につまんで高々と上げると一匹のカモメが近づいて来た。
僕の指の前で羽ばたいてホバリングすると滑空してパンをくちばしでさらっていく。上手くて来た! エミーリアは、上手、上手と手を叩いて喜んでくれた。
☆
「カケラ。わたしのかわいい坊や」
誰かが僕を呼んでいる? この声。聞き覚えがある。あ、そうか。僕は寝てしまっていたんだ。声の主に焦点を合わす。デッキに立つその姿はやっぱりヘルトラウザ。
大きく丸い頭のそこら中に目があり、所々から髪の毛が生えている。体も手も足も、どうやってその大きな頭を支えているのだろうと思うぐらい細い。指一本一本も細く、そのうえ箸のように長かった。
「ごめんね。わたしのかわいい坊や。わたしはもう力になれないの」
え、どういうこと? ずっと一緒じゃないか。バジリスクの時も力を貸してくれただろ。ヘルトラウザの幾つもの目がうつむく。僕はヘルトラウザに育てられたからヘルトラウザの感情が何となく分かる。ヘルトラウザは悲しんでいる。
はっとした。僕はダウラギリのダンジョンボスと相性が悪いから敬遠していた。けど、それは見当違いだった。ダウラギリのダンジョンこそ僕に最も相性がいい。なんたって“知恵の果実”の試練、バジリスクはヘルトラウザのスキルこそが攻略方法だった。
「そんなこといわないで。僕にはヘルトラウザが必要なんだ。ヘルトラウザがいなければ僕はどうにかなっちゃう」
「大丈夫よ。わたしのかわいい坊や。あなたにはもう、エミーリアがいる。彼女を頼りなさい」
「エミーリアを?」
「そうよ」
僕にはヘルトラウザが喜んでいるように見えた。僕はなぜかそれが許せなかった。
「なんでだよ。なんでそんなこと言うんだ。いやだ。エミーリアは僕を知らない。僕もエミーリアをしらない。ヘルトラウザみたく接するなんて出来ない」
僕が怒っているのにヘルトラウザは微笑んでいるようだった。
「さようなら。わたしのかわいい坊や。わたしはあなたを誇りに思ってる。あなたならきっと出来るわ」
そう言うとヘルトラウザは陽炎の中に消えていく。
「だめだ。行かないでぇ! おいてかないでぇ!」
呼び止めようと身を起こした。あれって思った。ヘルトラウザがいた気配がまるでない。静かだった船はまるで戦場のようだった。慌ただしく行きかう船員、何人かはマストに登っている。
僕は寝ていた。さっきのはビジョン? 横でエミーリアも寝ている。僕のバックパックに寄り掛かり手を枕にし、動かなかったけど目だけを開けていた。
「どうしたの? カケラ」
「あ、いや。ち、ちょっと、」
多くの働く船員の間を、小柄な女性が歩いている。そう、あの人は見覚えがある。なんていいタイミングだ。
小柄でちっぱい、細マッチョの子。思ってた通りビキニアーマーを着てた。背中に刀を背負っている。そのかっこからパーティの職はおそらくシーフかその上のローグ。
「あ、あの子」
僕は指差す。ヘルトラウザのビジョンを見て飛び起きたことを小柄な細マッチョの子のせいにした。エミーリアは、あら、とゆっくり身を起こす。細マッチョの子はというと僕に指差されたのに何かを感じたのだろう、僕の方を振り向く。お互いそこにいることを認識すると細マッチョの子は踵を返し、もと来た方へ戻って行く。
「ブリタニーに知らせに行ったようね」
ああ、と気のない返事をしてしまう。もう細マッチョの子は忘れてた。気になっていたのはヘルトラウザの言葉。ヘルトラウザはエミーリアを頼りなさいと言った。けど、どうして? 僕はヘルトラウザにエミーリアのことを何も知らないと言った。エミーリアも僕と昨日今日会ったばかり。僕のことを何も知らない。
それにも増してヘルトラウザ。彼女こそエミーリアを知らない。それなのに頼れとは。
ヘルトラウザのビジョンはもしかして僕の潜在意識が作り出したのかもしれない。あれは僕の願望?
僕はエミーリアに気付かれないようにバックパックの下にある秘密のポケットに手を当てる。ヘルトラウザは僕にさよならを告げた。
ほっとした。ヘルトラウザの魔石はちゃんとある。
魔石が消えることなんてないのに消えてなくなっているって悪い考えが頭をよぎっていた。やはりビジョンは僕の妄想だった。それは僕の願望というより、エミーリアに魅かれていく自分への戒めだったのかもしれない。
エミーリアが立ち上がった。ぺタソス帽に赤いゴシックコート、革のズボンにブーツを履いた女性が僕の方へとやって来る。後ろにさっきの小柄な細マッチョをはじめ、数人の女性を引き連れている。あの、なんて言ったか貴族崩れのおっさんの姿は見当たらない。おそらくは船室で大人しくしている。
メガネをかけてる。まるで魔法学者のようないでたち。それこそブリタニー・コニーの本来の姿。ローズ・サージェントが着ていた黒のベルスリーブワンピースも似合っていたけど、やっぱりこっちの方が彼女らしい。
ブリタニー・コニーは大陸に渡って、極東のバングウェルにあるダンジョン都市メルセダリオを目指すと言っていた。同じ船に乗るだろうから、それまでに彼女のクラン、バラッドに入るかどうか返事が欲しいとのことだった。
正直、答えは何度聞かれようとも決まってる。ノーだ。でも、面と向かって断ることが出来ない。
「ごきげんよう。カケラ・カーポ君」
「こ、こんにちは。ブリタニー・コニーさん」
ブリタニー・コニーは僕に笑顔を向けるとエミーリアの前に立つ。
「またお会いできて光栄です。エミーリアさん」
「私もよ。ブリタニーさん」
二人は握手をする。バサッと音がした。なんだろうと音の方を見るとメインマストに縛り付けられていた帆が降ろされていた。他の帆も次々と降ろされていく。
「あら、出航のようね」
ブリタニー・コニーは、ええ、と答える。エミーリアは僕に向き直った。
「カケラ、マロモコトロの皆にお別れの挨拶をしましょう。皆、あなたを待っている」
僕はエミーリアとブリタニー・コニーを交互に見た。エミーリアは暖かい笑み。ブリタニー・コニーは嬉しそうにうんと頷く。僕は二人にエスコートされ、ハンドレールに誘われる。
見下ろすと港は人で埋まっていた。僕が船から姿を現したことで歓声が上がり、どこからともなく僕のコールが始まる。帆船はというとゆっくりと動き出し、岸壁を離れる。エミーリアもブリタニー・コニーも手を振っていた。風に舞う色とりどりの紙テープ。港の皆も手を振っている。
やっと受け入れてもらえたのに、さよならだなんて。
僕はグッとくる想いを振り払うように一生懸命手を振った。




