2.逆転
ミレーヌ・クロスランド、現在は五歳になって間もない頃か。
姿見の前で自分を確認しながら、『ミレーヌ』の記憶を思い出していく。
五歳の『ミレーヌ』は記憶も心も曖昧で、ふんわりとした情報しか伝わってこない。
十八歳の私の記憶と心の方が強いんだろうな。
だけど『国内屈指の美姫』と言われた片鱗は、もうこの頃から顔に現れてる。
長い黒髪、整った目鼻。
成長すれば美人になるんだろうな、と予感させる顔だ。
「お嬢様、鏡を見て何をなさってるんですか?」
侍女――エイミーが背後から私の肩を掴んだ。
「さぁさぁ、朝食の用意ができてますよ」
「わかったわ、エイミー」
公爵家では、幼い子供は滅多に親と食事をしないらしい。
『ミレーヌ』の記憶に、両親と食事を共にした記憶がない。
食事はいつも子供部屋のテーブルで、エイミーと一緒に取っていた。
冷たいスープにちぎったパンをひたし、それを口に運んでいく。
最近になって『ミレーヌ』はようやく粥からパン食に変わったみたいだ。
エイミーは少し不安気な面持ちで私の食事風景を見つめていた。
食事が終わるとエイミーが告げる。
「一時間したら、作法の先生がいらっしゃいますよ。
それまでごゆっくりなさってください」
ゆっくりか。私はどうしたらいいんだろう。
無実の罪で処刑されたと思ったら、赤の他人として『人生をやり直せ』と言われてしまった。
たぶん、このまま何もせずに生きていたら、再び私は邪神の巫女になって討伐されてしまう気がする。
そして『クラリス』は、クリスティンとジェームズ殿下の陰謀で命を落とす――ショーン殿下と共に。
ショーン殿下を救うには、この未来を変える必要がある。
そのために、私はどう生きたらいいんだろう。
私はぼんやりと窓の外を見ながら、十三年後の悲劇をどう回避しようか頭を悩ませた。
****
作法の教師がやってきて、私の授業が始まった。
五歳相手でも歩き方や貴族流の挨拶の仕方など、基本から厳しく躾けられた。
こうしてやってみると、『まっすぐ歩く』のも大変なんだな……。
厳しいと言っても、体罰がある訳じゃない。そこはまだ救いがあった。
ただちょっとでも教えられた通りにできないと、最初からやり直しになるだけだ。
一時間も授業を受けるとくたくたで、私は床にへたりこんでしまった。
「……まぁいいでしょう。今日は比較的良くできた方ですね」
「あ、ありがとうございます。ホースダル先生……」
眼鏡をかけたホースダル先生は、微笑みもせずに立ち去った。
五歳から、こんな厳しい教育を受けるのか。
公爵令嬢って大変なんだなぁ。
優雅にお茶を飲んで過ごしているだけかと思ったけど、裏ではこんな努力を重ねてたのか。
傍で見ていたエイミーが笑顔で私に告げる。
「ホースダル夫人に褒められるだなんて、今日はよく頑張られましたね」
その労いの言葉が嬉しくて、私はエイミーに抱き着いて泣いてしまった。
エイミーは黙って優しく背中を撫でてくれていた。
****
泣き疲れて寝てしまったのか、気が付くと夕方だった。
ベッドに寝かされていた私の顔を誰かが覗き込んでいる。
「おや、目が覚めたかい」
「……お父様」
柔らかい栗毛色の髪の毛、温かい慈愛に満ちた瞳。
そこには『冷酷無情の公爵』と呼ばれた面影なんて微塵もない、一人の父親の姿があった。
お父様の手が私の額を撫でる。
「今日は泣き言を言わず、最後まで授業を受けたんだって?
ホースダル夫人もミレーヌのことを褒めていたよ。
さすが私とオリビアの一人娘だ」
優しくて暖かい手、その心地良さで思わず頬が緩んでいく。
「私はお父様の娘ですから、当然ですわ!」
私の口が、自然と言葉を漏らした。
そうか、幼い『ミレーヌ』はお父さんが大好きだったんだな。
だから苦しくても、厳しい授業に頑張ってついて行こうとしたんだ。
五歳でも立派に公爵令嬢であろうとする、そんな女の子が『ミレーヌ』なんだな。
お父様が立ち上がって私に告げる。
「少し果物を口にしたら、もう少し寝ておきなさい」
「あの! お母様の具合はいかがですか?!」
またも私の口が言葉を勝手に漏らす。
お父様は辛そうな微笑みで静かに応える。
「今日はまだ会えない。
また体調がよくなる日が来るといいね」
「そう……ですか」
お父様はエイミーに指示を出したあと、私の部屋から立ち去っていった。
果物の小皿を食べ終わった私は、またベッドに横になっていた。
なんだか頭の中で、十八歳の私と五歳の私が混ざり合っていく。
もう私が『ミレーヌ』なのか、『クラリス』なのかわからなくなってきていた。
その晩から私は高熱を出し、しばらく意識を失った。
****
夜中にふと目が覚める。熱はまだ、引いていないみたいだ。
真っ暗な部屋の中で自分の心を確かめる。
私は誰……?
もう『クラリス』だった記憶がぼんやりと遠くにある。
自分が『ミレーヌ』だという自覚がだんだんと強まってきていた。
大好きなお父様と会話をすることで、『ミレーヌ』の意識が強く出たんだろうか。
それだけ『ミレーヌ』にとって、父親は大きな存在だったのだろう。
『クラリス』の魂が『ミレーヌ』の魂と混ざり合い一つになっていく――そんな錯覚さえ覚えた。
ああ、また意識が遠くなっていく――。
私は再び熱にうなされながら、微睡の世界へと戻っていった。
****
三日目の朝、私は『ミレーヌ』の自覚をもって目覚めた。
どうやら十八歳の『クラリス』より、五歳の『ミレーヌ』の方が意志が強かったらしい。
『クラリス』の記憶はあるので、なんだか不思議な気分だ。
一度は『クラリス』に負けかけた心が、お父様に会うだけで巻き返すだなんて。
私、どれだけお父様を好きなんだろうか。
五歳の子供に負けるなんて、それだけ『クラリス』は心が弱かったのかなぁ。
これで人生をきちんとやり直せるのか、不安になってくる。
まだ侍女たちも近寄ってこない早朝、私は一人で『クラリス』の記憶を眺めていった。
どうやら私は十年後、『邪神の巫女』として目覚めるらしい。
そしてお父様と邪神復活を目論み、ショーン殿下に討伐される。
『クラリス』の記憶には、ショーン殿下から伝え聞いたその時の真相もあった。
お父様と私は、邪神の力でお母様を蘇生させようとしていたという。
お母様は一年後に命を落とすという話も『クラリス』は聞いていた。
――たった一年しか余命がないのか。
死んでしまった人を蘇らせたいだなんて、それだけお父様と私にとってお母様は大切な人だったのだろう。
本当なら今すぐにでも聖教会の聖女に治癒を頼みたいところのはず。
だけどこの時期、先代の聖女は老衰で他人を治癒できる力が残ってなかったらしい。
一年後、『クラリス』とクリスティンが次の聖女として指名されるけど、幼い二人は『治癒の奇跡』が使えない。
間が悪い……と言ってしまえばそれまでなのだろう。
だからなのか、一年後にお母様が亡くなってからは、お父様は聖教会と敵対するような行動が増えたらしい。
邪神信仰に手を染めたのも、きっと聖神様への反抗心もあったんじゃないかな。
私はハッと気が付いた。
――もし、一年後にお母様が亡くならなければ?
お父様や私が邪神復活を目論む動機がなくなる。
そうすれば討伐されることもなく、ショーン殿下が『クラリス』と婚約することもない。
そうなればショーン殿下が暗殺されることもなくなるはず。
だけど、どうやって?
今の私は『クラリス』の記憶を持つ五歳の女の子。
そんな私に、お母様を救う方法があるだろうか。
しばらく考えて、ひとつの可能性に辿り着く。
今の私は、守りと治癒が得意だった『クラリス』の記憶と心を持っている。
もうほとんど私に混ざってしまっているけれど、立派な聖女の力があるはずだ。
つまり今の私になら、お母様を救えるかもしれない!
エイミーが部屋にやってくると、私はベッドから飛び降りて告げる。
「エイミー! お母様にお会いできるかしら?!」
驚いた様子のエイミーが、微笑んで頷いた。
「ご心配なさっているご様子でしたので、是非お顔をお見せになってください。
――その前に、お召し替えを致しましょうか」
私は力強く頷くと、ネグリジェを脱いでドレスへと着替えていった。