西陣言うたら昔は勢いおましたんやでぇ~
おはようございます。
ようやく秋らしくなってきましたね。
夏が暑かっただけに涼しくなると体調崩すのでお気をつけ下さい。
ごきげんよう!
江戸の頃、大阪は「食い倒れ」京都は「着倒れ」と言われる街でもありました。
食い倒れとは言葉通り食べ物にお金を使って資産を使いつぶす。
着倒れとは言葉通り着る物にお金を使って資産を使いつぶす。
そう、京都は江戸の頃ファッションの町でもあったのです。
この時代の事ですから服といえば呉服、呉服と言えば着物、京都で着物と言えば西陣織。
元々は平安京が出来る前に山城の地に住み着いた帰化人の末裔である秦氏(太秦の地名の氏族)が
大陸より伝えた布織の技術が最初で応仁の乱の西陣の焼け跡地に一旦京都を離れ離散した職人達が集まって西陣が織物産業の中心になって行きます。
お分かりになるとは思いますが、戦闘終わってすぐの跡地なので誰も住みたがらないのと、地権者が居なくなってるので即住めたと言うのもあります。これがもし東陣が焼け野原になっていたら東陣織になっていたかも知れません。
西陣織の特徴の筆頭が「多品種少量生産」です。これにより同じものがほぼ無いのでお金持ちが買っても「何処かで会っても同じ着物生地で被らない」事です。
このプレミア感で一反(着物一枚作れる生地の単位)で千両越えた事もあったそうです。
二つ目の特徴が「織り方が複数ある事」です。経錦 緯錦
緞子 朱珍 紹巴 風通 もじり織、本しぼ織
ビロード、絣織、紬 等があり、その中でも、織り子の爪を櫛の歯の様にギザギザにして一本づつ糸を図案を見ながら織り上げる爪掻本綴織 は西陣織の中でもっとも技術力を必要とする最高級着物生地と言えるでしょう。この織り子さんは織る、御飯食べる、お風呂入る、トイレ行く、寝る以外何もしなくて良いとまでされておりました。
(織り機には、綴機、手機、力織機…機械動力の3つがあります)
西陣織も明治維新後、技術者がフランスに渡りジャガード織りなどの西洋織物の技術を学び、歴史の時間に習ったでしょうけど、当時の我が国の輸出品である精緻な絹織物の輸出品の魁として近代化に成功し更に発展していきます。
西陣織も最初は簡単な生地だけでしたが、技術と品質の向上により能衣装、打掛、几帳、帯、きもの、金襴などを生産出来る様になり隆盛を極めます。
ww2後でも西陣織は鼻息荒く商売しておりましたが、世間の人々が高い着物より動きやすく手軽に買える値段と言うこともあり洋服の普及が加速し売れ行きが低迷します。
しかもバブル期に中国や他国で安く織らせると言う事をしたばかりに技術流失し価格でも負け、青息吐息な状態が現代の西陣織の現状です。
それでも本物の西陣織をそれなりの値段で出す為に、ネクタイ、バッグ、ショールを又、安くはないですが人目に付きやすいインテリア、緞帳などを製作したりしています。
「奢れる平家ならぬ奢れる西陣」の先行きの見通しの甘さが、今の状態を招いているのは明白だと思います。
実際バブル期の「よその国で人安ぅ使こて作らせたらエエやん」は西陣の傲慢以外何物でもないと私は思います。(資本家である織元に織り子が何か意見できたかどうかは内部の人間でないので判りかねますが)
その反面、西陣の隆盛のお蔭で京都の食文化(パン、喫茶、洋食等)や祇園の花街あそび等が盛り上がり育った事は事実です。
売り手の織元は兎も角、西陣織職人は高齢化の一途をたどり、後継者を育てる資金も余裕も無いのが現状です。今上天皇陛下の即位式典にはまだ西陣の織物が間に合うでしょうけど、次の世代はどうなるか判らないのが現状の厳しさを物語っていると思います。
何か起爆剤になる事を西陣織業界が他業界も巻き込んで行えれば、良い方向に変わるかも知れないなと祈念して止みません。
西陣はねぇ~
戦中戦後の鼻息の荒い時の話を間接的に聞いているのと、バブル期のあの言葉を織元に近い人から聞いているので余計思う所があり、批判的な書き方になってしまいましたが、西陣織には罪はありませんので




