第六話 努力と誇り
私たちはトルコを旅立って、フタコブラクダであるタケの背中に跨りながら長い旅を続け、2日前、ついにイランへ到着した。
イランに到着してからは、この国の名所であるエマーム広場やチェヘル・ソトゥーン宮殿など、とにかくイランの名所という名所を回った。
ひょんな事に、今まで東京暮らしで何にも興味を示さなかった私が、イランの古代の建物を見て美しいと感じている。そういう思考に至った自分でさえ、この感覚を変なものとして捉えていた。
でもそんな新鮮な空気の中、今後の旅にまで暗雲を漂わせるような事が、私のいない間に起きていた。
タケをつないでいる紐についていた鍵の穴に、無理やりこじ開けようとした傷跡がいくつもついているのだ。
その傷跡からして、本当に無茶苦茶に開けようとしたのだろうから、きっと計画的ではなかったと思うのだけど・・・
それに、タケはそう簡単にほかの人間に気を許すような、そんな軽い駱駝ではなかった。
タケは、自分がどうされかけていたのかを分かっているのだろうか、ものすごく怒ったような目をして、それ相応の声をあげしばらく必死になって何かを伝えようとしていた。
これから見ても、タケはきっと、その不審者に対して、駱駝の、怒りの本性を露にしたに違いない。
この調子なら、またその不審者がやってきても蹴散らせそうなものだった。
けれど、向こうの人間が一人とは限らない。
もしもう一度くるなら、どんな馬鹿な人間でも同じ手では来ないはずだ。
仲間と一緒に来たり、人間の知能を使って、駱駝が抗えないような手を使ってくるかもしれない。
そう思って少し危険性を感じた私は、ホテル側に訴えてみた。
「どうやら、うちの駱駝が盗まれそうになったのです。防犯を強化してもらえませんか」
「あぁ、ここら辺は結構いるんですよ、そういうのが。この国じゃ都会ですからね、ここは。・・・任せてください、このホテルは一流ホテルとして語らせてもらってますから、お客様の大事なものが盗まれては、その名が汚れますのでね」
この陽気で、一見頼りなさげなホテルマンは、胸を張り、笑いながら言った。
まぁここまで豪語できるのなら、任せておいても、心配はなそうだと思った私は、よろしく頼むと念を押して、部屋に戻った。
部屋の窓から動物小屋を見下ろしてみると、早速あのホテルマンが手配したのか、防犯強化の作業を始めているようで、作業員のような人が5人ほど、小屋を取り囲んで、作業を始めていた。
それを見届けた私は、寝る前の準備もそこそこに、ベッドへ滑り込んでいった。
・・・朝になったようだった。
外では鳥が囀って、窓から入る真新しい柔らかな日差しが私の顔を照らしている。
私はベッドの上で少し背伸びをしたあと、ベッドから降りて、寝間着から洋服に着替えた。イラン用の、大きなスカーフとマントを巻いたような衣装だ。
まぁこの習慣も、新しいものがいきつかない田舎が未だに主流なのであり、ここら辺の人通りが多く、当然ながら外国人も多いこの場所では、「女性は髪や肌を隠さなければいけない」というのは最低限なものになっている。
イスラム教徒なので、その建前といったところか。
そのあと、私はすぐに動物小屋へ向かった。
昨晩、防犯強化の作業をしていたので大丈夫だとは思うが、念のためだ。
私はまずフロントの人に尋ねた。
「昨晩、防犯対策はしてもらえましたか?」
「はい、作業をさせましたので、ご心配には及びませんよ」
「ありがとうございました」
私はほっと胸をなでおろして、動物小屋に向かっていった。
一見はよく分からないが、よく目を凝らしてみると、あちらこちらに監視カメラの厳しい視線が右と左から送られており、部屋の中では、不審な行動をした場合、アラームが鳴るように設定されていた。
私はいつも通りタケに近寄ってから撫でてみて、無事を確認してから、小屋を出ていった。
昨日は名所を回り尽くしたし、その夜はあぁいう事もあったから、実はあまりゆっくりとした休息をとる事ができていなかった。
というわけで今日は、窓からこの町並みを眺めながら、飲み物を飲んだりこの国や、次に行く予定にしている場所の文化を知るための本を読んでみたりすることにした。
明後日には次の旅へ発たねばならないので、その時のために備えておかねばならない。
それから私は、暖かい日差しがよく当たっている椅子に腰掛けてゆっくりをしていた。
人々のざわめきが下のストリート街から聞こえてくるが、それは大して気にならない。
タケの無事も、あれほど監視が強化されれば完全に保障されたのも同然だ。
向こうだってきっと大人である程度の思考などはできるだろうから、隠れている監視カメラの存在に気づいて、この小屋からはしぶしぶながらも手を引いてくれるだろう。
そう考えていた矢先、私はある瞬間に思わず本を床に落としてしまった。
それというのも、ただ落としてしまったというものではない。外からけたたましいサイレンが鳴り始めたせいだった。
そのあまりの音量の大きさに驚いてしまったのである。
どこからあのうるさい音は聞こえるのか。
それはもう決まっていた。
タケのいる、あの動物小屋しかなかった。
窓から動物小屋を見下ろしてみると、もう野次馬たちがこの音を聞きつけて集まりつつあった。
私も階段を駆け下りて、騒然としている人の群がりの中を潜り抜けて、一番乗りで小屋を開けた。
そしてそこで私の目に入ってきたもの。
・・・この結果には、さすがに閉口してしまった。
タケのところには、少し汚れのついた白い服を着ているわずか12歳程度の少年が、焦った様子で、タケの繋ぎ紐に付けられた鍵を何とか開けようと模索していた。
けれどもその手口はまさにあの鍵穴の傷が物語っているが、相当に乱暴で単純なものだった。
その少年は扉が開けられた事に気づいてこちらを見た。
その目は何とも言いがたいような目をしており、涙が溜めに溜めてあった。
その瞬間に、もっとアッと言わされるような事が起きた。
少年が違う方向を見た隙に、タケがその少年を思いっきり蹴ったのだ。
「いてっ・・・」
少年はその反動で、地べたにしりもちをついて一声あげた。
私はその少年に歩み寄ってみた。
「・・・あなた?昨日もこの鍵をこじ開けようとしたのは」
私は、紐の鍵穴を指差して問いただしてみた。
すると少年の顔はもはや半べそをかいているような状態になり始めた。
「・・・うちにはお金がないんだ、だからこの頭のよさそうな駱駝を盗んで売っちまえば、少しでも生活が楽になると思ったんだよ・・・」
「じゃあ、今まではどうやって生きてきたの?今までもそういう生活を送ってきながらも生きてきたんでしょう」
「観光客とかを相手に、母さんと一緒に物乞いをやってた・・・」
「でもあなたが今やっていたことは、もう物乞いっていう世界を超えてしまったのよ。物乞いは大して規制されていないけれど、これはもう立派な犯罪だもの」
「・・・そんな事、分かってらぁ!・・・でも、こうやって一生飢えてあえぎながら暮らしていかないんだとしたら、死んだ方がずっとマシだって、母さんが呟いてるのが耐えられなかったんだよ・・・。俺ももううんざりなんだ、馬鹿にされて生きていくのが・・・」
少年はあふれるほどの涙を絶えなく零しながら、心底悔しそうに呟いた。
私がその少年に言葉を失って呆然としていると、あとから入ってきたと思われる男性が入ってきた。
どうやら、ここの宿泊者らしい。
その男性は少年と同じ目線になると、口を動かし始めた。
「・・・きみは、私の顔を知っているかい?」
「えっ・・・?・・・あっ、あんた・・・」
少年は、この男性の顔に見覚えがあったかのような反応をした。
そういえば、私もこの人に見覚えがある。・・・そうだ、テレビで見た人だ。
確か、国際的に著名な人だったはずだ。俳優だった気がする。
「知っているようだな。・・・私も昔は、君みたいな生活を送っていたよ。親と一緒に、見知らぬ外国人に物乞いの手を差し出していた」
「嘘だい、だってあんたは有名人じゃないか」
「今はね。でも、なぜこんな私が有名人になれたか、分かるか?」
「・・・知らないよ、そんな事・・・」
「私も、物乞いのまま終わりたくなかった。だから、無我夢中で仕事について、それから自分の志した世界に入った。でも物乞いあがりだと言って、罵る人も少なくはなくてね、なかなか芽が出なかったんだよ。けれど、このまま中途半端に終わるわけにもいかないと思った私は、また猛勉強をしながら、稼ぐためにボロボロになりながら他の仕事も掛け持ちをした。そんな生活を10年以上続けて、やっとこうなったわけだ」
「・・・」
「いいか、馬鹿にされるのが嫌だからといって、何もかも投げやりになるな。馬鹿にされないようになるくらい、人よりたくさんの努力を積むんだ。我慢をするんだ。努力をしていれば、他の人間は、一目おかざるを得なくなる。人の何倍も努力をすれば、必ず自分を罵っている連中を強制的に黙らせる事ができるんだ。そしてそれはすべて、我慢の上に成り立つものなんだぞ。いいか、足を踏ん張って生きていくんだ」
その男性は、その少年をまるで過去の自分を見つめるかのような目で見つめながら、肩を持って言った。
少年は男性の話を聞いている間、まさに真剣なまなざしで見つめていた。まるで私がまったく入る隙間のないようなものだった。
やがてその男性は、尻餅をついたままの少年を立ち上がらせ、少年ともども私の方を向いた。
「この少年は、面白半分にあなたの駱駝を傷つけたりしようとしていたわけではありません。そこはどうか理解してください。だけど、彼がした事は掟から外れた事であり、そう簡単に許されるものではありません。でも彼は、二度とこんな事はしないと思いますので、今回はそれで許してやっては頂けないでしょうか」
男性は、そうやって私に向かって静かに頭を下げた。少年もそれに習って頭を下げてきた。
でも私は、許す許さないの問題の以前に、なぜ今であったばかりの、しかも悪い事をした他人の子供と一緒に謝ってやるなどという事をするのだろうか?
普通ならば、むやみに手を突っ込まないのが無難だとして、みんな高みの見物だろうに・・・。
「あなたは、どうしてこの少年と一緒に謝ろうと思ったのですか?」
「とにかく放っておけなかったのです」
「と、いうと」
「彼は私の押さない頃とまるで同じ境遇です。思わずタイムスリップして昔の自分を見ているかのような心地さえしてしまったほどです。そんな彼を、どうやって放っておけるのでしょうか?」
私はそれ以上、その人に聞き返そうとは思わなかった。
今の言葉で、十分意味が分かったからだった。
"人間くさい"ような雰囲気を漂わせているこの男性の言う事は、妙に説得力があり、私でさえ、たちまちに納得をさせられた。
これがきっと、人間味のある人間と呼ぶに違いない、と私は内心で呟いた。
そして呼ばれてきた警察が、少年を引き取りに来たようだけど、私が帰ってもらった。
被害者が「もういい」と言い張れば、警察も強行をすることができないのだった。
そしてその男性も、少年と少しだけ話すと、いつのまにか去っていった。
少年は私に再び謝り、警察に引き渡さなかった事に礼を言って、走って帰っていった。
その少年の目にはいつのまにか、とてもまぶしく感じる輝きが映っていた。
そして、一時騒然としたこの場も、だんだん野次馬たちも去っていったせいか、落ち着きを取り戻しつつあった。
ホテル側にとってはほとほと頭を抱えるような事になったらしいが、そんな事は他の人とって知ったことではない。
・・・・けれどもこの事件は、想像していたよりも後味のいいものとなっていた。
きっとあの男性のおかげだろうと思う。
あの男性から何かを教えてもらったのは少年だけではない。私も、よく分からなかった『人間』というものの一部分を教えてもらったのだ。
そして事件から2日後、私たちはホテルの部屋を引き払い、次の目的地へ旅立っていった。
その途中で、ペルセポリスに寄った。
ここはその昔、栄華を誇ったもののアレキサンダー大王というギリシアの王に滅ぼされてしまい、その後は柱などの残骸だけが砂漠に佇んでいるらしい。その残骸の壁には、かつての栄華を想像させるような絵も掘り込まれている。
ここで昔、人々が笑って、国を滅ぼされて、泣き叫んで・・・。
世界というのは・・・もしこの世に神がいるとしたら、壮絶に時代を作ってゆくものだ。これがこの形跡だとしたら、本当に凄まじい力だと思う。
それにしても、私はこうやって、見たものに対して感想を述べている。いや、思っている。
日本にいて、ただ実験や検査などをしていた頃は、自分はその為に存在しているのであって、それ以上の事をする意味はないと考えていた。
けれど、今は何かが違っている気がする。現に私はここへ来た時よりも、私は変わっていっている。
少なくとも、旅立ったときよりも、格段に私の中で何かが変わってきているのを、私はひしひしと感じていた。
書き始め:2008、11、12
書き終わり:29008、11、12